2003N9句

September 0192003

 鼻を流れる目薬九月のひかる船出

                           蔦 悦子

のところ目の調子がよくないので、この句が目についた。「鼻を流れる目薬」は目薬をさしそこなったのではなく、一滴か二滴多めにさしたので、目を閉じたときに少し溢れて鼻梁を伝って流れている状態を言っている。そのひんやりした感触と再び目を開けたときに見える「ひかり」との取り合わせに、作者は「九月」を感じたのだ。よく晴れた朝だろう。目薬をさし終えた直後に見えるのは、眼前の具体物ではなく、目の中の目薬に乱反射する「ひかり」である。その束の間の「ひかり」の戯れをさざ波のようだとイメージし、鼻を伝い落ちる雫の清涼感と合わせて、「九月のひかる船出」と見立てたわけだ。「鼻を流れる目薬」に着目したところが、数多い目薬の句のなかでも異彩を放っている。ご覧のように、掲句は五七五で詠まれていない。いわゆる字余りと字足らずが混在したかたちだ。私の読み方だと十一・四・六となり、破調もいいところである。ここまで来ると、定型に愛着のある人は眉をひそめるだろう。同じようなイメージなら、五七五に収められるのにと思うかもしれない。私も、上手な詠み手ならば可能だろうとは思う。だが、作者はあえてそれをしなかった。理由は、おそらく「九月」のはじまりころの季節感の中途半端性にあると見たい。まったき秋でもなく、残暑が厳しい日中でも夏というにははばかられる。そんなぎくしゃくがたぴしした季節の「船出」なのだ。定型のなめらかな口調では、そのリアリティは伝えられないのではなかろうか。ただし、このような音数律の使用は、べつに珍しくはないことを付記しておく。ある種の傾向の俳句にとっては、ほとんど定型と言ってもよい書き方だ。これについては、いつか触れる機会もあるだろう。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989)所載。(清水哲男)


September 0292003

 鈴虫を放ちわが庭売りにけり

                           柳田風琴

活のために「わが庭」を売った。しかし愛惜の情やみがたく、売る前に、飼っていた「鈴虫」をそっと放してやったというのである。このことからだけでも作者の哀感は十分に伝わってくるが、揚句のよさは、売った庭のその後のことをひとりでに読者に想像させてしまうところにある。売ってしまったからには、他人の持ち物だ。現状のまま維持されるわけはない。少なくとも、すぐに境界には柵くらいはたてられるだろう。が、目と鼻の先の庭が、実際にはどのような姿に変貌するのかはイメージできない。たとえ買い手から利用方法を聞いていたとしても、具体的にどうなるのかは想像が及ばない。いったい、この庭はどうなるのか。放してやった鈴虫は、この秋の生命を全うできるのか。そんな作者の不安を、読者も共有することになるのだ。いつだったか、地元では名の通った旧家にお邪魔したことがある。当然のことながら、家全体の造りも古く、玄関を入っただけで大昔にタイムスリップしたような感じを受けた。ちょうど桃の節句のころで、江戸期から伝わるという雛飾りを拝見することができた。まことに気品のあるお雛様を見せていただき、堪能して客間に通されたときに、あっと思った。これほどのお宅ならば、立派な庭を拝見できるだろうと期待していたこともあったので、ショックだった。窓には、視界いっぱいに、隣接したベージュ色の建物の壁面が見えるのみ。察したのか、ご主人が「そこ、去年売っちゃったんですよ」と言われた。『童子珠玉集』(2002)所載。(清水哲男)


