Katherine Hepburn。米映画史上きっての大女優。同姓のオードリーがヒヨコに見える。




2003ソスN10ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 28102003

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も

                           河原枇杷男

語は無い。無季句だ。もちろん「桃(の実)」は秋の季語だけれど、こういう場合の分類は忌日がメインゆえ、それを優先させる。では「枇杷男忌」が四季のいずれに当たるかということになるわけだが、それが全くわからない。なぜなら、枇杷男は現在関西の地に健在存命の俳人だからである。もっとも彼には「死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ」という句があって、西行の「花の下にて春死なん」じゃないけれど、どうやら桃の実の熟するころに死にたいという希求はあるようだが、希求はあくまでも希求であって確定ではない。勝手に自分の命日を決めてもらっては困る。……とまあ、ここまでは半分冗談だが、けっこうこれは方法的には恐い句だ。中身としては、人の忌日だというのにあまりにも健康そうに熟した桃が、恥じておのれの色艶をもて余している情景である。本当は喪に服して少しは青く縮こまっていたいのに、なんだかやけに溌剌として見えてしまう姿をどうしようもないのだ。おお、素晴らしき善なる桃の実よ。私が恐いというのは、やはり自分の命日を自分で作って詠むというところだ。辞世の句なら生きているうちに詠むのが当たり前だが、たとえ冗談や遊び半分、あるいは悪趣味のつもりでも、そう簡単に自分の命日を詠めるものではない。論より証拠、試してみればわかります。私も真似してみようと思ったけれど、すぐに恐くなって止めてしまった。よほど日頃から自分の死に対して、人生は生きるに値するかの答えの無い命題を真摯に考え、性根が坐っている人でないと不可能だと思われた。その意味で、掲句の方法は作者の生き方につながる文芸上の態度を明確に示したものだと言わなければならない。枇杷男を論ずるに際しては、欠かせない一句だろう。『河原枇杷男全句集』(2003)所収。(清水哲男)


October 27102003

 鶉飛ぶ広い世界を見るでなく

                           笠井 円

語は「鶉(うずら)」で秋。雑誌「俳句」に「17字の冒険者」というページがあって、毎号若手の句を載せており、若い人の感覚や感性が興味深くて愛読している。掲句は発売中の11月号に掲載されていた。作者は1973年生まれというから、ちょうど三十歳だ。鶉はラグビーボールみたいにずんぐりとした体形で、鳴き声も良く、なかなか愛嬌のある鳥である。ただ無精というのか何というのか、この鳥はなかなか飛ぼうとしない。人や犬が近づいてきても、まずはチョコマカと走って草叢のなかに隠れようとする。鳥なんだから飛んで逃げればいいのにと思うが、もはやギリギリに切羽詰まったときでないと飛ぼうとしない。しかも高くは飛ばず、低空飛行だ。それでいて、寒くなると暖かい土地へ長距離移動していくのだから、なんだ、飛ぼうと思えばちゃんと飛べるんじゃないか。句は、そうした鶉の生態をよく捉えていて、面白い。せっかくの羽を持ちながら「広い世界を見るでなく」、ナニ考えてんだろ、こいつらは。そんな趣である。だいたい人間が飛行機を発明したのは、鳥への憧れがあったからだ。あんなふうに高いところを飛んで、広い世界を見てみたいと願ったからである。「鳥瞰」という古くからの言葉もあるくらいで、その憧れには長く熱い歴史もある。だから、もしもこの世の鳥が鶉だけだったとしたら、おそらく飛行機は発明されなかったに違いない。町の自転車屋だったライト兄弟も、ついに自転車屋のおじさんのままで一生を終えただろう。なお近年野性の鶉は減少しているが、飼育種が増えているため、総個体数としては昔と変わらないそうだ。(清水哲男)


October 26102003

 秋入日かちかち山に差しにけり

                           原田 暹

語は「秋入日(秋の日)」。「差しにけり」が秀逸だ。秋の夕日というと、どうしても釣瓶落しに意識が向きがちだが、秋だって夕日はちゃんと差すのである。日差しは夏場よりもずいぶんと弱々しいが、紅葉した山などに差すと、セピア色の写真ではかなわないような得も言われぬ情趣を醸し出す。「かちかち山」は実在しないから、むろん空想句だ。でも作者は、どこかでの実景から発想したのだろう。折しも秋の入日を正面から受けはじめた小さな山をみて、あっ「かちかち山」みたいだと思ったのだ。この誰もが知っている民話(昔話・お伽噺)は、いまどきの絵本などではマイルドに味付けされているけれど、元来は殺し合いの残酷なストーリーだった。いたずら狸を罠にかけ、狸汁にしようと天井から吊るしておくお爺さんからして残酷だし、巧みにお婆さんを騙して殴り殺し「ばばあ汁」をお爺さんに食べさせる狸の残忍さ。そして、お爺さんになり代わって狸をこらしめる白兎も、正義の味方かもしれないが、執拗にサディスティックに狸をいたぶりまくり、ついには泥舟もろとも沈めてしまうという陰湿さ。「かち栗」欲しさに狸が背負わされた柴に火をつけるべく、兎がかちかちと火打ち石を打っていると、狸が聞く。「かちかちって聞こえるけど、何の音だろうね」。「ここが『かちかち山』だからさ」と、兎。そんな会話の後に、転げ回って狸が苦しんだ山。そう自然に連想した作者は、実景のおそらくは名も無き平凡な山にも、数々の出来事が秘められていると感じたのだろう。このときに、赤い入日は民話の日差しとなっている。『天下』(1998)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます