Silvana Mangano。大戦後『苦い米』の野生的健康美でデビューしたが59歳と短命だった。




2003ソスN10ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 17102003

 もう逢わぬ距りは花野にも似て

                           澁谷 道

語は「花野(はなの)」で秋。秋の草花の咲き乱れる野のこと。それも、広々とした高原や原野などの自然の野を言う。いかにも文芸的な言葉と言おうか、詩語と言おうか、昔でも口語としては使われなかったのではなかろうか。おそらくは、和歌から発した雅語的な書き言葉だろう。そう思ってきたから、私など無粋者には使いにくい季語の一つだ。「村雨の晴るる日影に秋草の花野の露や染めてほすらむ」(大江貞重・1312年『玉葉集』)。また「距り」は、「きょり」ではなく「へだたり」と読ませるのだろう。このあたりも和歌的な句の感じがするけれど、全体的にも和歌的な雰囲気を湛えた発想だ。片思いの句。恋しいが、逢えば逢うほどつらくなる。そこで「もう逢わぬ」と固く思い決めてはみたものの、やはり後ろ髪を引かれるような気持ちが残る。思い決めてみると、相手とのへだたりは無限に遠くなるはずが、なお「花野にも似て」、すぐにでも引き返せそうなそうでないような曖昧な距離として感じられると言うのだ。広い野に咲く花々は、作者の思慕の念の象徴とも見え、恋の成就ののちの楽しかるべき幸福な時間のそれとも映る。しかしいまそこには、寂しい秋の風が吹き渡っているのだ。「花野にも似て」の連用止めは極めて和歌的で、ここに作者の秋風に揺れ動く花のような寂しさが込められている。女性ならではの美しくも切ない句だと読めた。『縷紅集』(1983)所収。(清水哲男)


October 16102003

 白粉花の風のおちつく縄電車

                           河野南畦

語は「白粉花(おしろいばな)」で秋。この場合は「おしろい」と読ませている。栽培もされるが、生命力が強いのか、野生のものが多いという印象。それも路地裏などによく咲いており、夕方にしか開かないので、秋の寂しげな暮色とあいまって、そぞろ郷愁を誘われる。昔は夕仕度の煙や匂いが町内にながれ、豆腐屋のラッパが聞こえてきた。そんな路地への、元気な子供たちの登場だ。白粉花を揺らしている冷たい風も、子供たちには関係がない。それを「風のおちつく」と言ったのだろう。「縄電車」は子供の遊びで、輪にした縄の前方に運転手役、後方に車掌役の子が入り、残りの子は乗客の役となって「ちんちん電車(路面電車)」ごっこと洒落る。「電車ごっこ」という文部省唱歌(小学一年用)があったくらいだから、ひところは全国的に隆盛をきわめた遊びだった。♪運転手は君だ 車掌は僕だ あとの四人が電車のお客 お乗りはお早く動きます ちんちん。この歌で注目すべきは「車掌は僕だ」と誇らしげなところ。実際、電車ごっこでは車掌役がいちばん面白い。キップに鋏を入れたり、出発の笛を吹いたり、次の停車駅名をアナウンスしたりと、することが沢山あるからだ。運転手役は先頭にいて一見偉そうなのだが、ただ偉そうなだけで、すべては車掌の指示に従わなければならない。お客に小さな子がいれば、あまりスピードを出せないわけで、それも最後尾の車掌が縄を引いてコントロールする。誰もが車掌になりたがった。あれで、なかなか子供社会も複雑なのだ。「おしろいが咲いて子供が育つ路地」(菖蒲あや)。掲句と合わせて読むと、子供たちに活気のあった時代がいよいよ偲ばれる。『俳句の花・下巻』(1987)所載。(清水哲男)


October 15102003

 渋柿やボクよりオレで押し通す

                           大塚千光史

語は「渋柿・柿」で秋。渋柿の生き方というのも変だけれど、擬人化すれば確かに「ボク」よりも「オレ」のほうがふさわしい。「ボク」には、どこかに甘ったるいニュアンスが含まれている。「押し通す」の渋柿の意地は、作者の生き方とも重なり合っているのだろう。書き言葉にせよ話し言葉にせよ、日本語の人称は種類が多いので、何を使うかによって相手に与える印象も違ってくる。女性の「わたし」と「あたし」との一字違いでも、ずいぶん違う。また、ひところ若い女性に「ボク」が流行ったことがあるけれど、「私」としてはあまり良い印象を受けなかった。男との対等性を主張したい気持ちは理解できたが、張り合う気持ちが前面に出すぎているようで鼻白まされた。書き言葉では「私」しか使わない私も、話し言葉になるとほとんど無意識的に使い分けている。親しい友人知己には「オレ」、目上や初対面の人には「ワタシ」、両親には「ボク」といった具合だ。二人称では「オマエ」「キミ」「アナタ」、あるいは苗字を呼ぶなどして、拾い出してみればけっこう複雑なことをやっているのに気がつく。よく言われるように、単一か二種類くらいの人称しか持たない言語圏の人にとっては、ここにも日本語の難しさがある。人称が多いということは、おのずから自己と他者との関係の多層化をうながし、同時に曖昧化することにもつながっていく。言うなれば、日本語を使う人は、常に他者との距離の取り方を意識している。私はこれを人見知りの言語と呼ぶが、句のように「オレ」一本で押し通すとは、この距離を取っ払うことだ。おのれを粉飾しないということである。といっても、むろん人称の統一化だけで自分を全てさらすわけにもいかないが、その第一歩としては必要な心構えだろう。この問題は、無人称も含めて、考えれば考えるほど面白い。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)




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