September 0392003

 いなびかり生涯峡を出ず住むか

                           馬場移公子

語は「いなびかり(稲光・稲妻)」で秋。何度か書いたと思うが、雨の中でゴロゴロピカッとくる雷鳴に伴う光りとは違う。誤用する人が多いけれど、「いなびかり」は遠くの夜空に走る雷光のことで、音もしないし雨も伴わない。晴れた夜の彼方の空が突然に光るので、不思議な感興を覚える。おそらく、作者三十代の句だ。二十二歳で結婚。わずか四年後の二十六歳のときに夫が戦死し、秩父の生家に戻って養蚕業を継いだ。一日の労働が終わってほっとしたところで、秩父の山の彼方に走る雷光を認めたときの感慨である。ときは敗戦後も間もなくのころだから、秩父辺りだと、東京などの都会に出ていく友人知己も少なくなかっただろう。しかし、私は残る。残らざるを得ない。「生涯」をこの山の中で暮らすことになるだろうと、まだ若い未亡人が我と我が身に言い聞かせているところが、健気であり美しい。そして句のとおりに、移公子(いくこ)は生涯を秩父の山中で過ごしたのだったが、自然の中の生活に取材した佳句を数多く残している。また、時代の変遷も自然の中に曖昧に溶かし込まずに、それはそれできちんと詠み込んである句も多いので好感が持てる。揚句と同じ句集に収められた作品では、「亡き兵の妻の名負ふも雁の頃」、「曼珠沙華いづこを行くも農婦の日」「日雇ひと共に言荒れ養蚕季」など。山国の中での少年時代、私は絶対にこんなところに残るものかと思い決めていただけに、こうした句には弱い。ただただ賛嘆するばかりである。『峡の音』(1958)所収。(清水哲男)


September 0492003

 新涼や二人で川の石に乗り

                           寺田良治

語は「新涼」で秋。句の情景は、川遊びというほどのことではない。山峡などの川辺を歩いていて、ふっと川面からごつごつと露出している「石」に乗ってみただけのことだ。何が「二人」をしてそんな他愛無い行為に走らせたのかと言えば、むろん「新涼」である。夫婦か、恋人同士か、あるいは同性の二人連れだってかまわないのだが、とにかく二人ともどもに稚気溢れる行動に移りたくなるほど、気持ちの良い涼しさに恵まれたということだ。写真で言えば、記念写真ではなくスナップ写真。シャッター・チャンスが巧いので、なんでもないような情景ながら、構えた記念写真などよりもずっと新鮮な印象を与えつづけるだろう。こういう写真を撮れる人、いや、句を作れる人は、とても言語的な運動神経が良い人なのだと思う。上手なカメラマンがそうであるように、被写体の魅力を引き出すコツを心得ている。まずもって、被写体(相手)にある種の先入観を抱いて向き合うようなことはしない。また、相手の意識のうちで、その行為に意味があろうがなかろうが、そんなことにも関心を持たない。待っている瞬間は、ただ一点。すなわち、相手が我を忘れる一瞬だ。そして、この忘我の一瞬は、どんなに意識的な行為の過程にも訪れる。それがたとえ、気取りという極めて意識的な行為の最中にでも、気取りの意識が高揚してくると否応なく露出してくる状態である。そこを逃さずに、パッと切り取る。そして切り取るときには、こちらも忘我。ここが肝心。揚句は、まさにそのようにして切り取られた作品と読める。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


September 0592003

 定席は釣瓶落しの窓辺かな

                           西尾憲司

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日は井戸の中にまっすぐに落ちていく釣瓶のように、暮れるのが早い。行きつけの喫茶店か、あるいは飲み屋だろうか。いつも座る席は決まっている。その窓辺から春夏秋冬の季節のうつろいを見ているのだが、このときにはまさに釣瓶落しといった感じで、暮れていった。日中の暑さは厳しくても、季節はもうすっかり秋なのだ。そう納得したのと同時に、作者の胸をちらっとよぎったのは、おそらくはこれからの自分の人生に残された時間のことだろう。若いうちならば思いも及ばないけれど、ある程度の年齢になってくると、何かのきっかけで余命などということを思ってしまう。まさかまだ釣瓶落しとは思いたくはないが、かといって有り余るほどの時間が残されているわけでもない。と、深刻に思ったのではなく、あくまでもちらっとだ。そんなちらっとした哀感が読者の胸をもかすめる仕立てが、いかにも俳句的である。上手な句だ。「定席」といえば、私もわりに窓辺の席を好むほうだ。窓辺がなければ、隅っこの席。電車だと、できるだけ後方の車両に乗る癖がある。学生時代に、友人からそういう人間は引っ込み思案だと聞かされて、なるほどと思った。だったら、今後は意識的に真ん中や前方を目指すことで、いつかは外向的な性格に転じるはずだと馬鹿なことを考えた。が、かなり頑張ってはみたものの、効果はちっとも表われないのであった。いつの間にか、また隅へ後へと戻ってしまい、今日に至る。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)


September 0692003

 はるばると糸瓜の水を提げてきし

                           星野恒彦

語は「糸瓜(へちま)」で秋。前書きに「岳父信州より上京」とある。三十年ほど前の句だから、当時の信州から東京までは「はるばると」が実感だったろう。そんな遠くから、岳父(義父)が「糸瓜の水」を提げてやってきた。娘、すなわち作者の妻へのお土産だ。自宅で採水したものを一升瓶に詰めてある。そのころの化粧水事情は知らないが、たぶんこうした天然物の人気は薄かったのではあるまいか。そんな事情にうとい父親が、壊れやすくて重いのに、はるばると大事に抱えて持って来た親心。もらった側では、その物にさして有り難みを感じなくても、その心情には頭が下がる。句は言外に、そういうことを言っているのだと読んだ。いつか書いたような気もするけれど、一つ思い出した話がある。こちらは四十年ほど前のこと。東京で暮らす友人のところに、叔父から電話がかかってきた。東京駅にいるのだが、もう動けないので迎えに来てくれと言う。山陰に住んでいる叔父で、農協か何かの旅行で北海道に出かけたことは知っていた。うだるような暑い日だったから、てっきり急病で下車したのかとタクシーで駆けつけてみたら、ホームで真っ赤な顔をした叔父が、大きな荷物に腰掛けて心細そうに団扇でぱたぱたやっている。どうしたのかと尋ねると、破顔一笑、立ち上がった叔父が腰掛けていた荷物を指して曰く。「お前にな、どうしても本場のビールをのませてやりたくて」。見ると、その箱には大きく「サッポロビール」と書いてあった。むろん、そこらへんの酒店で売られているものと同じだった。ちょっといい話でしょ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


September 0792003

 一家鮮し稲田へだてて手を振れば

                           堀 葦男

語は「稲田」で秋、項目としては「稲」に分類するのが普通。作者は、間もなく刈り入れ時の田圃を前に控えた他家を訪れた。辞してから、すぐそこの角を曲がればお互いの姿が見えなくなる都会とは違って、広大な田圃の一本道ではいつまでも見えている。だから、見送る側は客の姿が遠くに消えてしまうまで、庭先にたたずむことになる。客の側もそれを承知していて、しばらく行ったところで振り返り、見送りありがとう、もう家の中にお戻り下さいの意味を込めて、お辞儀をしたり手を振ったりするというわけだ。「鮮し」は「あたらし」と読ませるのだろう。頃合いを計って振り返ると、果たして「一家」はまだ見送ってくれていた。手を振ったら振り返してくれた一家の姿が、思いがけないほど鮮かに目に写ったという句である。たわわに実った一面の稲穂の黄金色のざわめき、そしてむせるような稲の香り、おそらくは空も抜けるように青かったに違いない。まことに純粋にしてパワフルな農民賛歌だ。こうした句を読むと、やはり気がかりになるのは今年の東北地方の不作である。テレビに出てきた農家の主人が「半分くらいかなあ……」と、あきらめたような表情で語っていて、農家の子であった私はきりきりと胸が痛んだ。映し出された田圃を正視できない。運が悪かったと言えばそうなのだけれど、単に運が悪いではすまされないから悲痛なのだ。国民の食いぶちは大丈夫だとばかりに、政府は保有米を誇示するように放出したりするが、それとこれとはまったく別問題である。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989)所収。(清水哲男)


September 0892003

 合弟子は佐渡へかへりし角力かな

                           久保田万太郎

語は「角力(相撲)」で秋。九月場所がはじまった。たまにテレビで観る程度だが、いまの相撲にはこうした哀感がなくなったなと思う。いまだって、将来を嘱望されながらも、遂にメが出ずに遠い故郷に戻る男も少なくはないだろう。状況は昔と似たようなものなのに、土俵にセンチメントが感じられなくなって久しい。何故だろうか。1987年、横綱の双羽黒が立浪親方との対立から現役のまま廃業したあたりからおかしくなってきた。廃業して間もない彼に会ったことがあるが、気さくな青年だった。相撲部屋の古色蒼然たる「しきり」に堪えかねたのだろうとは、そのときの私の直感だ。自己顕示欲は人一倍強いと見たが、そりゃそうさ、天下の横綱にまでのし上がった男だもの。そうした相撲界の時代とのズレもあるけれど、哀感が失せた最大の理由を、私はこの世界の裾野の狭さに見ている。狭いというようなものではなくて、もはや限りなくゼロに近いのだ。私の子供のころには、どこの小学校でも土俵を持っていて、私のようなヨワッピーでも、とにかく土俵で相撲を取った体験がある。また、村祭などでも若い衆の相撲大会があって、みんなが相撲の何たるかを心得ていた。だから、プロの相撲取りがどんなに凄いのかが身体的に感じられた。感じられたから、たとえ関取以下のお相撲さんにでも尊敬の念を持つ。逆に体験が無い人には、敬意の持ちようが無い。敬意のないところには、非運に対する思いやりも生まれない。当代の力士には敬意を払われる雰囲気は皆無に近いので、風格なんぞは糞食らえ、勝てばいいんだろみたいな低次元にとどまってしまう。私などには哀しいことだが、きっと近い将来に相撲は滅びてしまうだろう。しかも、誰の涙も無しに、である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0992003

 村からす戻り果てや秋の空

                           神崎与五郎

戸期の句。我が家の近くにある井の頭公園は、「からす」のねぐらになっている。昼間は大方がどこかに餌を取りに出かけてしまうが、夕刻ともなると三々五々といった感じで戻ってくる。その数、およそ三千羽。想像するだに、物凄い数だ。夜間は人が立ち入らないので、さぞや安心してゆっくりと眠れることだろう。句の「村からす」も同様に、夕焼け空を戻ってくるわけだ。「戻り果(はて)てや」は、すっかり全部が戻ってきたよという意味だろう。他方では農作業を終えた人間たちもそれぞれのねぐらに「戻り果て」、すべて世は事もなし。今日も一日平穏無事であったことへの感懐が、暮れなずむ「秋の空」に滲んでいる。「秋の空」の季語を、黄昏時に設定した句は珍しいと言ってよいのではあるまいか。ところで、作者は赤穂浪士討ち入り組の一人として知られる。主君亡き後に変名を使って江戸に店を出し、吉良邸裏門から屋敷の様子を探りつづけた。俳誌「耕」(主宰・加藤耕子)に浪士たちの俳句や和歌を連載で紹介している木内美恵子さんによれば、与五郎は美作の出身で赤穂藩俳壇三羽烏と言われた。俳号は竹平。そして、この句は大高源五(俳号・子葉)の編んだ『二つの竹』に載せられた作品だという。したがって、句は平穏だった赤穂時代の村里の様子を詠んだものということになる。三百年も昔の静かな赤穂の夕暮れだ。ちなみに、同じく木内さんの紹介による与五郎の辞世のうたは次のようであった。「人の世に道しわかずば遅くとて消ゆる雪にもふみまがふべき」。このとき、与五郎春秋三十九歳。(清水哲男)


September 1092003

 ふる里は波に打たるゝ月夜かな

                           吉田一穂

が高校生のときだったと思うが、国語の教科書に一穂の「白鳥」が載っていてびっくりした覚えがある。この難解な詩を、どんなふうに教師は教えたのだろうか。私が教師だったら、生徒には素直に「わかりませぬ」と謝るしかない。一穂の難解さは、徹底して日常的な描写を拒否したところにあった。元来、日本語は感覚的情緒的であり、現実を取捨選択して切り抜くのではなく、現実の流れをなぞって行くのに適している。すなわち描写を得意とするわけだが、ならば芸術までがわざわざ「ナメクジ語」(一穂)を使うことはない。あえてそのようにメロディアスな日本語の特性にさからい、言語的な抽象性を目指すときに、はじめて日本語表現は芸術として自立できるのだ。と、これは私なりの雑駁な理解でしかないけれど、揚句にもむろんこうした詩人の方法論が生かされていると読むべきだろう。詩人は芭蕉を敬愛し、「スケッチ文学」の蕪村を嫌った。安易な描写による抒情性を否定した。だが皮肉なことに、この句には彼が蛇蝎の如く嫌った情緒が纏綿といった感じで滲んで見えている。私の考えでは、この句には方法論的に芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」が下敷きにあると思う。「荒海」に対するに「ふる里」、「よこたふ」に「打たるゝ」、そして「天河」に「月夜」。いまある自分の位置からのまなざしや思いの方向が、完全に同一だ。にもかかわらず、一穂句が情緒的に流れて見えるのは何故だろうか。それはおそらく詩人自身がどう反抒情的に句を律したつもりでも、「ふる里」や「月夜」の語彙が既にしてあまりにも抒情の甘さにまみれているからに他ならないだろう。絶対に言えることは、詩人がこの句に託した屹立したイメージは、ほとんど読者には伝わらないのである。いたましきかな。詩集『稗子傅』(1935)所収。(清水哲男)


