前橋へ。台風は逸れたが風が強い。上州はただでさえ風が強い土地だ。どうなりますか。




2003ソスN9ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2292003

 迎へ水足し野井戸汲む秋の昼

                           棚山波朗

つう「迎へ水」というと、盆棚に供える水を思う人が多いだろう。しかし、掲句の水はそうではない。「呼び水」「誘い水」とも言う。でも、この人、よくこんなことを知っているなア。と、句集の略歴を見てみたら、私と同世代で出身地は石川県とあった。さもありなん。「野井戸」だから、ポンプで汲み上げるのではなく釣瓶を使う井戸だ。浅い井戸ならば、柄杓で汲める。日頃あまり使われないので、ちょっと覗くとほとんど水が無い状態か、枯れてしまっているようにすら見えることがある。だが、そこはそれ地下水脈だ。めったに枯れるなんてことはない。そこで必要なのが「迎へ水」というわけである。別の場所から調達してきた水を井戸に注いでやると、あら不思議。しばらく待つうちに、信じられないくらいに水が湧いてくる。水が水を迎えに行った、つまり途中で断たれていた水の道を、「迎え水」が逆方向から浸透して再開通させたという理屈だ。昔の人の知恵の一つである。秋の昼、天高し。野には、気持ちの良い風が吹いている。そんな清々しい野での、この「迎へ水」による達成感も清々しい。はるかな北陸での少年時代の思い出だろうか、それとも最近の体験を詠んだのだろうか。いずれにしても、あまり使われなくなった季語「秋の昼」にふさわしい情景だ。季語がぴしゃりと効いている。そして「秋の昼」と言える時間は短い。やがてこの野には、それこそ釣瓶落しに日暮れがやってくる。『料峭』(2003)所収。(清水哲男)


September 2192003

 颱風の心支ふべき灯を点ず

                           加藤楸邨

後もしばらくまでは、木造住宅が多かったこともあり、都市部でも「颱風」は脅威だった。東京に住んでいた学齢前のころの記憶だが、颱風が近づいてくると、近所のそこここから家などを補強するための鎚の音が聞こえてきたものだ。家々は早くから雨戸を半分くらいは閉めてしまい、それでなくとも昼なお暗くなっていた室内はまるで夕暮れ時のようになった。子供心には、なにやら得体のしれない魔物が襲ってくる感じで恐かった。そんなただならぬ気配のなかで、作者は心細さを少しでも減じようと、電灯を点したのだろう。いい年をした大人が、などと笑う勿れ。昔は今のように、テレビが刻々と進路を告げてくれるわけじゃない。唯一の情報源であったラジオが告げるのは、よくわからない気象用語まじりの予報であり、天気図なしにあの放送を理解できた人は稀だったろう。その予報にしてからが、精度は極めて粗かったのだ。だから、接近を告げられれば、誰だって今の人以上に心細さを覚えたに違いない。せめて一灯を点ずることによって、作者はその暖かい明りに癒されようとしたのである。こういうときの一灯は、本当にありがたい。元気づけられる。作者のひとまず安堵した顔が目に浮かぶようだ。しかし、表の風雨の勢いはだんだんに強くなってくる……。風が激しくなると、昔の電灯は時折ふうっと消えそうに暗くなって、またしばらくすると明るくなったりした。ついに、そのまま消えてしまうことも多かった。掲句を味わうためには、この句の「つづき」を想像しておく必要があるだろう。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2092003

 シベリヤという菓子の歳月鉦叩

                           的野 雄

語は「鉦叩(かねたたき)」で秋。チンチンチンと鉦を叩くような美しい音でかすかに鳴くが、私は姿を見たことがない。物の本によると、体長は1センチくらいだとか。さて、問題は「シベリヤという菓子」だ。「菓子の歳月」とあるくらいだから、相当に古くからある有名な菓子なのだろうが、聞いたこともない名前だ。日本の菓子ではなくて、シベリヤ特産なのだろうか。それでなくとも甘いものにはうといので、こういうときの頼みの綱であるネットを駆け回ってみた。と、間もなくまずは商品写真が見つかった。が、ここに掲載しなかったのは、透明な包装紙越しに写されているので、菓子自体の姿がよくわからないからである。いくら眺めても、はじめて見る代物としか思えない。そこで、なお検索をつづけるうちに言葉による菓子の説明があり、そこではたと膝を打つことになった。「カステラ生地で餡を挟んだもの」。たったこれだけの説明なのに、たちまち懐しさが込み上げてきた。なあんだ、これならば昔の村の駄菓子屋(というよりも、万屋だったけれど)にだって、いつでも売っていたあの菓子のことじゃないか。名前は知らなかったけれど、いまでも当時の味は思い出すことができる。いや、大人になってからも、どこかで食べた覚えがあるような……。カステラ生地といってもパサパサなものだったが、それがまた美味だったっけ。そうか、あれがシベリヤ菓子という名前なのか。命名の由来には諸説あるようだが、いずれにしても大正末期ころから登場した純粋に日本製の庶民的な菓子である。「シベリヤ」という立派な名前を持ちながら、いつしか忘れられ、いまではその存在すらも知る人は少なくなってしまった。その「歳月」はまた、作者自身の過ごした歳月でもある。かすかな鉦叩の音を耳にしながら、来し方を思いやっている一人の男の淋しさがじわりと伝わってくる。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)




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