2003N11句

November 01112003

 鵯や紅玉紫玉食みこぼし

                           川端茅舎

語は「鵯(ひよどり)」で秋。鳴き声といい飛び回る様子といい、まことにちょこまかとしていて、かまびすしい。そのせわしなさを「食(は)みこぼし」と、たったの五文字で活写したところに舌を巻く。鳴き声にも飛び方にも触れていないが、鵯の生態が見事に浮き上がってくる。しかも「食みこぼし」ているのは「紅玉紫玉」と、秋たけなわの雰囲気をこれまた短い言葉で美しくも的確に伝えている。名句と言うべきだろう。「鵯」で思い出した。辻征夫(俳号・貨物船)との最後の余白句会(1999年10月)は新江戸川公園の集会所で開かれたが、よく晴れて窓を開け放っていたこともあって、騒々しいくらいの鳴き声だった。「今回の最大の話題は、身体の不自由さが増してきた辻征夫が、ぜひ出席したいと言ってきたことで、それならぜひ出席したい、と多田道太郎忙しい日程をこの日のために予定。当日はショートカットにして一段と美女となった有働さんと早くより辻を待つ。その辻、刻ぴったり奥さんと妹さんに支えられて現れる」(井川博年)。このときに辻は、例の「満月や大人になってもついてくる」を披露しているが、兼題の「鵯」では「鵯の鋭く鳴いて何もなし」を用意してきた。合評で「これは鵯じゃなくて百舌鳥だな」と誰かが言ったように、それはその通りだろう。よく生態を捉えるという意味では、掲句の作者に一日ならぬ三日くらいの長がある。が、まさかそのときに辻があと三ヵ月の命数を予感していたはずもないのだけれど、今となってはなんだか予感していたように思えてきて、私には掲句よりも心に染み入ってくる。辻に限らず、亡くなられてみると、その人の作品はまた違った色彩を帯びてくるようだ。『川端茅舎句集・復刻版』(1981)所収。(清水哲男)


November 02112003

 さやけしや小さき書肆の大六法

                           山崎茂晴

語は「さやけし」で秋。「爽やか」の項に分類。例外はある。だが、ほとんどの「小さき書肆(しょし)」の品揃えは恣意的と言ってよいだろう。我が家の近くにも小さな本屋があって、たまに入ってみるけれど、棚は目茶苦茶に近い。取次業者の言うままに、売れそうな本を取っ換え引っ換えしていることだけは分かるが、店主の目というものが全く感じられない。これでは日々の仕事に張り合いがないだろうなと、余計なことまで思わされてしまう。作者はたぶん、さしたる期待もなく、そんな小さな本屋に立ち寄ったのだ。で、ひとわたり店を見回しているうちに、なんと「大六法」の置いてあるのが目に飛び込んできた。分厚い「六法全書」だ。店のたたずまいからして、わざわざこの店に六法全書を求めに来る客がいるとも思えない。でも、それは置いてある。毅然として棚に納まっている。思わず、作者は店主の顔を見たのではなかろうか。その店主の心映え、心意気をまことに「さやけし」と、作者は感じ取ったのである。よくわかる。ところで、六法とは具体的にどの法律を指すのか。あらためて問われると、咄嗟には私には答えられない。調べたついでに書いておくと、憲法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法の六つの法律を言う。また大六法・六法全書は、以上の六法をはじめとして各種の法令を収録してある書籍のこと。分厚くなるわけだが、ちなみにこのように各種法令を網羅して一冊にまとめた法律の本は外国には無く、日本独自のものだそうである。『秋彼岸』(2003・私家版)所収。(清水哲男)


November 03112003

 蜘蛛の巣に頭を突込めり文化の日

                           神生彩史

後も間もないころの句。こういうことは、とくに田舎でなくても起きた。そこらじゅうに、蜘蛛が巣を張っていた。「頭を突込」むと厄介だ。髪の毛がべたべたになってしまい、洗髪する破目になる。「文化の日」を祝おうだなんて言うけれど、蜘蛛の巣だらけのどこが文化的なんだよ、この国は。と、舌打ちしているのだろう。作者の意識のなかには、明らかに新しく制定された祝日への反感がある。ご存知のように、戦前の今日は明治節。明治天皇の誕生日を祝う日だった。♪アジアの東、日出ずるところ、ひじり(聖)の君のあらはれまして、古きあめつち、とざせるきり(霧)を、大御光(おおみひかり)にくまなくはらひ、……という、今日の某国も真っ青な式歌をみんなが歌った。それが敗戦となって、民主主義国家には最もふさわしくない祝日の一つとなり、急遽十一月三日の日付には何の関係もない「『文化』の日」と読み替えることにしたわけだ。関係がないのだから、別に今日を祝日に制定する必然性もないのだけれど、そこはそれ、なんとか明治節の痕跡だけでもとどめておきたいという守旧派の力が働いたに違いない。事の是非は置くとして、戦前の祝日には制定の根拠や必然性があった。ほとんどが神道や皇室行事などに拠ってはいたが、それなりに納得はいった。ところが、戦後は根拠必然性のない焦点ボケの祝日が多くて、祝う気にもなれない。単なる休日と思う人が大半だろう。今月の「勤労感謝の日」などは収穫を神に感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」の読み替えだが、焦点ボケの代表格だ。第一、感謝の主体すらがはっきりしない。こんなに漠然とした祝日の多い国は、日本だけだろうな。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 04112003

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

                           松尾芭蕉

存知『おくのほそ道』の掉尾を飾る一句だ。「行秋」は「ゆくあき」。どんな文集でもそうだが、終わり方、しめくくり方には大いに気をつかう。終わり方如何で、作品全体の印象が決定づけられる。竜頭蛇尾に終われば、それまでの苦労が水の泡だ。よく知られているように、芭蕉は『おくのほそ道』の推敲にはずいぶんと長い年月をかけた。したがって、文中の句に即吟そのままというのは、あまりないだろう。萩と遊女の句のように、まったくのフィクション句もある。この句は大垣の港から二十年に一度の伊勢の遷宮を拝むために、舟で出発したときに詠まれた。すなわち、芭蕉の旅はまだまだ続くわけだが、彼はあえて大垣をもって旅の終着地としている。せっかくの伊勢詣でなのだから、遷宮の様子もレポートしたかったとは思うが、それをしなかった。なぜなら、伊勢を書けば「ほそ道」一巻を貫く思想が崩れてしまうからなのだ。凡俗の徒の営為などは、あっという間に神の懐に吸引吸収されてしまう。「月日は百代の過客にして」の人間としての一種の悟りも、神の前ではちっぽけな考えでしかないだろう。下世話な言葉を使えば、それではヤバかったのである。だから、大垣で止めた。掲句の「ふたみ」が蛤(はまぐり)の蓋と身にかけてあるように、この句には他にも芭蕉の教養と機知と感覚とがいろいろと詰まっている。詳細についてはしかるべき評釈書を参照していただくとして、ここで芭蕉がねらったのは読者をして一巻冒頭の一行目に回帰せしめることだったと思う。だから惜しみつつ惜しまれつつ別れていく人情を、行く秋への惜別の情に巧みに切り換えることで、芭蕉は素早くも個に立ち返っているのだ。つまり、旅立ちのときの個と同じ位置に戻っている。舟が出たのは午前八時ころだというが、早春に江戸を旅立ったのも早朝であった。時間的にも、ぴしゃりと合わせてある。要するに「ほそ道」は円環体に構成されていて、永久に終わりのない読み物なのだ。それもこれもが、この最後の句の工夫にかかっている。(清水哲男)