September 1192003

 陸稲消え六〇万市さがみはら

                           小川水草

語は「陸稲(おかぼ)」で秋。畑で作る稲のこと。作者の略歴に「JA全農などで営農関係の研究普及に従事」とある。戦後の工業化、ベッドタウン化で急速に人口の膨れ上がった地域は多いが、句の「さがみはら(神奈川県相模原市)」もその一つだ。人口十万人を越えたのは1960年であり、掲句が詠まれたのが2000年だから、人口爆発地域と言っても過言ではないだろう。昔は農業以外に見るべき産業もなく、しかも水の便が悪い土地なので草地に開いた畑を活用する他はなく、したがって米作も水稲ではなく陸稲だったというわけだ。私の山口県の田舎では陸稲は珍しかったのだが、藷や大豆などと輪作ができるので、ある意味では効率のよい作物だなあとは感じていた。しかし、最大の欠点は耐干性に極めて弱いことだ。丈夫に育つかどうかは雨まかせみたいなところがあり、毎年、旱魃の危機に見舞われながらの栽培は、精神的にもとても大変だったと思う。そんな危なっかしい陸稲だが、自給自足の農家では作るのを止めるわけにはいかない。しかし、その後地域の都市化が進むなかで農家にも現金収入への道が開かれ、それにつれて陸稲栽培はどんどん姿を消していった。そして、ついに掲句の状況へと至り、気がつけば地域は「六〇万市」に膨れ上がっている。句の鑑賞で留意すべきは、作者が決して大都市化に皮肉を投げているのではないという点だ。むしろ、短期間でのあまりの土地の変わりように呆然としている図なのである。ここには感傷もなければ、怒りもない。「さがみはら」と故意に平仮名表記をすることで、かつての「相模原」とは似ても似つかぬ現況を正確に表現したかったのだ。今宵は名月。相模原台地にも、昔と変わらぬ月が上る。『畦もぐら---いま農の周辺』(2003)所収。(清水哲男)


September 1292003

 鬼の子に虚子一行の立ちどまる

                           岩永佐保

語は「鬼の子」で秋。蓑虫(みのむし)のこと。むろん、想像句だ。吟行だろうか。何でもよろしいが、道ばたで鬼の子を見つけた虚子が「ほお……」と立ちどまると、従っていた弟子たちも同じように立ちどまり、みんなでしばし眺め入っている図である。大の大人の何人もが、いかにも感に堪えたように、ぶら下がったちっぽけな虫を見ながら同じ顔つきをしているのかと想像すると、可笑しさが込み上げてくる。虚子やその一門に対する皮肉か、あるいは諧謔か。表面的に読めばそういうことにもなろうが、私はこれを一つの虚子論であると読んでおきたい。読んだとたんに「あっ」と思った。この「一行」こそが虚子その人なのだと、勝手に合点していた。こう言われてみれば、虚子という俳人はもちろん一人の人間でしかないのだけれど、俳人格としてはいつだって個人ではなく「虚子一行」だったような気がする。初期の句はともかく、大結社「ホトトギス」を率いた彼の句の署名に「虚子」とはあっても、ほとんどが「虚子一行」の「一行」が省略されていると読むべきではあるまいか、と。すなわち、虚子の発想がいつもどこかで個的な衝迫力に欠けているのは、逆に言えばいつもどこかで幾分おおらかであるのは、虚子の個がいつもどこかで「一行」だったからなのではあるまいか。「蓑虫の父よと鳴きて母も無し」は虚子の名句として知られるが、主観性の濃い句にもかかわらず、虚子自身の内面性は希薄だ。つまり「一行」としての発想がそうさせているのではないのか。揚句の作者には、たぶんこの句のことが念頭にあっただろう。虚子が虚子たる所以は、実はこのように常に「一行」的な存在にあったと言いたいのではあるまいか。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


