ここまで来れば中日に連勝してもらって、甲子園で決めてほしい。そうもいかないか…。




2003ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292003

 鬼の子に虚子一行の立ちどまる

                           岩永佐保

語は「鬼の子」で秋。蓑虫(みのむし)のこと。むろん、想像句だ。吟行だろうか。何でもよろしいが、道ばたで鬼の子を見つけた虚子が「ほお……」と立ちどまると、従っていた弟子たちも同じように立ちどまり、みんなでしばし眺め入っている図である。大の大人の何人もが、いかにも感に堪えたように、ぶら下がったちっぽけな虫を見ながら同じ顔つきをしているのかと想像すると、可笑しさが込み上げてくる。虚子やその一門に対する皮肉か、あるいは諧謔か。表面的に読めばそういうことにもなろうが、私はこれを一つの虚子論であると読んでおきたい。読んだとたんに「あっ」と思った。この「一行」こそが虚子その人なのだと、勝手に合点していた。こう言われてみれば、虚子という俳人はもちろん一人の人間でしかないのだけれど、俳人格としてはいつだって個人ではなく「虚子一行」だったような気がする。初期の句はともかく、大結社「ホトトギス」を率いた彼の句の署名に「虚子」とはあっても、ほとんどが「虚子一行」の「一行」が省略されていると読むべきではあるまいか、と。すなわち、虚子の発想がいつもどこかで個的な衝迫力に欠けているのは、逆に言えばいつもどこかで幾分おおらかであるのは、虚子の個がいつもどこかで「一行」だったからなのではあるまいか。「蓑虫の父よと鳴きて母も無し」は虚子の名句として知られるが、主観性の濃い句にもかかわらず、虚子自身の内面性は希薄だ。つまり「一行」としての発想がそうさせているのではないのか。揚句の作者には、たぶんこの句のことが念頭にあっただろう。虚子が虚子たる所以は、実はこのように常に「一行」的な存在にあったと言いたいのではあるまいか。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


September 1192003

 陸稲消え六〇万市さがみはら

                           小川水草

語は「陸稲(おかぼ)」で秋。畑で作る稲のこと。作者の略歴に「JA全農などで営農関係の研究普及に従事」とある。戦後の工業化、ベッドタウン化で急速に人口の膨れ上がった地域は多いが、句の「さがみはら(神奈川県相模原市)」もその一つだ。人口十万人を越えたのは1960年であり、掲句が詠まれたのが2000年だから、人口爆発地域と言っても過言ではないだろう。昔は農業以外に見るべき産業もなく、しかも水の便が悪い土地なので草地に開いた畑を活用する他はなく、したがって米作も水稲ではなく陸稲だったというわけだ。私の山口県の田舎では陸稲は珍しかったのだが、藷や大豆などと輪作ができるので、ある意味では効率のよい作物だなあとは感じていた。しかし、最大の欠点は耐干性に極めて弱いことだ。丈夫に育つかどうかは雨まかせみたいなところがあり、毎年、旱魃の危機に見舞われながらの栽培は、精神的にもとても大変だったと思う。そんな危なっかしい陸稲だが、自給自足の農家では作るのを止めるわけにはいかない。しかし、その後地域の都市化が進むなかで農家にも現金収入への道が開かれ、それにつれて陸稲栽培はどんどん姿を消していった。そして、ついに掲句の状況へと至り、気がつけば地域は「六〇万市」に膨れ上がっている。句の鑑賞で留意すべきは、作者が決して大都市化に皮肉を投げているのではないという点だ。むしろ、短期間でのあまりの土地の変わりように呆然としている図なのである。ここには感傷もなければ、怒りもない。「さがみはら」と故意に平仮名表記をすることで、かつての「相模原」とは似ても似つかぬ現況を正確に表現したかったのだ。今宵は名月。相模原台地にも、昔と変わらぬ月が上る。『畦もぐら---いま農の周辺』(2003)所収。(清水哲男)


September 1092003

 ふる里は波に打たるゝ月夜かな

                           吉田一穂

が高校生のときだったと思うが、国語の教科書に一穂の「白鳥」が載っていてびっくりした覚えがある。この難解な詩を、どんなふうに教師は教えたのだろうか。私が教師だったら、生徒には素直に「わかりませぬ」と謝るしかない。一穂の難解さは、徹底して日常的な描写を拒否したところにあった。元来、日本語は感覚的情緒的であり、現実を取捨選択して切り抜くのではなく、現実の流れをなぞって行くのに適している。すなわち描写を得意とするわけだが、ならば芸術までがわざわざ「ナメクジ語」(一穂)を使うことはない。あえてそのようにメロディアスな日本語の特性にさからい、言語的な抽象性を目指すときに、はじめて日本語表現は芸術として自立できるのだ。と、これは私なりの雑駁な理解でしかないけれど、揚句にもむろんこうした詩人の方法論が生かされていると読むべきだろう。詩人は芭蕉を敬愛し、「スケッチ文学」の蕪村を嫌った。安易な描写による抒情性を否定した。だが皮肉なことに、この句には彼が蛇蝎の如く嫌った情緒が纏綿といった感じで滲んで見えている。私の考えでは、この句には方法論的に芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」が下敷きにあると思う。「荒海」に対するに「ふる里」、「よこたふ」に「打たるゝ」、そして「天河」に「月夜」。いまある自分の位置からのまなざしや思いの方向が、完全に同一だ。にもかかわらず、一穂句が情緒的に流れて見えるのは何故だろうか。それはおそらく詩人自身がどう反抒情的に句を律したつもりでも、「ふる里」や「月夜」の語彙が既にしてあまりにも抒情の甘さにまみれているからに他ならないだろう。絶対に言えることは、詩人がこの句に託した屹立したイメージは、ほとんど読者には伝わらないのである。いたましきかな。詩集『稗子傅』(1935)所収。(清水哲男)




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