「私がちゃんと作れる料理はひとつしかない。半熟卵である!」F.Arnoul。




2003年10月7日の句(前日までの二句を含む)

October 07102003

 針千本飲ます算段赤のまま

                           櫛原希伊子

語は「赤のまま(赤のまんま)」で秋。蓼(たで)の花。粒状の赤い花が祝い事に出される赤飯に似ているので、この名がついたという。女の子のままごと遊びでも、赤飯に見立てられる。揚句は、そんなままごと時代の思い出だろう。「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ますっ、指切った」と、あれほど固い約束をしたのに、友だちが約束を破った。よし、どうしてこらしめてやろうかと「算段」しながら、友だちを待ち伏せている。明るい秋の日差しのなかで、赤のままが揺れている。あのときは本当に怒っていたのだけれど、今となっては懐かしい思い出だ。何を約束し、どんなふうに仕返しをしたのかも忘れてしまった。久しく音信も途絶えているが、彼女、元気にしてるかなア。子供のときによく遊んだ友だちのことは、喧嘩したことも含めて懐かしい。もう二度と、あの頃には戻れない。ところで、この「針千本」の針のことを、私はずっと縫い針のようなものかと思ってきた。が、念のためにと調べてみたら、どうやら間違いのようである。といって、定説はない。が、縫い針ではなくて、魚のフグの一種とする説が有力だ。その名のとおり、体表にウロコが変化した強くて長い針を持っている。実際には、針は350〜400本程度。普段、針は後ろ向きに寝かせているが、危険が迫ると体をふくらませて針を立たせる。こうなると、ウニやクリのイガのようになってしまい、何者もよせつけない。こんなものを飲まされて、腹の中でふくらまれてはたまらないな。縫い針にせよフグにせよ、現実的には飲めるわけもないが、比喩としては、一度に飲ますことのできそうなフグのほうがより現実的だと言うべきか。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


October 06102003

 栗ひらふひとの声ある草かくれ

                           室生犀星

室義弘『文人俳句の世界』を、ときどき拾い読みする。犀星の他には、久米三汀(正雄)や瀧井孝作、萩原朔太郎などの句が扱われている。掲句も、この本で知った。文人俳句という区分けにはさしたる意味を見出し難いが、強いて意味があるとすれば、彼らが趣味や余技として句を作ったというあたりか。だから、専門俳人とは違い楽に気ままに詠んでいる。しゃかりきになって句をテキストだけで自立させようなどとは、ちっとも思っていない。そこが良い。ほっとさせられる。しかし、これらも昔からのれっきとした俳句の詠み方なのだ。俳句には、こうした息抜きの効用もある。最近の俳句雑誌に載るような句は、この一面をおろそかにしているような気がしてならない。息苦しいかぎり。芭蕉などもよくそうしたように、彼ら文人もまた手紙にちょこっと書き添えたりした。そうした極めて個人的な挨拶句が多いのも、文人俳句の特長だろう。同書によると、この句は、軽井沢の葛巻義敏(芥川龍之介の甥)から栗を送られたときの礼状にある。「栗たくさん有難う。小さいのは軽井沢、大きいのはどこかの遠い山のものならんと思ひます」などとあって、この句が添えられている。そして書簡には、句のあとに「あぶないわ。」とひとこと。受けて、小室は次のように書く。「この添え書は絶妙。これによって、足もとの草に散らばった毬やそれを避けて拾う二、三人の人物の構図がほうふつしてくる。小説風に構成された女人抒情の一句と言ってよい」。つまり、掲句は「あぶないわ。」のひとことを含めて完結する句というわけだろう。五七五で無理やりにでも完結させようとする現代句は、もっとこの楽な姿勢に学んだほうがよろしい。後書きでも前書きでもくっつけたほうが効果が上がると思ったら、どんどんそうすべきではあるまいか。ただし、「○○にて」なんてのでは駄目だ。これくらいに、洒落てなければ。(清水哲男)


October 05102003

 足場から見えたる菊と煙かな

                           永末恵子

ういう句は好きですね。高い「足場」に登って見渡したら「菊と煙」とが見えた。ただそれだけのことながら、よく晴れた秋の日の空気が気持ち良く伝わってくる。工事現場の足場だろうか。ただし、登っているのは作者ではない。作者は、登って仕事をしている人を下から見上げている。高いところに登れば、地面にいては見られないいろいろなものが一望できるだろう。あの人には、いま遠くに何が見えているのか。と、ちらりと想像したときに、作者は瞬間的に「菊と煙」にちがいないと思ったのだ。そうであれば素敵だなと、願ったと言ってもよい。菊と煙とは何の関係もないけれど、理屈をつければ菊は秋を代表する花だし、立ち昇るひとすじの煙ははかなげで秋思の感覚につながって見える。でも、こんな理屈は作者の意にはそぐわないだろう。作者は、もっと意識的に感覚的である。だから読者が感心すべきは、見えているはずのいろいろなものから、あえて菊と煙だけを取りあわせて選択したセンスに対してだ。ナンセンスと言えばナンセンス。しかし、このナンセンスは作者のセンスの良さを明瞭に示している。試みに、菊と煙を別のものに置き換えてみれば、このことがよくわかる。むろん私はやってみたけれど、秋晴れの雰囲気を出すとなると、「菊と煙」以上のイメージを生むことは非常に難しい。ただ工事現場を通りかかっただけなのに、こんなふうに想像をめぐらすことのできるセンスは素晴らしいというしかない。羨ましいかぎりだ。もう一句。「秋半ば双子の一人靴をはく」。いいでしょ、このセンスも。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)




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