September 1392003

 わが嫁が鬘買ひたり秋暑し

                           車谷長吉

療用の鬘(かつら)ではなく、ファッションのためのそれだろう。ひところ若い女性の間でかなり流行したことがあって、見せてもらったことがあるが、地毛と区別がつかないくらいによくできていて感心した。ただ当然のことながら、頭をぴったりと覆う帽子のようなものだから、暑い時期には向きそうにない。かぶるには、かなりの忍耐を必要としそうだ。そんな鬘を妻が買ってきた。それでなくとも暑くてたまらないのに、なんという暑苦しいものをと、作者は内心でつぶやいている。苦り切っているのではなく、むしろ残暑厳しき時期に暑苦しい買い物ができる妻の発想に少し驚いていると読める。小説家(というよりも「文士」と呼ぶほうが適切かな)である作者は、いつも俳句を一編の小説のように作るのだという。なるほど、掲句もここからいろいろなストーリーが展開していきそうだ。作者の頭の中では、すでにこの鬘の運命が決まっているのだろう。そう思うと、愉快だ。ところで「わが嫁」はむろん妻のことだけれど、仮に「わが」と限定しないとすれば、地方によって受け取り方が違ってくる。関東辺りで単に「嫁」と言えば妻ではなく息子の嫁の意味だが、私の育った山口県辺りでは配偶者のことを言う。「あまり飲んだら嫁に叱られる」などと、当時の友人たちは今でも使っている。作者の生まれた兵庫県でも、おそらく同じだと思う。だから「わが嫁」と限定して詠んでいるのは、五音に揃えるということよりも、誤解を招かないための配慮からだと言える。「嫁」が妻のことを言うに決まっている地方の読者には、「わが」の限定がいささかうるさく感じられるかもしれない。『車谷長吉句集』(2003)所収。(清水哲男)


September 1492003

 老いよとや赤き林檎を手に享くる

                           橋本多佳子

語は「林檎」で秋。作者、五十歳ころの句と思われる。身体的にか精神的にか、いずれにしても老いの兆しを自覚する年頃だ。句はそうした自覚を跳ね返すように、まだまだ頑張る、頑張れる、ナニクソという気概を詠んでいる。林檎を享(う)けたシチュエーションは、よくわからない。でも、作者が林檎を手渡されたときに、何かを感じたことだけはわかる。この句の鑑賞の要諦は、この「何か」をどう想像するかにあるだろう。私の読みは、こうだ。誰が手渡したのかもわからないが、作者が「何か」を感じたのは、その手渡し方にあったのだと思う。おそらく、周辺には作者よりも若い人たちがいた。このときに、自分に手渡してくれた人の手つきが、なんとなく若い人へのそれとは違っているように感じられたのである。たとえば他の人へよりより丁寧に、あるいは少し会釈をするような仕草で……。ほんの一瞬の微妙な行為でしかないのだけれど、作者はそこに敏感に、ある種の特別扱いを感じてしまった。平たく言えば、老人扱いされたと受け取ったのだ。老いの兆しを自覚している者の過敏な反応かもしれないが、感じたものは感じたのだから「老いよとや」とすかさず反発した。「林檎」の赤は、盛りの色である。この「赤き林檎」のように、私はこれからも人の盛りの生をを生きつづけていく。いってやる。負けてなるものかと、周囲にはさりげないふうを装いながらも、作者の心願は掌の林檎をはったと睨んでいる。美貌で気が強かったと伝えられる多佳子の面目躍如たる句と言うべきか。明日は「敬老の日」。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)


September 1592003

 月光写真まずたましいの感光せり

                           折笠美秋

季句としてもよいのだが、便宜上「月」を季語と解し秋の部に分類しておく。「月光写真」は、昔の子供が遊んだ「日光写真」からの連想だ。日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが、古くは「青写真」と呼び、白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光させた。こちらは、冬の季語。戦後の少年誌の付録によくついてきたので、私の世代くらいだと、たいていは遊んだことがあるはずだ。「墓の上にもたしかけあり青写真」(高浜虚子)。作者は同じような仕組みの月光写真というものがあったとしたら、きっとまず感光したのは「たましい」であったに違いないと想像している。いや、それしかないと断定している。まったき幻想を詠んでいるにもかかららず、ちっとも絵空事に感じさせないところが凄い。日光に比べればあるかなきかの淡い光ゆえ、逆に人の目には見えないものを映し出す。それしかあるまいとする作者の説得に、読者は否応なくドキリとさせられてしまう。おそらくは日頃月の光に感じている何らかの神秘性が、「たましい」を映し出したとしても不思議ではないという方向に働くからだろう。そしてすぐその次に、読者の意識は、仮に自分の「たましい」が感光するとしたら……どんなふうに映るのだろうかと、動いていく。私などとは違って、よほど心の清らかな人でない限りは、想像するだに恐ろしいことだろう。ずいぶん昔にはじめて読んだときには、怖くてうなされるような気持ちになったことを思い出す。『虎嘯記』所収。(清水哲男)


