「モーニング娘。特区」などとはしゃいでる場合じゃないだろう。いや〜な感じだ。




2003ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0592003

 定席は釣瓶落しの窓辺かな

                           西尾憲司

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日は井戸の中にまっすぐに落ちていく釣瓶のように、暮れるのが早い。行きつけの喫茶店か、あるいは飲み屋だろうか。いつも座る席は決まっている。その窓辺から春夏秋冬の季節のうつろいを見ているのだが、このときにはまさに釣瓶落しといった感じで、暮れていった。日中の暑さは厳しくても、季節はもうすっかり秋なのだ。そう納得したのと同時に、作者の胸をちらっとよぎったのは、おそらくはこれからの自分の人生に残された時間のことだろう。若いうちならば思いも及ばないけれど、ある程度の年齢になってくると、何かのきっかけで余命などということを思ってしまう。まさかまだ釣瓶落しとは思いたくはないが、かといって有り余るほどの時間が残されているわけでもない。と、深刻に思ったのではなく、あくまでもちらっとだ。そんなちらっとした哀感が読者の胸をもかすめる仕立てが、いかにも俳句的である。上手な句だ。「定席」といえば、私もわりに窓辺の席を好むほうだ。窓辺がなければ、隅っこの席。電車だと、できるだけ後方の車両に乗る癖がある。学生時代に、友人からそういう人間は引っ込み思案だと聞かされて、なるほどと思った。だったら、今後は意識的に真ん中や前方を目指すことで、いつかは外向的な性格に転じるはずだと馬鹿なことを考えた。が、かなり頑張ってはみたものの、効果はちっとも表われないのであった。いつの間にか、また隅へ後へと戻ってしまい、今日に至る。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)


September 0492003

 新涼や二人で川の石に乗り

                           寺田良治

語は「新涼」で秋。句の情景は、川遊びというほどのことではない。山峡などの川辺を歩いていて、ふっと川面からごつごつと露出している「石」に乗ってみただけのことだ。何が「二人」をしてそんな他愛無い行為に走らせたのかと言えば、むろん「新涼」である。夫婦か、恋人同士か、あるいは同性の二人連れだってかまわないのだが、とにかく二人ともどもに稚気溢れる行動に移りたくなるほど、気持ちの良い涼しさに恵まれたということだ。写真で言えば、記念写真ではなくスナップ写真。シャッター・チャンスが巧いので、なんでもないような情景ながら、構えた記念写真などよりもずっと新鮮な印象を与えつづけるだろう。こういう写真を撮れる人、いや、句を作れる人は、とても言語的な運動神経が良い人なのだと思う。上手なカメラマンがそうであるように、被写体の魅力を引き出すコツを心得ている。まずもって、被写体(相手)にある種の先入観を抱いて向き合うようなことはしない。また、相手の意識のうちで、その行為に意味があろうがなかろうが、そんなことにも関心を持たない。待っている瞬間は、ただ一点。すなわち、相手が我を忘れる一瞬だ。そして、この忘我の一瞬は、どんなに意識的な行為の過程にも訪れる。それがたとえ、気取りという極めて意識的な行為の最中にでも、気取りの意識が高揚してくると否応なく露出してくる状態である。そこを逃さずに、パッと切り取る。そして切り取るときには、こちらも忘我。ここが肝心。揚句は、まさにそのようにして切り取られた作品と読める。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


September 0392003

 いなびかり生涯峡を出ず住むか

                           馬場移公子

語は「いなびかり(稲光・稲妻)」で秋。何度か書いたと思うが、雨の中でゴロゴロピカッとくる雷鳴に伴う光りとは違う。誤用する人が多いけれど、「いなびかり」は遠くの夜空に走る雷光のことで、音もしないし雨も伴わない。晴れた夜の彼方の空が突然に光るので、不思議な感興を覚える。おそらく、作者三十代の句だ。二十二歳で結婚。わずか四年後の二十六歳のときに夫が戦死し、秩父の生家に戻って養蚕業を継いだ。一日の労働が終わってほっとしたところで、秩父の山の彼方に走る雷光を認めたときの感慨である。ときは敗戦後も間もなくのころだから、秩父辺りだと、東京などの都会に出ていく友人知己も少なくなかっただろう。しかし、私は残る。残らざるを得ない。「生涯」をこの山の中で暮らすことになるだろうと、まだ若い未亡人が我と我が身に言い聞かせているところが、健気であり美しい。そして句のとおりに、移公子(いくこ)は生涯を秩父の山中で過ごしたのだったが、自然の中の生活に取材した佳句を数多く残している。また、時代の変遷も自然の中に曖昧に溶かし込まずに、それはそれできちんと詠み込んである句も多いので好感が持てる。揚句と同じ句集に収められた作品では、「亡き兵の妻の名負ふも雁の頃」、「曼珠沙華いづこを行くも農婦の日」「日雇ひと共に言荒れ養蚕季」など。山国の中での少年時代、私は絶対にこんなところに残るものかと思い決めていただけに、こうした句には弱い。ただただ賛嘆するばかりである。『峡の音』(1958)所収。(清水哲男)




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