昨日、NHK-TVの昼番組が22分間中断する事故。たまたま見てたが、実に対応が遅い。




2003ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0292003

 鈴虫を放ちわが庭売りにけり

                           柳田風琴

活のために「わが庭」を売った。しかし愛惜の情やみがたく、売る前に、飼っていた「鈴虫」をそっと放してやったというのである。このことからだけでも作者の哀感は十分に伝わってくるが、揚句のよさは、売った庭のその後のことをひとりでに読者に想像させてしまうところにある。売ってしまったからには、他人の持ち物だ。現状のまま維持されるわけはない。少なくとも、すぐに境界には柵くらいはたてられるだろう。が、目と鼻の先の庭が、実際にはどのような姿に変貌するのかはイメージできない。たとえ買い手から利用方法を聞いていたとしても、具体的にどうなるのかは想像が及ばない。いったい、この庭はどうなるのか。放してやった鈴虫は、この秋の生命を全うできるのか。そんな作者の不安を、読者も共有することになるのだ。いつだったか、地元では名の通った旧家にお邪魔したことがある。当然のことながら、家全体の造りも古く、玄関を入っただけで大昔にタイムスリップしたような感じを受けた。ちょうど桃の節句のころで、江戸期から伝わるという雛飾りを拝見することができた。まことに気品のあるお雛様を見せていただき、堪能して客間に通されたときに、あっと思った。これほどのお宅ならば、立派な庭を拝見できるだろうと期待していたこともあったので、ショックだった。窓には、視界いっぱいに、隣接したベージュ色の建物の壁面が見えるのみ。察したのか、ご主人が「そこ、去年売っちゃったんですよ」と言われた。『童子珠玉集』(2002)所載。(清水哲男)


September 0192003

 鼻を流れる目薬九月のひかる船出

                           蔦 悦子

のところ目の調子がよくないので、この句が目についた。「鼻を流れる目薬」は目薬をさしそこなったのではなく、一滴か二滴多めにさしたので、目を閉じたときに少し溢れて鼻梁を伝って流れている状態を言っている。そのひんやりした感触と再び目を開けたときに見える「ひかり」との取り合わせに、作者は「九月」を感じたのだ。よく晴れた朝だろう。目薬をさし終えた直後に見えるのは、眼前の具体物ではなく、目の中の目薬に乱反射する「ひかり」である。その束の間の「ひかり」の戯れをさざ波のようだとイメージし、鼻を伝い落ちる雫の清涼感と合わせて、「九月のひかる船出」と見立てたわけだ。「鼻を流れる目薬」に着目したところが、数多い目薬の句のなかでも異彩を放っている。ご覧のように、掲句は五七五で詠まれていない。いわゆる字余りと字足らずが混在したかたちだ。私の読み方だと十一・四・六となり、破調もいいところである。ここまで来ると、定型に愛着のある人は眉をひそめるだろう。同じようなイメージなら、五七五に収められるのにと思うかもしれない。私も、上手な詠み手ならば可能だろうとは思う。だが、作者はあえてそれをしなかった。理由は、おそらく「九月」のはじまりころの季節感の中途半端性にあると見たい。まったき秋でもなく、残暑が厳しい日中でも夏というにははばかられる。そんなぎくしゃくがたぴしした季節の「船出」なのだ。定型のなめらかな口調では、そのリアリティは伝えられないのではなかろうか。ただし、このような音数律の使用は、べつに珍しくはないことを付記しておく。ある種の傾向の俳句にとっては、ほとんど定型と言ってもよい書き方だ。これについては、いつか触れる機会もあるだろう。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989)所載。(清水哲男)


August 3182003

 法師蝉煮炊といふも二人かな

                           富安風生

語は「法師蝉」で秋。我が家の近所でも、ようやく法師蝉が鳴くようになった。まだ油蝉のほうが優勢だが、短かった夏もそろそろおしまいだ。子供たちの夏休みも今日で終わり、明日からは新学期。これからは、日ごとに秋色が濃くなってゆく。ちょうど、そんな時期の感慨を詠んだ句だ。夏の盛りには独立した子供らが孫を連れて遊びに来たりして、「煮炊(にたき)」する妻は大忙しだった。みんなが帰ってしまったからといって、もとより煮炊の仕事が途切れるわけではないのだけれど、気がついてみたら、いつものように二人分の煮炊ですむようになっていた。毎年のことながら、法師蝉の鳴くころにはいささかの感傷を覚えるのである。揚句を印象深くしているのは、「煮炊」という言葉の巧みな 使い方だ。多くの人の感覚では、煮炊と聞くと、料理の素材の分量として「二人」分くらいの少量は思い浮かばないだろう。少なくとも、三、四人分か、もっと大量を想像する。作者もそのようなイメージで使っていて、だから「煮炊といふも」とことわってあり、それを「二人きり」と一息に縮小したことで、味が出た。すなわち、句には何も書かれてはいなくても、読者は作者宅の真夏のにぎわいを想像することができる仕掛けなのだ。俳句という装置でなければ、とてもこのような味は出ない。外国語に翻訳するとしても、外国人にも理解できる世界だとは思うが、ポエジーの質を落とさずに短く言い換えるのは不可能だろう。あくまでも、俳句でしか表現できない味なのである。『俳句歳時記・秋の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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