November 05112003

 啄木鳥に俤も世もとどまらず

                           加藤楸邨

語は「啄木鳥(きつつき)」で秋。くちばしで樹の幹をつつき、樹皮の下や樹芯にいる虫を食べる。日本にはコゲラ、アカゲラなど十種類ほどが棲息しているそうだが、私が子供のときによく見かけたのは何という種類だったのか。ちっぽけで敏捷だったが、よく漫画に出てくるような愛嬌は感じられなかった。汚ねえ奴だなくらいに思っていたので、我ら悪童連もつかまえようという気すら起こさなかった。タラララララと樹を打つ音は時に騒々しいほどで、「うるさいっ」とばかりに石を投げつけたりしたが、むろん命中するわけもない。なんという風流心の欠如。可哀想なことをしたものだ。作者は大人だし風流も解しているので、そんなことはしない。昔に変わらぬ風景のなかで、相変わらずのせわしなさで樹を打つ音を聞きながら、昔とはすっかり変わってしまった人の世を思っている。この風景のなかにいた人たちの多くはこの世を去り、世の仕組みも大きな変化をとげた。俤(おもかげ)も世も、ついにとどまることはないのだ。変わらぬものと変わりゆくものとの対比。よくある感慨ではあろうが、変わらぬものとして、山河などではなく啄木鳥の音をもってきたところが手柄だ。心に沁みる。そういえば、今度の故郷行では啄木鳥の音を聞くことがなかった。昔はあれほどいたのに、やはり近年では林業も盛んになった土地ゆえ、樹々が伐採されるたびに棲む場所を失っていったのだろう。すなわち、俤も世も、啄木鳥までもがとどまってはいなかった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 06112003

 柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな

                           正岡子規

山に行くので、子規が読みたくなって読んでいる。松山どころか、四国に渡るのは生まれてはじめて。仕事があるとはいえ、楽しみだ。例によって飛行機ではなく、地べたを這ってゆくので、三鷹からおよそ七時間ほどかかる。先の萩行きの深夜バスに比べれば、ラクなものである。揚句は、しかし松山ならぬ奈良での即吟だ。明治半ばころの奈良の横町はこんなだったよと、セピア色に変色した写真を見せられているようだ。名句なんて言えないけれど、いまの私にはこんな何でもないような句のほうが心地よい。張り切った句には疲れるし、技巧に優れた句にもすぐに飽きてしまう。非凡なる凡人ではないが、凡なる凡句にこそ非凡を感じて癒される。まったく、俳句ってやつは厄介だ。我が故郷の「むつみ村」がいまだにそうであるように、昔の奈良の横町あたりでも、柿などはなるにまかせ、落ちるにまかせていたのだろう。熟したヤツがぼたっと落ちると、びっくりした犬が一声か二声吠えるくらいだ。いまどきの犬は、柿が落ちたくらいでは吠えなくなったような気がする。実に、犬は犬らしくなくなった。あるいはそんな直接的な因果関係き何ももなくて、柿は柿として勝手に落ち、犬は犬として勝手に吠えているのかもしれない。どっちだっていいのだが、往時ののんびりした古都・奈良の雰囲気が、かくやとばかりによく伝わってくる。柿が大好きだった子規には、「もったいない」と少々こたえる場面ではあったろうが、その後でちゃんと「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んでいるから、心配はいらない。子規の柿の句のなかに「温泉の町を取り巻く柿の小山哉」もある。「温泉(ゆ)の町」は道後だ。ちょっくら小山の柿の様子も見てきますね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 07112003

 成り行きに任す暮しの返り花

                           鯨井孝一

語は「返り花・帰り花」で初冬。かえり咲きの花。暖かい小春日和がつづくと、梅や桜、桃の花が咲くことがある。狂い花とも。岡本敬三の小説『根府川へ』(筑摩書房)を読んだあとだけに、この句には身につまされる。会社にリストラされ、妻には別れられ、「成り行きに任す暮し」を余儀なくされている初老の男の物語だ。彼は一年中、寒い季節に生きているようなものなのだ。しかし、そんな彼にも、たまにはポッと返り花が咲く。目立たないささやかな花ではあるけれど、社会的にも経済的にも零落した者でなければ見られない花が咲くのである。その花は、羨ましくなるくらいに美しく味わい深い。何かをあきらめた人間には、あきらめた分だけ、それまでには気づかなかったきれいなものが見えるのだろう。句の作者は零落者ではないだろうが、そういうことを言っている。小説に戻れば、こんな場面がある。久しぶりに静岡の根府川から上京した高齢の叔父と、主人公は神田で酒を呑む。彼のポケットには全財産の1500円しかない。飲んでいるうちに、叔父も1000円しか持っていないことがわかる。どんどん注文する叔父にはらはらしながら、さて、どうしたものか……。叔父の機転でその店からは無事に脱出、つまり飲み逃げをするわけだが、お茶の水駅での別れ際に、叔父は「うっかりしていた」と白い封筒をさしだした。生きていくことはほんのちょっとしたペテンだ、と言い添えながら……。開けてみると、その薄い封筒には指の切れそうな一万円札が五枚入っていた。あわてて彼はさきほどの店に取って返し、勘定を払おうとするが、女将はもう済んでいるという。たとえば、これが成り行き任せの暮しに咲いた返り花。そして、この金を返しに主人公が叔父を訪ねて根府川へ行くのも、またもう一つの返り花だ。著者の岡本敬三君は、実は私の若い友人です。読んでやってください。面白いこと受け合い、ペーソス溢れるいぶし銀のような都会小説です。『現代俳句年鑑』(2003・現代俳句協会)所載。(清水哲男)