September 1692003

 鶏頭のどこ掴みても剪りがたし

                           河内静魚

語は「鶏頭(けいとう)」で秋。おおまかに分けると、鶏頭には二種類ある。命名の由来となった雄鶏のとさかのように茎の先端だけに広がって咲くタイプと、槍のように先端から下部にかけて花をつけるタイプと。句の鶏頭は、後者だろう。前者ならば他の花と変わらないので剪(き)りやすいが、槍状のものは、なるほど剪りにくい。どこで剪ってもバランスに欠けるような気がして、作者は困惑している。「どこ掴みても」に、困った感じがよく表われていて面白い。生け花の専門家なら別かもしれないが、共感する読者は多いだろう。では、なぜ困るのか。こういうときには誰しもが、ほとんど無意識的にもせよ、自分なりの美意識を働かせて花を剪ろうとするからである。とにかく適当に剪っておいてから、後で活けるときに調節すればよいなどとは思わないのだ。剪る現場で、おおむねデザインを完了させておこうとする。考えてみればなかなかに面白い心理状態だが、これはそもそも花を活けたいと思う発想に、既にデザイン志向があるからだろう。極論すれば、頭の中に室内でのデザインが浮かぶから活けたいと思うのだ。ところが、このデザインは、時に掲句のように現実と衝突してしまう。自分なりのデザインにしたがって花に近づいてみると、いまのいままでイメージしていた花が、実は似ても似つかぬ正体をあからさまにしてくる。掴んだまではよいのだが、その正体を知ってしまった以上は、急いで己のデザインを修正変更する必要がある。でも、どうやって……。作者は、ここのところを敏感に「掴んで」詠んだ句だ。単純そうでいて、そうではない句だ。『花鳥』(2002)所収。(清水哲男)


September 1792003

 台風去る花器にあふるる真水かな

                           大塚千光史

語は「台風」で秋。「花器(かき)」は、この場合には平たい水盤と読むのが適当だろう。台風が去ったとき、まず人が期待するのは乾燥である。通過中はあちこちが水浸しになり、その湿気たるやたまらない。風もたまらないけれど、去ってしまえば多少の吹き返しがあるにせよ、おさまるのは時間の問題だ。だが、湿気はそういうわけにはいかない。いつまでも、とくに日の当たらない家の中はじめじめとしている。そんな家の中では、むろんいつもと同じ生活がつづけられているわけで、床の間の花器もいつもと同じように水をいっぱいに張った姿で置かれている。単なる水ということで言えば、花器の水だって台風のもたらした水と何ら変わりはない。が、作者の目には、まったく異質の水と映っている。それが「真水(まみず)」という表現に凝縮した。じめついた部屋の中での水ならば鬱陶しく感じられて当たり前なのだが、この花器の水だけは鬱陶しさから外れている。むしろ清冽の気に「あふれ」ているようでサラサラしており、およそ湿気とは無縁のように見えているのだ。これぞ「真水」だ。そう見えるのは、水盤の純白のせいもあるだろう。活けられている花の姿にも関係しているだろう。しかし、そういうことを言わずに水一点に絞った表現で、作者は台風が去った後の生々しい気分を伝えている。水には水をもって物を言わしめた手柄、と言うべきか。台風一過の句には、戸外の様子を詠んだものが圧倒的に多い。なかで掲句は、その意味からも異色作と言うべきである。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


