あの人が生きていたら、さぞや大喜びしたろうなあ。18年ぶりとは、そういう歳月です。




2003ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892003

 槇の空秋押移りゐたりけり

                           石田波郷

本健吉によると、『波郷百句』には次の自註があるそうだ。「一二本の槇あるのみ。然もきりきりと自然の大転換を現じてみせようとした。一枚の板金のやうな叙法」。当然、この言葉には、芭蕉が弟子に与えた有名なお説教、「発句は汝が如く、物二ッ三ッとりあつめて作るものにあらず。こがねを打のべたるやうにありたし」(『去来抄』)が意識されている。作者に言われるまでもなく、掲句に登場する具体的な物体は、そびえ立つ「槇(まき・槙)」の大木のみだ。それのみで、訪れる秋という季節の圧倒的なパワーを詠んだ才能には敬服させられる。雄渾な名句だ。およそ、叙法にゆるぎというものがない。よほど逞しい自恃の心がないと、このように太い線は描けないだろう。波郷、絶好調なり。ただし、この自註は気に入らない。気負った語調も気に入らないが、「一枚の板金のやうな叙法」とはどういうつもりなのか。芭蕉の教えと同じ叙法だよと言いたかったのだろうが、大間違いだ。掲句の叙法は、いわば三次元の世界を限りなく二次元の世界に近づけようとする「板金」の技法とは似ても似つかない。同じ比喩を使うならば、波郷句の技法は三次元の世界を限りなく四次元の世界に近づけたことで説得力が出たのである。光景に「押移りゐたり」と時間性を与えたことで、精彩を放った句なのだから……。まあ、当人が「板金」と言ったのだから、いまさら文句をつけるのも変な話だけれど、芭蕉を誤解した一例としてピンで留めておく価値はあるだろう。芭蕉は、一つの素材をもっともっと大切にねと言ったのだ。「こがねを打のべたるやうに」ありたいのは素材の扱い方なのであって、叙法はその後に来る問題である。『風切』(1943)所収。(清水哲男)


September 1792003

 台風去る花器にあふるる真水かな

                           大塚千光史

語は「台風」で秋。「花器(かき)」は、この場合には平たい水盤と読むのが適当だろう。台風が去ったとき、まず人が期待するのは乾燥である。通過中はあちこちが水浸しになり、その湿気たるやたまらない。風もたまらないけれど、去ってしまえば多少の吹き返しがあるにせよ、おさまるのは時間の問題だ。だが、湿気はそういうわけにはいかない。いつまでも、とくに日の当たらない家の中はじめじめとしている。そんな家の中では、むろんいつもと同じ生活がつづけられているわけで、床の間の花器もいつもと同じように水をいっぱいに張った姿で置かれている。単なる水ということで言えば、花器の水だって台風のもたらした水と何ら変わりはない。が、作者の目には、まったく異質の水と映っている。それが「真水(まみず)」という表現に凝縮した。じめついた部屋の中での水ならば鬱陶しく感じられて当たり前なのだが、この花器の水だけは鬱陶しさから外れている。むしろ清冽の気に「あふれ」ているようでサラサラしており、およそ湿気とは無縁のように見えているのだ。これぞ「真水」だ。そう見えるのは、水盤の純白のせいもあるだろう。活けられている花の姿にも関係しているだろう。しかし、そういうことを言わずに水一点に絞った表現で、作者は台風が去った後の生々しい気分を伝えている。水には水をもって物を言わしめた手柄、と言うべきか。台風一過の句には、戸外の様子を詠んだものが圧倒的に多い。なかで掲句は、その意味からも異色作と言うべきである。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


September 1692003

 鶏頭のどこ掴みても剪りがたし

                           河内静魚

語は「鶏頭(けいとう)」で秋。おおまかに分けると、鶏頭には二種類ある。命名の由来となった雄鶏のとさかのように茎の先端だけに広がって咲くタイプと、槍のように先端から下部にかけて花をつけるタイプと。句の鶏頭は、後者だろう。前者ならば他の花と変わらないので剪(き)りやすいが、槍状のものは、なるほど剪りにくい。どこで剪ってもバランスに欠けるような気がして、作者は困惑している。「どこ掴みても」に、困った感じがよく表われていて面白い。生け花の専門家なら別かもしれないが、共感する読者は多いだろう。では、なぜ困るのか。こういうときには誰しもが、ほとんど無意識的にもせよ、自分なりの美意識を働かせて花を剪ろうとするからである。とにかく適当に剪っておいてから、後で活けるときに調節すればよいなどとは思わないのだ。剪る現場で、おおむねデザインを完了させておこうとする。考えてみればなかなかに面白い心理状態だが、これはそもそも花を活けたいと思う発想に、既にデザイン志向があるからだろう。極論すれば、頭の中に室内でのデザインが浮かぶから活けたいと思うのだ。ところが、このデザインは、時に掲句のように現実と衝突してしまう。自分なりのデザインにしたがって花に近づいてみると、いまのいままでイメージしていた花が、実は似ても似つかぬ正体をあからさまにしてくる。掴んだまではよいのだが、その正体を知ってしまった以上は、急いで己のデザインを修正変更する必要がある。でも、どうやって……。作者は、ここのところを敏感に「掴んで」詠んだ句だ。単純そうでいて、そうではない句だ。『花鳥』(2002)所収。(清水哲男)




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