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September 2392003

 南無秋の彼岸の入日赤々と

                           宮部寸七翁

日は秋分の日、「秋の彼岸の中日」。俳句で、単に「彼岸」と言えば春のそれを指す。作句の時には注意するようにと、たいていの入門書には書いてある。それかあらぬか、秋彼岸句には「彼岸」そのものに深く思い入れた句は少ないようだ。秋の彼岸は小道具的、背景的に扱われる例が多く、たとえば来たるべき寒い季節の兆を感じるというふうに……。これにはむろん「暑さ寒さも彼岸まで」の物理的な根拠もあるにはある。が、大きな要因は、おそらく秋彼岸が農民や漁民の繁忙期と重なっていたことに関係があるだろう。忙しさの真っ盛りだが、墓参りなどの仏事に事寄せて、誰はばかることなく小休止が取れる。つまり、秋の彼岸にはちょっとしたお祭り気分になれるというわけで、このときに彼岸は名分であり、仕事を休むみずからや地域共同体の言いわけに近い。勝手に休むと白い目で見られた時代の生活の知恵である。「旧家なり秋分の日の人出入り」(新田郊春)、「蜑のこゑ山にありたる秋彼岸」(岸田稚魚)など。「蜑」は「あま」で海人、漁師のこと。どことなく、お祭り気分が漂っているではないか。その点、掲句は彼岸と正対していて異色だ。「南無」と、ごく自然に口をついて出ている。赤々とした入日の沈むその彼岸に、作者の心の内側で深々と頭を垂れている感じが、無理なく伝わってくる。物理的な自然のうつろいと心象的な彼岸への祈りとが、見事に溶けあっている。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 17102008

 ときに犬さびしきかほを秋彼岸

                           山上樹実雄

世というものがあったのなら、僕は犬だったような気がする。初めて出遭った犬も僕には妙に親近感を示す。「不思議よねぇ。この犬、他人にはだめなんだけど」なんて言われるとこちらも尻尾をふりたくなる。昔から犬顔だと言われ、犬という渾名をつけられたこともある。僕はどんな犬だったのだろうか。目をつぶって念じて観ると、白粉花なんかが路傍に咲いている坂のある街が見えてきた。何種もの血が混じってなんとも愛嬌のある風貌をした僕は、毎日そんな坂を上り下りしたのだった。散歩の帰りに坂の上から見る茜雲のきれいだったこと。写生という方法は、瞬間のカットの中に永遠を封印する。秋の日向の道にしゃがんで犬の背や頭を撫でているときに、犬はふっと人間のような表情を見せる。犬の前世は人間だったのかも知れぬ。人間から犬へ、犬から人間へ。輪廻の永遠の時間の中の瞬間が今だ。秋彼岸とはそのことへの意識。『晩翠』(2008)所収。(今井 聖)


September 1192015

 鳩吹けばふる里歩み来るごとし

                           今村征一

吹くは両手を合わせた間に息を吹き、ハトの鳴き声を出すこと。猟師がシカを呼んだり武士や忍者が仲間の合図に用いたりした。子供たちも成長過程で吹けることを自慢しあったものである。吹けなかった私はずいぶん悔しい思いもした。そう言えば指笛も未だに吹けない。級長だったがその事で餓鬼大将にはなれなかったのである。吹ける連中でも図太く吹けるとか音がか細いとか些細な事が自慢と落胆の原因を作った。今久々に鳩を吹いてみるとあのふる里のあの頃の記憶がどっと甦ってくる。あの頃へ戻りたいけどもう戻れない。押し寄せる想い出は甘くて切ない。他に<定かなる記憶終戦日の正午><野の風を摘んで束ねて秋彼岸><干柿のやうな齢となりにけり>などなど氏の句が多数所載されている。『朝日俳壇2013』(2013)。(藤嶋 務)




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