November 08112003

 地玉子のぶつかけご飯今朝の冬

                           笠 政人

語は「今朝の冬」、立冬のことだ。雪の便りもちらほらと聞こえてくる。まだ東京あたりではそんなでもないが、もう名実ともに冬に入っている地方もあるだろう。長くて厳しい季節のはじまりである。作者は、そんな寒い地方の人だろうか。ほかほかのご飯に玉子をぶっかけて、勢い良く掻き込んで食べている。さあ「冬よ、やってこい」と、身構えている。わざわざ「地玉子」と玉子に「地」をかぶせたのは、新鮮で栄養価の高い玉子をイメージさせることで、句の勢いを増すためだろう。単に玉子と言うよりも、よほど迫力が出る。すぐに連想したのは、高村光太郎の詩集『道程』に収められている「冬が来た」だった。昔、小学校の教室で習った。「きっぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になった」というのだから、季節的にはもう少し寒くなってからの詩だ。最後の二連は、こうなっている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ//しみ透れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のような冬が来た」。こちらも相当な迫力で、子供のときにも圧倒された。掲句の作者にしても光太郎にしても、とにかく若くて元気だ。若くて元気でなければ、こういう詩は書けない。そこへいくと今の私などは、冬と聞くだけでへなへなとなりそうだ。あ〜あと、溜め息の一つもついてしまう。これではならじ。句の作者にならって、今朝はいっちょう、ご飯に玉子をぶっかけて食うことにしようかな。今日、立冬。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 09112003

 さやけしやまためぐりあふ山のいろ

                           かもめ

語は「さやけし」で秋。立冬は過ぎたが、これからしばらくの間、秋と冬の句が混在していくことになる。実際の季節感が秋のようであったり、冬のようであったりと、グラデーション的に寒い季節に入っていく。俳人によっては、もう秋の季語は使わないという人もいると聞くが、そこまで暦に義理を立てる必要はないだろう。是々非々で行く。掲句に目がとまったのは、最近とみに私も、同じような感慨を覚えるようになったからだ。昨年と同じ「山のいろ」にまためぐりあえたというだけで、心の澄む思いがする。まさに「さやけし」である。この心の裏側には、あと何度くらい同じ色にめぐりあえるだろうかという思いがある。いまアテネ五輪に向けての予選がいろいろ行われているが、アテネはともかく、次の北京を見られるだろうか。下世話に言うと、そういう思いと重なる。作者の年齢は知らないけれど、少なくとも若い人ではあるまい。また同じ作者の他の句を見ると「案山子さま吾は一人で立てませぬ」「秋冷の片足で取る新聞紙」などがある。歩行が不自由で、多く寝たままの生活を余儀なくされている方のようだ。だとしたら、なおさらに「まためぐりあふ山のいろ」が格別に身に沁み入ってくる。「案山子さま」という呼びかけ方にも、単なる親しみを越えて、なにか敬意を示したまなざしが感じられる。我が身と同じように人の手を借りて立つ案山子ではあるが、私よりもすっくと凛々しく立っておられる……。御身御大切に。WebPage「きっこのハイヒール」(2003年11月4日付)所載。(清水哲男)


November 10112003

 愚陀仏は主人の名也冬籠

                           夏目漱石

国松山への短い旅から戻ってきました。何をおいても行きたかった道後の子規記念博物館を見ることができ、満足しています。手紙や原稿、書籍などが中心の展示ですから、「見る」というよりも「読む」博物館ですね。そんななかで、唯一と言ってよい見るための展示が、三階に復元された「愚陀仏庵」一階の部屋の模様です。愚陀仏は漱石の別名で、それをたわむれにそのまま下宿先の家の名前とし、ここに病気療養で帰省した子規が転がり込んだことから、記念館に復元されたというわけです。子規が一階の二部屋を使い、漱石は二階。部屋には、火鉢なんかも置いてありました。ちょうど立冬の日で、なかなか芸がこまかい。と思ったけれど、年中置いてあるのかもしれません。撮影禁止なので、写真を撮れなかったのが残念なり。掲句は俳句的にどうのこうのというものではありませんが、記念に載せておくことにしました。はじめて読んだときに「主人」は大家さんのことかと思い、粋な人もいたものだと感心した覚えがありますが、というようなわけで漱石自身のことなのでした。松山を観光地として見たときに、宣伝に寄与しているのは子規はむろんですが、しかし圧倒的には漱石という印象でしたね。漱石の『坊ちゃん』が松山を全国的に知らしめたと言っても、過言ではないでしょう。市内には坊ちゃん列車が走り、道後や松山城などの観光スポットには坊ちゃんやマドンナ、あるいは赤シャツに扮装したガイドが立ち、土産には坊ちゃん団子をはじめ漱石にちなんだものがいろいろとありました。小説の威力、恐るべし。そんな感を深くした駆け足旅行でした。仕事抜きで、もう一度ゆっくりと訪ねてみたい街です。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 11112003

 風の服つくる北風役の子に

                           富田敏子

語は「北風」で冬。学芸会(と、いまでも言うのかしらん)で北風役を演じることになった子供のために、「風の服」をつくってやっている。どんな内容の劇かは、句からはわからないが、あまり良い役ではなさそうだ。たとえばイソップ物語にある「北風と太陽」の北風のように、どちらかといえば憎まれ役なのだろう。旅人の上衣をどちらがちゃんと脱がすことができるか、という力比べの物語。この話ならば、風の服の色は太陽の赤に対比させて青色にするのだろうが、さて、全体の形はどんなふうにするのか。たぶん西洋の悪魔のファッションにも似て、とげとげしい印象に仕上げるのではなかろうかか。もっと良い役だったらなどと思いながらも、それでもできるだけ舞台映えがするようにと、ていねいに縫っている。そんな事実だけを淡々と詠んでいるだけなのだけれど、いろいろに親心が想像され連想されて飽きが来ない。それに実際につくった体験がないと、虚構ではとても詠めない強さもある。なんということもない句のようだが、作者は俳句の要諦をきちんと心得ている人だ。読者への句のゆだね方をよく承知している。風の服で思い出したが、学芸会で風の役をやった友人がいる。こちらは和風の風の役で、大きな風の袋をかかえて、陰の先生の合図で下手から上手までを一気に舞台を駆け抜けるだけ。演目はたしか『風の又三郎』のはずだったと言うのだけれど、はてな。たしかにあの物語は風が命みたいなものだけれど、いったい彼はどんな場面で飛び出していったのだろう。そして服と袋は、やはり句のように母親につくってもらったのだろうか。今度会ったら、掲句のことを教えて聞いてみよう。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


November 12112003

 美容室せまくてクリスマスツリー

                           下田實花

が早いというのか、商魂逞しいというのか。十一月に入った途端に、東京新宿のデパートあたりではクリスマス向きのイルミネーションを飾りつけ、店内では歳暮コーナーを設けるという始末。いや、新宿ばかりじゃない。先日訪ねた四国の松山のホテルでも、なんとなくそれらしき豆電球が明滅していた。古い歳時記をパラパラやっていたら掲句に出会ったのだが、戦後間もなくの句だ。それでなくても狭い美容室にツリーが飾られ、作者は大いに迷惑している。敗戦までは、クリスマスを楽しむ習慣などなかったのだから無理もない。でも美容室は商売柄、時流に乗り遅れてはならじと、狭くてもなんでも無理やりにツリーをセットしたわけだ。こういう句にインパクトを感じる読者が多かった雰囲気を、いまの若い人は理解できないだろう。まったくあのころは、雨後の竹の子のように、急にあちこちにツリーが飾られるようになったっけ。当時の国鉄(現JR)の各駅にもツリーが立ち、国会で問題になったこともある。国営企業が、一つの宗教に肩入れし宣伝するとはけしからん。新憲法が保障する信教の自由を何と心得るのか。まだ、閣僚が靖国神社に参拝しようとする気すらなかった時代の話である。掲句を載せた歳時記の解説が面白い。一応クリスマスやツリーを説明した後に、こうある。「戦後は異教徒の日本人も、大騒ぎするやうになった。デパートや商店、カフェ・キャバレーなども聖樹を飾る」と、句の作者と同じようにいささか苦々しげである。12月25日の朝刊には、必ず銀座あたりで三角帽子をかぶって大騒ぎしている男たちの写真が載ったものだった。そのころは大人の男の異教徒だけが騒いでいたのが、いつしか老若男女みんなのお祭りと化してきたのは、いかなる要因によるものなのだろうか。かくいう私もクリスマスのデコレーションの類は大好きなほうだから、あまり詮索する気にはならないけれど。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 13112003

 米犇きたちまち狭し暖房車

                           高島 茂

語は「暖房」で、もちろん冬。昨日の句と同じように、戦後の混乱期の作である。なぜ「暖房車」で「米(こめ)」が「犇(ひしめ)く」のか。今となっては、当時の世相などを含めた若干の解説が必要だろう。この句を目にしたときに、私はすぐに天野忠の詩「米」を思い出した。そして、久しぶりに詩集を取りだして読んでみた。天野さんにしては、珍しく社会への怒りをストレートにぶつけている。何度読んでも粛然とさせられ、感動する詩だ。今日は私が下手な解説を書きつけるよりも、この詩にすべてをまかせることにしたい。詩人が怒っているのは、列車内に踏み込んでヤミ米を摘発していった官憲に対してである。「/」は改行を、「//」は改連を示す。「この/雨に濡れた鉄道線路に/散らばった米を拾ってくれたまえ/これはバクダンといわれて/汽車の窓から駅近くになって放り出された米袋だ//その米袋からこぼれ出た米だ/このレールの上に レールの傍に/雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ/そしてさっき汽車の外へ 荒々しく/曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ//どうして夫が戦争に引き出され 殺され/どうして貯えもなく残された子供らを育て/どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ/そしてその子供らは/こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかを/たずねてくれたまえ/自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ/雨と泥の中でじっとひかっている/このむざんに散らばったものは/愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ//この美しい米を拾ってくれたまえ/何も云わず/一粒ずつ拾ってくれたまえ」。……むろん掲句の犇く米も、無事に人の口に入ったかどうかはわからない。不幸な時代だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 14112003

 猟夫と鴨同じ湖上に夜明待つ

                           津田清子

語は「猟夫(さつお)」と「鴨(かも)」で、いずれも冬。「猟夫」は「狩」に分類する。狩猟解禁日の未明の情景だろう。息をひそめ手ぐすねをひいて「夜明」を待つ猟夫たちと、そんなこととは露知らぬ鴨たちとの対比の妙。標的をねらうものと標的にされるものとが「同じ湖上」に、しかも指呼の間にいるだけに、緊迫感がひしひしと伝わってくる。私は鴨猟をやったこともないし、見たこともない。銃も、空気銃以外は撃ったことがない。だが、掲句のはりつめた空気はよくわかる。きっと過去のいろいろな細かい体験の積み重ねから、待ち伏せる者の心の状態がシミュレートできるからだと思う。自治体によって狩猟解禁日は違うし、解禁時間も異る。なかには午前6時7分からなどと、ヤケに細かく定めたところもあるという。そしてこの解禁時間の直後が、鴨猟連中の勝負どころだそうだ。時間が来たからといって、遠くにいるのを撃っても当たらない。でも近くに来すぎると、今度は散弾が広がらないので仕留めそこなってしまう。しかし解禁時間になった途端に、必ず誰かが撃ちはじめるので、うかうかしていると逃げられる。猟夫たちはみな鴨の習性を知っているから、句のようにじっと夜明けを待つ間は、自分なりの作戦を頭の中で組み立てめぐらして過ごすのだろう。そういうことを想像すると、なおさらに、いわば嵐の前の静けさにある時空間の雰囲気が鮮かに浮き上がってくる。句とは離れるが、ずっと昔に「狩」といえば「鷹狩」のみを指した。現代の俳人・鷹羽狩行の筆名は、おそらくこの本意にしたがったものだろう。本名を「高橋行雄」という。山口誓子の命名だと聞いたことがあるが、なかなかに洒落ていて巧みなもじりだ。『礼拝』(1959)所収。(清水哲男)


November 15112003

 事件あり記者闇汁の席外す

                           宮武章之

語は「闇汁(やみじる)」で冬。各自が思いつくままの食材を持ち寄り、暗くした部屋で鍋で煮て食べる。美味いというよりも、何が入っているかわからないスリルを味わう鍋だ。そんな楽しい集いの最中に、ひとり席を外す新聞記者。なんだ、もう帰っちゃうのか。でも「事件あり」ではやむを得ないなと、仲間たちも納得する。句の出来としては「事件あり」にもう一工夫欲しいところだが、その場の雰囲気はよく伝わってくる。当人はもちろん、仲間たちもちょっぴり名残惜しいという空気……。だが、こういうときの新聞記者の気持ちの切り替えは実に早い。彼は部屋を出れば、いや席を立ったときに、もう切り替えができてしまう。新聞記者の友人知己が多いので、このことには昔から感心してきた。週刊誌の記者や放送記者などでも、およそ「記者」と名のつく職業の人たちは、気分や頭の切り替えが早くないと勤まらないのだ。いつまでも前のことが尾を引くようでは、仕事にならない。その昔、テレビに『事件記者』という人気ドラマがあったけれど、ストーリーとは別に、私は彼らの切り替えの早さに見惚れていた。社会に出ても、とてもあんなふうにはいかないだろうなと、愚図な少年は憧れのまなざしで眺めていた。どんな職業に就いても、誰もが知らず知らずのうちにその世界の色に染まってゆく。医者は医者らしく、教師は教師らしく、銀行員は銀行員らしくなる。酒場などで見知らぬ人と隣り合っても、およそその人の職業の見当はつく。「らしくない」人には、なかなかお目にかかれない。休日にラフな恰好はしていても、たいていどこかで「らしさ」が出るものなのだ。放送の世界が長かった私にも、きっと「らしさ」があるのだろう。だが、当人には自分の「らしさ」がよくわからない。そのあたりが面白いところだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 16112003

