日暮れに鶏を小屋に追い込むのが仕事だった。ために、秋になると遊び時間が大幅減に。




2003ソスN10ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 02102003

 夜霧とも木犀の香の行方とも

                           中村汀女

語は「木犀(もくせい)」で秋。三日前に、突然といった感じで近所の金木犀が甘い香りを放ちはじめた。窓を開けると、噎せるほどの芳香が入ってくる。このところ好天つづのこともあって、暑くもなく寒くもなく、まさに秋本番を迎えたという実感が湧く。句は具象的には何の情景も描いてはいないけれど、木犀の香りのありようを実に巧みに捉えている。夜のしじまに流れているのは霧のような芳香であり、かつまた芳香のような霧でもある。うっとりと夢見心地の秋の夜。そんな気分の良さが滲み出ている句だ。この句は、先ごろ亡くなった(9月13日、享年七十二)平井照敏の編纂した河出文庫版の『新歳時記・秋』(1989)で見つけた。平井さんは詩人として出発し、俳句に移った人だ。楸邨門。この歳時記は平井さんから直接いただいたもので、ここを書くのにとても重宝してきた。まず、季語の解説がわかりやすい。一通りの説明の後に「本意」という別項目があり、語源や命名の由来などが書かれている。たとえば「木犀」の「本意」としては、こういう具合だ。「もくせいと呼ぶのは幹の模様が犀の皮に似ているためである。中国では金桂(うすぎもくせい)、丹桂(きんもくせい)、銀桂(ぎんもくせい)と名づけていた。とくに銀桂がよい。桂の花ともいわれる」。本意だけでも大いに助かるのだが、選句にも筋が一本通っていて参考になる。何句か例句を掲げ、なかで平井さんがベストと判断した句には*印がつけられている点も、類書には見られないユニークなところだ。掲句には*がついている。ぜひお薦めしたい歳時記なのだが、残念なことに版元で品切れがつづいているようだ。ぜひとも増刷してほしい。(清水哲男)


October 01102003

 夜学果て口紅颯とひきにけり

                           岩永佐保

語は「夜学」で秋。灯火親しむの候からの季語のようだ。昔は夜学というと、苦学のイメージが強かった。杉山平一が戦中に出した詩集『夜学生』に、同題の詩がある。「夜陰ふかい校舎にひゞく/師の居ない教室のさんざめき/あゝ 元気な夜学の少年たちよ/昼間の働きにどんなにか疲れたらうに/ひたすら勉学にすゝむ/その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ/きみ達より何倍も楽な仕事をしてゐながら/夜になると酒をくらつてほつつき歩く/この僕のごときものを嘲笑へ……」。むろん戦後のことになるが、私の通学していた高校にも夜間の定時制があった。中学の同級生が通っていたので、その辛さはわかっていたつもりだ。偉いなあと、いつも秘かに敬意を抱いていた。しかし、昨今の夜学には従来の定時制もあるけれど、一方には小学生の塾があり、資格を取るための専門学校があり、カルチャースクールなどもあって、かつての苦学とはすっと結びつかなくなっている。とはいっても、昼間働いて夜學に通うのは大変には違いない。強い意志が必要だ。掲句の若い女性は、何を勉強しに来ているのだろうか。授業が終わって席を立つ前に、「颯(さっ)と」口紅をひいたところに、彼女の強い意志の片鱗が見える。疲れてはいるけれど、身だしなみは忘れない。きちんとした性格の清潔な女性の姿が浮び上ってくる。うっかりすると見過ごしてしまうような仕草から、これだけの短い言葉で、一人の女性像を的確に描き出した作者の腕前は見事だ。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


September 3092003

 みづうみのみなとのなつのみじかけれ

                           田中裕明

月尽。九月が終わる。今年の夏は冷たく、今月に入ってから猛烈な暑さに見舞われた。いつもの年だと名残の夏の暑さと感じるのだが、今年は九月になってから、やっと本格的な夏がやってきたという感じだ。それも、まことに短い「夏」であった。おおかたの人々の実感も同じだろう。この実感の上に立って掲句を読むと、私には歳時記的な夏の終わりではなくて、今年の九月尽のことを詠んでいるように思えてならない。句意もその抒情性も明瞭なので説明の必要もないだろうが、しかし逆にこの世界を散文で説明せよと言われると、かなり難しいことになる。ふと、そんなことを思った。つまり、自分なりのイメージを述べるだけでは、何かまだ説明が足らないという思いの残る句なのだ。というのも、すべてはこの故意の平仮名表記に原因があるからだと思う。「湖」ではなく「みづうみ」、「港」ないしは「湊」ではなく「みなと」と表記するとき、「みづうみ」も「みなと」も現実にあるどこそこのそれらを離れてふわりと宙に浮く。架空的にで浮くのではなく、現実的な存在感を残しつつ抽象化されるとでも言えばよいだろうか。平たく言ってしまえば、出てくる「みづうみ」も「みなと」も、そしてまた「みじかけれ」までもが漠然としてしまうのだ。だから、受けた抒情的な印象がいかに鮮明であったとしても、上手には説明できない。作者がねらったのはまさにこの漠然性の効果であり、もっと言えば、漠然性の明瞭化明晰化による効果ということだろう。しかるべき部分を漢字に直してみればはっきりするが、漢字混じりにすると、句のスケールはぐっと縮まってしまう。読者の想像の余地が、ぐっとせばまってしまうからだ。平仮名表記なぞは一見簡単そうだけれど、よほど練達の俳人でないと、句のようにさらりと使えるものではない。こういう句を、玄人の句、玄人好みのする句と言う。俳誌「ゆう」(2003年10月号)所載。(清水哲男)




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