Ann Margret。年間を通じて最も取材に協力しなかった女優賞を受けている。名誉なことだ。




2003ソスN10ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 09102003

 地図に見る明日行くところ萩の卍

                           池田澄子

語は「萩」で秋。原句には仮名が振ってあるが、さて、この「卍」を何と読むか。国語辞書的に読めば「まんじ(意味は万字)」で、それ以外の読み方はない。「梵語 svastika ヴィシュヌなどの胸部にある旋毛。功徳円満の意。仏像の胸に描き、吉祥万徳の相とするもの。右旋・左旋の両種があり、わが国の仏教では主に左旋を用い、寺院の記号などにも用いる[広辞苑第五版]。というわけで、作者は「てら」と読ませている。なるほど、句の「卍」は漢字じゃなくて地図記号だから、逆に「まんじ」と読んでは変なのだ。と、気がついてにやりとさせられる。そういえば、地図は記号だらけである。いや、地図の全ては記号でできている。作者のように、ふだん私たちは何気なく地図を使っているけれど、そう思うと、相当に高度なことをやっているわけだ。小学校の低学年くらいまでは、まず地図を見ても何が何だかわからないだろう。でも、かくいう私が、それではどのくらい地図記号を知っているかというと、およそ160種あると言われる記号の半数も知らない。掲句に好奇心を触発されて、調べてみてがっかりした。いい加減に覚えているものも多い。たとえば学校を表す記号は「文」であるが、この「文」を○で囲った記号もある。どう違うのかを、ついさっきまで知らなかった。単に「文」とあれば小中学校を示し、○囲いは高等学校を示すのだそうだ。全ての記号には根拠があり、「卍」や「文」などには誰にでもうなづけるそれがある。しかし、なかには見当もつかないのがあって、×の○囲いは警察記号だけれど、この根拠は那辺にあるのだろうか。こんなところにお世話になっちゃいけませんぞ。みたいにも感じられるが、まさかねエ。ちなみに「卍」が地図に登場したのは、1888年のことだという。俳誌「豈」(2003年10月・37号)所載。(清水哲男)


October 08102003

 裏山に椎拾ふにも病女飾る

                           大野林火

語は「椎(の実)」で秋。寝たり起きたりの「病女」は、妻ないしは母だろう。今日はよほど気分がよいらしく、裏山に椎の実を拾いにいくと言う。こんなときに、男だったら髭も剃らずに無造作な格好で出かけてしまうところだが、女性は違う。鏡に向かって、念入りに「飾」っている。誰かに会う気遣いもほとんどないのに、しかも短時間で椎の実をいくつか拾ってくるだけなのに……。女性のたしなみというのか、身を飾ることへの執着というのか、作者はその思いの強さに感嘆しているのだ。弱々しい病気の女性と地味な椎の実との取り合わせが、いっそう「飾る」という行為に精彩を与えている。子供のころ、近所に椎の大木があったので、通りがかりによく拾って食べたものだった。物の本には、栗についで美味と書いてあったりするけれど、そんなに美味じゃなかったような記憶がある。当時見た映画に『椎の実学園』というのがあって、肢体不自由児を持つ父親が教員の職を捨て、そうした子供たちだけを集める施設を作り、みんなで励ましあいながら暮らすという話だった。椎の実が熟するには二年もかかるというから、学園名はそのことに由来しているのかもしれない。主題歌があり、歌詞はおぼろげながらメロディはきちんと覚えている。♪ぼくらは椎の実 まあるい椎の実、お池に落ちて遊ぼうよ……と、そんな歌詞だった。でも、映画を見ながら、私は「まあるい椎の実」に引っ掛かった。嘘だと思った。私が拾っていた椎の実に丸いものはなく、いずれもが扁平な形をしていたからである。映画だから嘘もありかな。長い間そう思っていたのだけれど、実は椎の木には二種類あることを、大人になってから知ることになる。私が拾っていた実は「スダジイ」の実であり、映画のそれは「ツブラジイ」の実なのであった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 07102003

 針千本飲ます算段赤のまま

                           櫛原希伊子

語は「赤のまま(赤のまんま)」で秋。蓼(たで)の花。粒状の赤い花が祝い事に出される赤飯に似ているので、この名がついたという。女の子のままごと遊びでも、赤飯に見立てられる。揚句は、そんなままごと時代の思い出だろう。「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ますっ、指切った」と、あれほど固い約束をしたのに、友だちが約束を破った。よし、どうしてこらしめてやろうかと「算段」しながら、友だちを待ち伏せている。明るい秋の日差しのなかで、赤のままが揺れている。あのときは本当に怒っていたのだけれど、今となっては懐かしい思い出だ。何を約束し、どんなふうに仕返しをしたのかも忘れてしまった。久しく音信も途絶えているが、彼女、元気にしてるかなア。子供のときによく遊んだ友だちのことは、喧嘩したことも含めて懐かしい。もう二度と、あの頃には戻れない。ところで、この「針千本」の針のことを、私はずっと縫い針のようなものかと思ってきた。が、念のためにと調べてみたら、どうやら間違いのようである。といって、定説はない。が、縫い針ではなくて、魚のフグの一種とする説が有力だ。その名のとおり、体表にウロコが変化した強くて長い針を持っている。実際には、針は350〜400本程度。普段、針は後ろ向きに寝かせているが、危険が迫ると体をふくらませて針を立たせる。こうなると、ウニやクリのイガのようになってしまい、何者もよせつけない。こんなものを飲まされて、腹の中でふくらまれてはたまらないな。縫い針にせよフグにせよ、現実的には飲めるわけもないが、比喩としては、一度に飲ますことのできそうなフグのほうがより現実的だと言うべきか。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)




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