 外套の釦手ぐさにたゞならぬ世

                           中村草田男

語は「外套(がいとう)」で冬。いまで言う防寒用の「(オーバー)コート」であるが、昔のそれは色は黒などの暗色で布地も厚く、現在のような軽快感はまったくなかった。宮沢賢治が花巻農学校付近で下うつむいている有名な写真があるけれど、あれがこの季語にぴったりくる外套姿である。さぞや、肩にずしりと重かったろう。そんなずっしりとした外套の大きな「釦(ぼたん)」を無意識にもてあそぶ(手ぐさ)ようにして、作者は「たゞならぬ世」の前で立ちつくしている。その如何ともなしがたい流れに、思いをいたしている。大いに世を憂えているというのではなく、かといって傍観しているというのでもない。呆然というのともちょっと違って、結局は時の勢いに流されてゆくしかない無力感の漂う自分に苛立ちを感じている。寒さも寒し、外套のなかの身をなお縮めるようにしながら、手袋の手で釦をまさぐっている作者の肖像が浮かんでくる。暗澹と時代を見つめる孤独な姿だ。ところで外套と言えば、ドストエフスキーをして「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシア文学史上記念碑的な小説がある。うだつの上がらぬ小官吏が、年収の四分の一をつぎ込むという一世一代の奮発をして、外套を新調する物語。哀れなことに、彼は仕立て下ろしを着たその日の夜に、路上強盗にあい外套を剥ぎ取られてしまう。このいささか冗舌な作品の核となっているのは、ストーリーよりも時代の空気の描写だろう。厳冬のペテルブルグの街や行き交う人々の様子などに、盛りを過ぎつつあったロシア帝国の運命が明滅している。「たゞならぬ世」を鋭敏に察知してきたのは、いつだって芸術だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 17112003

 枯葉踏む乳母車から降ろされて

                           中田尚子

ちよち歩きの幼児が「乳母車から降ろされて」、「枯葉」の上に立った。ただそれだけの情景だが、その様子を見た途端に、作者が赤ん坊の気持ちに入っているところがミソだ。おそらく生まれてはじめての体験であるはずで、どんな気持ちがしているのか。踏んで歩くと、普通の道とは違った音がする。どんなふうに聞こえているのだろうか。と、そんなに理屈っぽく考えているわけではないけれど、咄嗟に自分が赤ちゃんになった感じがして、なんとなく足の裏がこそばゆくさえ思えてくるのだ。こういう気分は、他の場面でも日常的によく起きる。誰かが転ぶのを目撃して、「痛いっ」と感じたりするのと共通する心理状態だろう。そういうことがあるから、掲句は「それがどうしたの」ということにはならないわけだ。赤ん坊に対する作者の優しいまなざしが、ちゃんと生きてくるのである。「乳母車」はたぶん、折り畳み式のそれではなくて、昔ながらのボックス型のものだろう。最近はあまり見かけなくなったが、狭い道路事情や建物に階段が多くなったせいだ。でもここでは、小回りの利くバギーの類だと、乗っている赤ん坊の目が地面に近すぎて、句のインパクトが薄れてしまう。やはり、赤ん坊が急に別世界に降ろされるのでなければ……。余談ながら、アメリカ大リーグ「マリナーズ」の本拠地球場には、折り畳み式でない乳母車を預かってくれるシートがネット裏に二席用意されている。揺り籠時代から野球漬けになれる環境が整っているというわけで、さすがに本場のサービスは違う。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


November 18112003

 セーターの黒の魔術にかかりけり

                           草深昌子

語は「セーター」で冬。この黒いセーターは他人が着ているのか、それとも自分が着ているのか。いずれとも解釈できるが、私としては作者当人が着ていると解しておきたい。他人に眩惑されたというよりも、自分の思惑を超えて、心ならずも自身が着ているものに気持ちを支配されることは起きうるだろう。私のような着たきりスズメにはよくわからないことながら、たまに新しいものを着たりすると、なんとなく居心地が悪かったりするようなことがある。多くの女性は、ファッションにこだわる。何故なのかと、学生時代の女友だちに野暮な質問をしたことがあった。彼女の答えは明快だった。「自分を飾るというよりも、その日の気分を換えるためね」と。赤いセーターと黒いそれとでは、大違いなのだと言った。へえ、そんなもんかなあ。以来私は、似合う似合わないの前に、そういう目で女性のファッションを見る癖がついたようである。だから、掲句についても、上記の解釈へと導かれてしまうわけだ。「黒の魔術」といっても、まさか悪魔と契約を結ぶ「黒魔術」とは関係なかろうが、着た後の自分の気分が着る前の予想を超えて昂揚したりしたのであれば、やはり「魔術」という時代がかった言葉を使うのは適切だろう。黒といえば、この季節の東京では、やたらと細いヒールの黒ブーツが目立つ。私などは、万一転んだりしたら捻挫は免れないななどと余計な心配をしてしまうのだが、あれも気分転換のためだとすれば、彼女たちはどんな気分に浸って街を闊歩しているのだろうか。こっちはいきなり踏みつけられそうで、なんだかちょっとコワい気もするのだが……。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


November 19112003

 痩身の少女鼓のやうに咳く

                           福田甲子雄

語は「咳(せ)く・咳」で冬。冬は風邪(これも冬季)を引きやすく、咳をする人が多いことから。咳の形容にはいろいろあるが、「鼓(つづみ)のやうに」とは初めて聞く。聞いた途端に、作者は素朴にそう感じたのだろう。頭の中でこねくりまわしたのでは、こういった措辞は出てくるものではない。さもありなんと思えた。「鼓」といっても、むろん小鼓のほうだ。痩せた少女が、いかにも苦しげに咳をしている。大人の咳は、周囲への遠慮もあって抑え気味に発せられるが、まだ小さい女の子はあたりはばかることなく全身を使って咳き込んでいる。すなわち、大人の咳は身体にくぐもって内側に向けられた感じが残るけれど、少女のそれはすべて外側に宙空にと飛び出してゆく。それは小さな鼓を打った音が思わぬ甲高さで発せられるようだ、というのである。作者は可哀想にと思う一方で、痩せっぽちの少女の全身のエネルギーの強さにびっくりもしている。なるほどと納得できた。さらに言えば深読みかもしれないが、鼓の比喩はことさらに突飛なわけではない。鼓と咳とのありようは、とてもよく似ているからだ。ご存知だろうか。舞台などでは見えないけれど、小鼓の打たないほうの革には水に濡らした小さな和紙が貼り付けてある。調子紙(ちょうしがみ)という。あの革は乾きやすく、常に湿らせておかないと良い音が出ない。放っておけばだんだん乾いた鈍い音になってくるので、演奏中にも息を吹きかけたり唾で濡らして水分を補給しているのだ。咳も同じこと。咳き込んでいるうちに、音が乾いてきてますます苦しげに聞こえる。いや、当人は実際に苦しくなって水分をとりたくなる。ここまで読むとすると、まことに「鼓のやうに」がしっくりとしてくる。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


November 20112003

 明日会へる今日よく晴れて冬の空

                           小野房子

号では「子」の字がつくからといって性別を特定しがたいが、掲句の作者は女性だ。川端茅舎の弟子であった。まるで明日遠足がある子供のように、晴れ上がった冬空に期待と喜びを写している。この晴れた冬空の様子が、すなわち作者の今日の心持ちなのだ。明日という日を、よほど待ちかねていたのだろう。ただ遠足の子と違うのは、明日の天気などはどうでもいいというところだ。雨になろうと雪になろうと、会うことができれば心の中は青空だからである。今日の晴れた空さながらの心持ちを、そのまま抱いてゆくことができるからだ。むろん、どなたにも覚えがあるだろう。かと思うと、同じ作者に「すつぽりとふとんかぶりてそして泣く」がある。失恋だろうか、失意だろうか。いずれにしても、これらの句の特長は「すっかり句の中に溶け込んで」(野見山朱鳥)情を述べているところにある。斜に構えるのではなく、いわば手放しに無邪気に詠んでいる。なんとなく子供っぽくさえある。一言で言えば短歌的なのだ。しばしば言われるように、良い恋愛句にはなかなかお目にかかれない。それはやはり短歌(和歌)の分家である俳句が、本家とはできるだけ違う方向を目指してきたが故である。大雑把に言ってしまえば、万葉の昔から短歌作者は短歌そのもののなかでも人生を生きてきたのに対して、多くの俳句作家は俳句のなかで生きることはしていない。いや、そもそも様式上そんなことは不可能なのだ。いっだって、俳句とは現実の人生を写す鏡の破片にしかすぎないのである。したがって、俳句は掲句のようないわば無邪気を詠むことが苦手だ。おそらくそんなことは百も承知で、なお作者はこう詠まざるを得なかった。恋する人の心情はよくわかるけれど、「でもね……」と、俳句様式そのものが何か苦いことを言いたくなるような句であることも間違いない。野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』(1987・朝日選書342)所載。(清水哲男)


November 21112003

 旅人われに雨降り山口市の鴉

                           鈴木六林男

季句。句とは裏腹に、今回の山口への旅は晴天に恵まれた。山道のあちこちが懐しく何度も立ち止まったが、深閑とした山の中で鴉(からす)の鳴き声が聞こえてきたときにも、思わず足が止まった。鴉の鳴き声など珍しくもないのにと思われるかもしれないけれど、都会の鴉とはかなり違う鳴き声だったからだ。実にのんびりと鳴いていて、気分がよくなる声だった。東京の鴉のように、ケンを含んだ声じゃない。「♪カラスといっしょに帰りましょ」と、歌いたくなるような声とでも言えばいいのか。こんな鴉を東京に移住させたら、苛烈な生存競争にひとたまりもなく敗れてしまうだろうな、などと余計なことも思った。掲句の鴉も、きっと同じようにのんびりとした声だったに違いない。「山口市」は、全国でいちばん辺鄙な場所に位置する県庁所在地だ。わずかに瀬戸内海に接している部分もあるが、山の中という印象がだんぜん濃い「町」である。昔から人口は少なく、現在でも14万人と私の住む三鷹市よりも少ないし、際立った産業があるわけでもない。戦後間もなく、そんな山口市を作者が訪ねたときの句である。わざわざ訪ねたのは、作者が高商時代を過ごした青春の思い出の地だったからだ。それもかつての大戦(フィリピンのバターン・コレヒドール要塞攻防戦に参戦)で九死に一生を得て引き揚げてきた身とあっては、私の呑気な旅などとは思い入れの度合が違うのだ。ただこうした註記が必要なところに、句として普遍性に欠ける恨みは残る。が、山河や建物よりも「鴉(の鳴き声)」に何よりも懐しさを覚えているところに、我が意を得たりの思いがした。たとえ降る雨は冷たかろうとも、青春懐旧の念のなかでは、かぎりなく優しく甘く感じられたことだろう。『荒天』(1949)所収。(清水哲男)


November 22112003

 掻爬了へ女寒がる首飾り

                           田川飛旅子

季句。えっ、「寒がる」とあるから冬の句じゃないの。そう思った読者は、もう一度読み直していただきたい。「掻爬(そうは)」は最近一般ではあまり使われない言葉になってきたが、本義は「組織を掻きとること」で、この場合は人工妊娠中絶を意味している。1975年(昭和五十年)の作。いわゆる性解放が進み、安直な堕胎が社会問題化しはじめたころだったろうか。もぐりの中絶医がはびこっているとも、よく聞いた。私は少年時代に、若い女性の三分の一がパンパンガールだと言われた基地の町近くに住んでいたので、どこからか「掻爬」についてのある程度のことは聞いていた。耳学問と言うのかしらん。そんなことはどうでもよろしいが、この句をはじめて読んだときには、作者は婦人科医かなと思った。掻爬した女性本人はもとより、関係当事者がこんな句を公表するはずはないと思ったからだ。でも、作者は技術者であって医者ではないと、後で知った。では、体験句だろうか、それともまったくの想像句なのだろうか。野次馬根性が動かないわけではないけれど、そんな詮索もまたどうでもよろしい。たった十七音で、これだけの影のあるドラマを描きえた作者の腕前に感心させられる。掻爬までの経緯によって愚かな女とあざ笑われようが、逆に周囲の同情を集めようが、句には術後の女性の哀しみが静かに滲み出ている。手術を「了へ」てやつれた姿のおのれを、なお半ば本能的に飾ろうとする性(さが)の痛々しさ。その象徴としての「首飾り」。見て見ぬふりをしたいところだが、作者は目をそらさなかった。作家魂のなせる業とでも言うべきか。このときに寒いのは外気ではなく、女性の身体と精神そのものだろう。真夏の句と読んでも、いっこうに差支えはない理屈だ。『邯鄲』(1975)所収。(清水哲男)


November 23112003

 素人が吹雪の芯へ出てゆくと

                           櫂未知子

日本に大寒波襲来。お見舞い申し上げます。日本海側で暮らしていた私には多少の吹雪の体験はあるが、北国での本当の怖さは知らない。作者は北海道出身なので、そのあたりは骨身に沁みているのだろう。なによりも「吹雪の中」ではなくて「吹雪の芯」という表現が、そのことを裏付けている。実体験者ならではの措辞だと、しばし感じ入った。それこそ「素人」には及びもつかない言い方だ。そんな「芯」をめがけて、怖いもの知らずの奴が「出てゆく」と息巻いている。止めたほうがいいと言っても、聞く耳を持たない。根負けしたのか、じゃあ勝手になさい、どうせ泣きべそをかいて戻ってくるのがオチだからと、半ば呆れつつ相手を突き放している。しかも、突き放しながら心配もしている。「出てゆくと」と、あえて言葉を濁すように止めたのは、そんなちょっぴり矛盾した複雑な心情を表すためだと思う。実際、素人ほど無鉄砲であぶなっかしい存在はない。吹雪に限らず何が相手でも言えることだが、素人は木を見て森を見ず、と言うよりも全く森は見えていないのだから、何を仕出かすかわかったものじゃない。たまたま巧く行くこともあるけれど、それはあくまでも「たまたま」なのであって、そのことに他ならぬ当人が後でゾッとすることになったりする。そこへいくと「玄人」は、まことに用心深い。猜疑心の塊であり、臆病なことこの上ないのである。片桐ユズルに「専門家は保守的だ」という詩があるけれど、そう揶揄されても仕方がないほどに慎重には慎重を期してから、やっと行動に移る。面白いものだ。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


November 24112003

 ぶちぬきの部屋の敷居や桜鍋

                           綾部仁喜

語は「桜鍋(さくらなべ)」で冬。馬肉の鍋料理だ。大人数の宴会なので、部屋が「ぶちぬ」いてある。詰め合わせているうちに、運が悪いと「敷居(しきい)」の上の座布団に坐る破目になる。すぐ傍らに敷居があっても、あれはなんとなく気になるものだ。作者の位置は、そのあたりなのだろう。だが、会はお構いなしに進行していく。そのにぎやかな様子を、敷居から連想させたところが巧みだ。「ぶちぬき」という言葉も、威勢が良くてよろしい。東京の新宿御苑近くに、馬肉専門の店があって、ほぼ毎年そこで友人たちと忘年会を開く。もう三十年ほどは続いたたろうか。出版や映画の世界の男たちが主だけれど、なかにはどこでいつどうして知りあったのか、よくわからない友人もいる。本人に聞いてみても、「さあ……」と頼りなくも要領を得ない。それもまた愉し。小さな店だから、二階には八畳ほどの部屋が二間しかない。最初の頃には二十人以上はいたから、部屋はいつもぶちぬきだった。にぎやかを通りすぎて、うるさいくらいだった。それが歳月を経るうちに、亡くなる人もあったり病気がちの奴もでてきたりで、いつしかぶちぬかなくても間に合うようになってしまった。去年まではここに元気に坐ってたのになアと、誰言うとなくつぶやきが洩れてくる。近年は出かけて行くたびに、人生がそうであるように、会にもまた盛りがあることがしみじみと思われる。今年も年末に集まるのだが、何人くらい来られるだろうか。敷居の上の座布団の座り心地の悪さが、いまとなっては懐しいよ。「俳句」(2003年12月号)所載。(清水哲男)


November 25112003

 ジャズ現つ紙屑を燃す霜の上

                           古沢太穂

戦直後の句。寒いので、表で「紙屑」を燃やして手を焙っている。小さな焚火をしているわけだが、当時の都会では、そう簡単に燃やせるものはそこらにはなかった。なにしろ日頃の煮炊きのための薪にも事欠いて、板塀などはもとより天井板や卓袱台まで燃やしていた時代のことである。わずかな紙屑くらいしか、手近に燃やせるものがなかったのだ。そんな侘しい焚火に縮こまって手をかざしていると、どこからか「ジャズ」が聞こえてきた。戦争中、ジャズは敵性音楽として演奏することはもとより聴くことも禁じられていたので、作者には一瞬空耳かという疑念も湧いただろう。が、耳を澄ましてみると、たしかに正真正銘のジャズが「現(うつ)つ」に流れてくる。ラジオからか、それとも誰かがレコードを聴いているのか。もう二度と聞くことはないだろうと思っていた音楽が、こうして町を当たり前のように流れてくるなどは、なんだか夢を見ているような気がする。あえて「現つ」といかめしい文語を使ったのは、そのあたりのニュアンスを強調しておきたかったからだろう。それにしても、ジャズを聴く自由は保障されたけれども、それを十全に享受できる生活は保障されていない。句は、この明暗の対比というよりも、この明暗が入り交じっている混沌のゆえに、なおさら希望が見えてこない時代の「現つ」の相を静かに詠んでいる。このときに「霜」は、単なる自然現象を越えて、庶民の暮らしそのものを象徴しているかのようだ。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


November 26112003

 飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな

                           高柳重信

語は「風花」で冬。晴れていながら、今日の「飛騨」は、どこからか風に乗ってきた雪がちらちらと舞っている。寒くて静かだ。ときおり聞こえてくるのは、ゆったりとした「大嘴(おおはし)」(ハシブトガラス)の啼き声だけだ。日本中のどこにでもいる普通の「鴉」にすぎないが、このような静寂にして歴史ある土地で啼く声を聞いていると、何か神々しい響きに感じられてくる。まるで古代の「みこと(神)」のようだと、作者は素直に詠んでいる。かりそめに名づけて「風花淡(かざはなあわ)の/みこと」とは見事だ。地霊の力とでも言うべきか、古くにひらけた土地に立つと、私のような俗物でも身が引き締まり心の洗われるような思いになることがある。ところで、見られるように句は多行形式で書かれている。作者は戦後に多行形式を用いた先駆者だが、一行で書く句とどこがどう違うのだろうか。これには長い論考が必要で、しかもまだ私は多行の必然性を充分に理解しているという自信はない。だからここでは、おぼろげに考えた範囲でのことを簡単に記しておくことにしよう。必然性の根拠には、大きく分けておそらく二つある。一つには、一行書きだと、どうしても旧来の俳句伝統の文脈のなかに安住してしまいがちになるという創作上のジレンマから。もう一つは、行分けすることにより、一語一語の曖昧な使い方は許されなくなるという語法上の問題からだと考える。この考えが正しいとすれば、作者は昔ながらの俳句様式を嫌ったのではない。それを一度形の上でこわしてみることにより、俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ、同時に新しい俳句表現の可能性を模索したと解すべきだろう。掲句の形は、連句から独立したてのころの一行俳句作者の意識下の形に似ていないだろうか。同じ十七音といっても、発句独立当時の作者たちがそう簡単に棒のような一行句に移行できたわけはない。心のうちでは、掲句のように形はばらけていたに違いないからだ。前後につくべき句をいわば恋うて、見た目とは別に多行的なベクトルを内包していたと思う。したがって、高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法であると、いまの私には感じられる。『山海集』(1976)所収。(清水哲男)


