今月の看板は我が青春の女優たち。ほとんどが年上のお姉さんだ。輝いてたなア、映画は。




2003ソスN10ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 01102003

 夜学果て口紅颯とひきにけり

                           岩永佐保

語は「夜学」で秋。灯火親しむの候からの季語のようだ。昔は夜学というと、苦学のイメージが強かった。杉山平一が戦中に出した詩集『夜学生』に、同題の詩がある。「夜陰ふかい校舎にひゞく/師の居ない教室のさんざめき/あゝ 元気な夜学の少年たちよ/昼間の働きにどんなにか疲れたらうに/ひたすら勉学にすゝむ/その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ/きみ達より何倍も楽な仕事をしてゐながら/夜になると酒をくらつてほつつき歩く/この僕のごときものを嘲笑へ……」。むろん戦後のことになるが、私の通学していた高校にも夜間の定時制があった。中学の同級生が通っていたので、その辛さはわかっていたつもりだ。偉いなあと、いつも秘かに敬意を抱いていた。しかし、昨今の夜学には従来の定時制もあるけれど、一方には小学生の塾があり、資格を取るための専門学校があり、カルチャースクールなどもあって、かつての苦学とはすっと結びつかなくなっている。とはいっても、昼間働いて夜學に通うのは大変には違いない。強い意志が必要だ。掲句の若い女性は、何を勉強しに来ているのだろうか。授業が終わって席を立つ前に、「颯(さっ)と」口紅をひいたところに、彼女の強い意志の片鱗が見える。疲れてはいるけれど、身だしなみは忘れない。きちんとした性格の清潔な女性の姿が浮び上ってくる。うっかりすると見過ごしてしまうような仕草から、これだけの短い言葉で、一人の女性像を的確に描き出した作者の腕前は見事だ。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


September 3092003

 みづうみのみなとのなつのみじかけれ

                           田中裕明

月尽。九月が終わる。今年の夏は冷たく、今月に入ってから猛烈な暑さに見舞われた。いつもの年だと名残の夏の暑さと感じるのだが、今年は九月になってから、やっと本格的な夏がやってきたという感じだ。それも、まことに短い「夏」であった。おおかたの人々の実感も同じだろう。この実感の上に立って掲句を読むと、私には歳時記的な夏の終わりではなくて、今年の九月尽のことを詠んでいるように思えてならない。句意もその抒情性も明瞭なので説明の必要もないだろうが、しかし逆にこの世界を散文で説明せよと言われると、かなり難しいことになる。ふと、そんなことを思った。つまり、自分なりのイメージを述べるだけでは、何かまだ説明が足らないという思いの残る句なのだ。というのも、すべてはこの故意の平仮名表記に原因があるからだと思う。「湖」ではなく「みづうみ」、「港」ないしは「湊」ではなく「みなと」と表記するとき、「みづうみ」も「みなと」も現実にあるどこそこのそれらを離れてふわりと宙に浮く。架空的にで浮くのではなく、現実的な存在感を残しつつ抽象化されるとでも言えばよいだろうか。平たく言ってしまえば、出てくる「みづうみ」も「みなと」も、そしてまた「みじかけれ」までもが漠然としてしまうのだ。だから、受けた抒情的な印象がいかに鮮明であったとしても、上手には説明できない。作者がねらったのはまさにこの漠然性の効果であり、もっと言えば、漠然性の明瞭化明晰化による効果ということだろう。しかるべき部分を漢字に直してみればはっきりするが、漢字混じりにすると、句のスケールはぐっと縮まってしまう。読者の想像の余地が、ぐっとせばまってしまうからだ。平仮名表記なぞは一見簡単そうだけれど、よほど練達の俳人でないと、句のようにさらりと使えるものではない。こういう句を、玄人の句、玄人好みのする句と言う。俳誌「ゆう」(2003年10月号)所載。(清水哲男)


September 2992003

 石榴割れる村お嬢さんもう引き返さう

                           星野紗一

語は「石榴(ざくろ)」で秋。不思議な味のする句だ。変な句だなあと一度は読み過ごしたが、また気になって戻ってきた。まるで、横溝正史の小説の発端でも読んでいるような雰囲気だ。この状況で、そこここに大きなカラスがギャーギャー鳴きながら飛び回りでもしていたら、おぜん立てはぴったり。作者ならずとも、「もう引き返さう」という気持ちになるだろう。でも、お嬢さんは気丈である。委細構わず物も言わずに、人気の無い村の奥へ奥へと歩み入ってゆく……。周囲にある石榴の木を見上げると、どれもこれもの実が大きく割れており、二人をあざ笑うかのような赤い果肉がおどろおどろしい。気味が悪いなあ……。ところで実際、石榴は、昔は不吉な実として忌み嫌われていたそうである。というのも、東京入谷などの鬼子母神(きしもじん)像を見ると右手に石榴を持っているが、あの石榴には次の言い伝えがあるからだった。この女はもとは鬼女であり千人の子を生んだが、子を養うために、日夜、他人の子を盗んではわが子に与え、地域には悲しみの泣き声が絶えなかった。この話を伝え聞いた釈迦は、女に吉祥果(石榴)を与え、人の子の代わりにその実を食べさせよと戒めたという。この話のため、石榴は人肉の味がするとして嫌われたということだ。嘘か本当かは知る由もないけれど、私もそういえば人肉は酸っぱいものだと聞いたことがある。作者もまた、おそらくはこの話を踏まえて作句しているのだろう。それにしても、奇妙な味の俳句があったものである。この人の句を、もっと読んでみたくなった。もし句集があったら、どなたかお知らせいただければありがたいのですが。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)

[早速……]上記星野紗一句集について、読者より丁寧なご案内をいただきました。ありがとうございました。(29日午前6時30分)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます