珍しく月末の原稿仕事がない。これで正真正銘ホンマモンの隠居生活が味わえるのかも。




2003ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2492003

 子は電柱の裏側通る鰯雲

                           宮坂静生

者は雑誌「俳句」(2003年10月号)で、「子どもの歩き方には秘密がある。わざわざ電柱の裏へ回って」とコメントしている。その通りではあるのだが、掲句を実感するには、あらためて子供の動きを観察するよりも、自分の子供のころに戻ってみるほうが手っ取り早い。そうすると、大人の目からすれば「秘密」や「わざわざ」と見える振る舞いも、子供にしてみれば「秘密」でもなければ「わざわざ」でもなかったことに思いが至るだろう。考えてみれば、電柱があるような全ての長い道は大人の必要から作られたものだ。子供には、ただ点から点へと移動する目的の道なんぞは必要がないのである。幼稚園や小学校に通う道だって、無ければ無いでいっこうに構わない。それで困るのは、子供ではなくて大人のほうなのだ。だから、子供は道を移動するための場としては捉えずに、ほとんど細長い遊び場として理解している。というか、それ以外の場としての理解が及ばない。したがって、子供自身の意識としては「わざわざ」電柱の裏に回るのではなく、しごく「当然」なこととして回るのである。そのほうが面白いからだ。愉快だからだ。つまり、道の理解については、子供のほうが大人よりもずっと空間的に捉えている。比べて大人は、ずっと二次元的にしか捉えていない。高村光太郎の詩「道程」に、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」とある。むろん光太郎の道は観念的なそれなのだが、しかし、この道には大人としてのまぎれもない二次元的な道の解釈が前提にある。もはや子供ではなくなった人間の多くの不幸は、このような道の理解からもはじまってゆく。「道程」は、詩人の意に大いに反してではあろうが、そう読まれても仕方のない詩だと思う。掲句を読んだ途端に、ふっと思ったことを書いた。『青胡桃』所収。(清水哲男)


September 2392003

 南無秋の彼岸の入日赤々と

                           宮部寸七翁

日は秋分の日、「秋の彼岸の中日」。俳句で、単に「彼岸」と言えば春のそれを指す。作句の時には注意するようにと、たいていの入門書には書いてある。それかあらぬか、秋彼岸句には「彼岸」そのものに深く思い入れた句は少ないようだ。秋の彼岸は小道具的、背景的に扱われる例が多く、たとえば来たるべき寒い季節の兆を感じるというふうに……。これにはむろん「暑さ寒さも彼岸まで」の物理的な根拠もあるにはある。が、大きな要因は、おそらく秋彼岸が農民や漁民の繁忙期と重なっていたことに関係があるだろう。忙しさの真っ盛りだが、墓参りなどの仏事に事寄せて、誰はばかることなく小休止が取れる。つまり、秋の彼岸にはちょっとしたお祭り気分になれるというわけで、このときに彼岸は名分であり、仕事を休むみずからや地域共同体の言いわけに近い。勝手に休むと白い目で見られた時代の生活の知恵である。「旧家なり秋分の日の人出入り」(新田郊春)、「蜑のこゑ山にありたる秋彼岸」(岸田稚魚)など。「蜑」は「あま」で海人、漁師のこと。どことなく、お祭り気分が漂っているではないか。その点、掲句は彼岸と正対していて異色だ。「南無」と、ごく自然に口をついて出ている。赤々とした入日の沈むその彼岸に、作者の心の内側で深々と頭を垂れている感じが、無理なく伝わってくる。物理的な自然のうつろいと心象的な彼岸への祈りとが、見事に溶けあっている。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2292003

 迎へ水足し野井戸汲む秋の昼

                           棚山波朗

つう「迎へ水」というと、盆棚に供える水を思う人が多いだろう。しかし、掲句の水はそうではない。「呼び水」「誘い水」とも言う。でも、この人、よくこんなことを知っているなア。と、句集の略歴を見てみたら、私と同世代で出身地は石川県とあった。さもありなん。「野井戸」だから、ポンプで汲み上げるのではなく釣瓶を使う井戸だ。浅い井戸ならば、柄杓で汲める。日頃あまり使われないので、ちょっと覗くとほとんど水が無い状態か、枯れてしまっているようにすら見えることがある。だが、そこはそれ地下水脈だ。めったに枯れるなんてことはない。そこで必要なのが「迎へ水」というわけである。別の場所から調達してきた水を井戸に注いでやると、あら不思議。しばらく待つうちに、信じられないくらいに水が湧いてくる。水が水を迎えに行った、つまり途中で断たれていた水の道を、「迎え水」が逆方向から浸透して再開通させたという理屈だ。昔の人の知恵の一つである。秋の昼、天高し。野には、気持ちの良い風が吹いている。そんな清々しい野での、この「迎へ水」による達成感も清々しい。はるかな北陸での少年時代の思い出だろうか、それとも最近の体験を詠んだのだろうか。いずれにしても、あまり使われなくなった季語「秋の昼」にふさわしい情景だ。季語がぴしゃりと効いている。そして「秋の昼」と言える時間は短い。やがてこの野には、それこそ釣瓶落しに日暮れがやってくる。『料峭』(2003)所収。(清水哲男)




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