November 27112003

 懐手かくて人の世に飛躍あり

                           軽部烏頭子

語は「懐手(ふところで)」で冬。句の所載本に曰く。「和服の場合、袂の中や胸もとに両手を突つこむの言、手の冷えを防ぐ意味があるが、多くは無精者の所作として、あまりみてくれのよいものではないが、和服特有の季節感はある」。そうかなあ、文士などの写真によく懐手の姿があるが、子供のころから私は、いかにも大人(たいじん)風でカッコいいなと思ってきた。ズボンのポケットに手を入れているのとは大違いで、どこか思慮深さを感じさせるスタイルだなと。ま、しかし、それは人によるのであって、一般的にはこの解説のように見栄えがしなかったのだろう。ポケットに手をいれていても、たとえばジェームス・ディーンなどはよく似合ったように、である。懐手をして背を丸めて、作者はそこらへんを歩いている。すれ違う男たちもみな、いちように同じ恰好だ。なにか寒々しくもみじめな光景だが、このときにふと思ったことが句になった。そうか、みながこうして縮こまっているからこそ、「人の世」には次なる「飛躍」ということがあるのだ。いつも背筋をピンと這っていたのでは、ジャンプへの溜めがなくなるではないか。懐手こそ、飛ぶためのステップなのである。と、これは半分くらい自己弁護に通じる物言いだとけれど、そこがまた面白いと感じた。たしかに人の世には冬の時代もあり、その暗い時代が飛躍のバネになったこともある。こうした自己弁護は悪くない。さて、現代は春夏秋冬に例えれば、どんな季節なのだろうか。少なくとも、春や夏とは言えないだろう。やはり、懐手の季節に近いことは近いのだろうが……。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 28112003

 炬燵せりこころ半分外に出し

                           中原道夫

かりますねえ、この気持ち。そろそろ「炬燵(こたつ)」を出そうかというとき、どこかに「いや、まだ早いかな」という気持ちが働く。ひとたび炬燵を出して入ってしまうと、つい離れるのが億劫になるので、それを警戒するからだ。外出はむろんのこと、隣の部屋に行くことすら面倒臭くなる。作者もそんな思いで我慢をしていたのだが、とうとう辛抱たまらずに、出すことにした。しかし、それでもなお「こころ半分」は炬燵の「外」に向けながらと言うのである。それほど炬燵は快適だし、かといって行動力が落ちるのも困るしと、逡巡しつつも「炬燵せり」の感じがよく伝わってくる。一瞬「炬燵せり」は「炬燵出す」でも面白いかなと思ったけれど、句のほうが既に炬燵に入りながらもまだ逡巡している可笑しさがあって、やはり「せり」で正解だろう。炬燵というと、いまはほとんどの家庭が赤外線コタツを使っている。戦後もだいぶ経ってからの発明だが、聞いた話では、発明者は小さな町工場の技術屋だったという。そのパテントを大手のメーカーが極安で手に入れ、盛大に宣伝しまくったことで、今日の隆盛をもたらした。でも、最初のうちはコタツの中が赤く見えなかったので、あまり売れなかったらしい。そこで一工夫して内部の電球を赤く塗ってみたところ見た目にも暖かそうになり、そこからブレークしたという話もある。機能や性能が優れていても、それだけでは売れないという商売の難しさ。パソコンではないけれど、インターフェイスのデザインはとても大事だ。我が家にも、この方式のコタツがある。出そうか出すまいか、まだぐずぐずと迷っている。『不覺』(2003)所収。(清水哲男)


November 29112003

 茶の花やインドは高く花咲くと

                           中西夕紀

語は「茶の花」で冬。作者はたぶん、垣根などに植えられた茶の木の花を見たのだろう。というのも、農家の茶畑では花を咲かせないからだ。花が咲けば実がつく。その分、木の栄養分は花や実に取られてしまう。昔から、農家では「花を咲かせたら恥」とまで言われてきた。私は二十歳のころに茶所宇治に暮らしたけれど、茶の花はついぞ見かけたことはなかった。また茶の木は、放っておくと七、八メートルの高さに生長する品種もあるそうで、茶畑にせよ垣根にせよ、刈り込んで低い木に育てるのが常だ。したがって、見かけるのはいつも低いところに咲く花であり、作者もまた低所で下俯いて咲いている白い花を見ている。そんな地味な花の姿から、「インドの花」に思いを馳せた飛躍のありようが揚句の魅力だ。句は花の咲く位置の高低を述べていて、それはおのずから寒い冬の日本から暑い夏のインドへの憧憬を含んでいる。実際のインドの酷暑たるや凄まじいと聞くが、作者は「花咲くと」と伝聞であることを明確にしており、ここでの憧憬の対象は現実のインドではなく、いわば物語的神秘的なインドであることを指しているのだ。そのロマンチシズムが、寒くて低いところに咲く地味な花を、逆に生き生きと印象づけてくれる。この句を読んだときに、私はリムスキー・コルサコフの「インドの歌」(歌劇「サドコ」より)を思い出した。歌詞には花こそ出てこないが、メロディも含めて、ここにあるロマンチシズムは作者のそれに共通するものがある。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


November 30112003

 サルトルもカミユも遥か鷹渡る

                           吉田汀史

語は「鷹」で冬。一般的に長い距離は移動しないが、種類によっては寒くなると南へ「渡る」のもいる。眼光炯々として姿態清楚な猛禽が、群れをなして「遥か」彼方へと去っていく。ちょうどそのように、熱い情熱で時代を告発し説得しつづけた「サルトルもカミユ」も二人ともが、既に故人となり、その思想も「遥か」な地平へと没してしまったかのようである。昨今の世の動きを見るにつけ、彼らが火をつけ世界中に共鳴者を獲得した思想とは何だったのかと思う。単なる郷愁句ではなく、作者はやりきれない思いの中で反問しているのだ。私もまたサルトルやカミュに強い共感を覚えた一人だっただけに、彼らの思想を一時のファッションとしてやり過ごすわけにはいかない。当時、ある人が「実存主義とは何か」という問いに答えて、こう言った。「郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも、みんなアタシのせいなのよ。これが実存主義さ」。むろん小馬鹿にした揶揄の言だけれど、あながち当たっていないこともないだろう。なぜなら、実存主義最大の主張はアタシ(個人)の存在と尊厳をあらゆる価値の最上位に置くことだからだ。簡単な例で言えば、いかなる事態にあろうとも、常に国家よりも個人が大切ということである。そのためには、他方で当然数々の困難をもアタシが引き受ける思慮と勇気とが必要となる。第二次世界大戦の悲惨な熾きがまだくすぶっていた時代のなかで、出るべくして出てきた考え方だ。なんだい、そんなことなら「常識」じゃないか。今日、サルトルもカミュも読まない世代の多くは言うだろう。その通りだ、「常識」なのだ。言うならば、当時だって当たり前の言説だったのである。が、この「常識」は、今の世の中でいったいどこでどういうふうに機能し通用しているのかね。つらつら世の中を見回してみるまでもない。「あれよあれよ」の間に、どんどん実質的には非常識化している現実に怖れを抱いてしかるべきではないのかね。それこそ私の常識は、実存主義の鷹がいまや絶滅の危機に瀕していると告げている。『一切』(2002)所収。(清水哲男)




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