September 1892003

 槇の空秋押移りゐたりけり

                           石田波郷

本健吉によると、『波郷百句』には次の自註があるそうだ。「一二本の槇あるのみ。然もきりきりと自然の大転換を現じてみせようとした。一枚の板金のやうな叙法」。当然、この言葉には、芭蕉が弟子に与えた有名なお説教、「発句は汝が如く、物二ッ三ッとりあつめて作るものにあらず。こがねを打のべたるやうにありたし」(『去来抄』)が意識されている。作者に言われるまでもなく、掲句に登場する具体的な物体は、そびえ立つ「槇(まき・槙)」の大木のみだ。それのみで、訪れる秋という季節の圧倒的なパワーを詠んだ才能には敬服させられる。雄渾な名句だ。およそ、叙法にゆるぎというものがない。よほど逞しい自恃の心がないと、このように太い線は描けないだろう。波郷、絶好調なり。ただし、この自註は気に入らない。気負った語調も気に入らないが、「一枚の板金のやうな叙法」とはどういうつもりなのか。芭蕉の教えと同じ叙法だよと言いたかったのだろうが、大間違いだ。掲句の叙法は、いわば三次元の世界を限りなく二次元の世界に近づけようとする「板金」の技法とは似ても似つかない。同じ比喩を使うならば、波郷句の技法は三次元の世界を限りなく四次元の世界に近づけたことで説得力が出たのである。光景に「押移りゐたり」と時間性を与えたことで、精彩を放った句なのだから……。まあ、当人が「板金」と言ったのだから、いまさら文句をつけるのも変な話だけれど、芭蕉を誤解した一例としてピンで留めておく価値はあるだろう。芭蕉は、一つの素材をもっともっと大切にねと言ったのだ。「こがねを打のべたるやうに」ありたいのは素材の扱い方なのであって、叙法はその後に来る問題である。『風切』(1943)所収。(清水哲男)


September 1992003

 寂鮎を焼けくちびるの褪せぬ間に

                           吉田汀史

語は「寂鮎」で秋。寂鮎の表記は初見だが、錆鮎(さびあゆ)を雅びにひねった当て字かと思われる。鮎は産卵期になると川を下ってくる(落鮎)が、体に刃物の錆びたような斑点が現れるので錆鮎の名が生まれた。句は、歌人の吉井勇が大正期に書いて大ヒットした「ゴンドラの歌」(作曲・中山晋平)を踏まえている。♪いのち短し 恋せよ少女(おとめ) 朱き唇 褪(あ)せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを。戦後では、黒澤明が映画『生きる』で使ったことから、愛唱する人が増えた。この句を、私は最初、抱卵した鮎を美少女に焼けという、ちょっと屈折した愛情表現かなと思ったのだが、眺めているうちにそうではなさそうだと思い直した。焼けと言った相手は、昔の美少女に対してなのだと。そう読めば、こうなる。いつまでもぺちゃくちゃ喋っていないで、その口の乾かぬ間に、つまり鮎の鮮度が落ちぬ間に早く焼いてくれよ……と。むろんどちらにも取れる句だが、後者の方が俳諧的なサビが効いている。それに、現在ただいまの美少女に対してならば、単に「くちびる」とは言わずに、やはり「朱き」の形容詞は外せないところだろう。とはいえ、いやあ、こうなると昔の美少女も形無しだななどと読んではいけない。作者は相手が美少女であったことを認めているのだし、だからわざわざ「ゴンドラの歌」を持ち出したのだし、こちらのほうがよほど屈折した愛情表現と受け取れるからだ。男なんてものは、たいていがこうである。もう一句。「七輪を出せこの秋刀魚俺が焼く」。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


September 2092003

 シベリヤという菓子の歳月鉦叩

                           的野 雄

語は「鉦叩(かねたたき)」で秋。チンチンチンと鉦を叩くような美しい音でかすかに鳴くが、私は姿を見たことがない。物の本によると、体長は1センチくらいだとか。さて、問題は「シベリヤという菓子」だ。「菓子の歳月」とあるくらいだから、相当に古くからある有名な菓子なのだろうが、聞いたこともない名前だ。日本の菓子ではなくて、シベリヤ特産なのだろうか。それでなくとも甘いものにはうといので、こういうときの頼みの綱であるネットを駆け回ってみた。と、間もなくまずは商品写真が見つかった。が、ここに掲載しなかったのは、透明な包装紙越しに写されているので、菓子自体の姿がよくわからないからである。いくら眺めても、はじめて見る代物としか思えない。そこで、なお検索をつづけるうちに言葉による菓子の説明があり、そこではたと膝を打つことになった。「カステラ生地で餡を挟んだもの」。たったこれだけの説明なのに、たちまち懐しさが込み上げてきた。なあんだ、これならば昔の村の駄菓子屋(というよりも、万屋だったけれど)にだって、いつでも売っていたあの菓子のことじゃないか。名前は知らなかったけれど、いまでも当時の味は思い出すことができる。いや、大人になってからも、どこかで食べた覚えがあるような……。カステラ生地といってもパサパサなものだったが、それがまた美味だったっけ。そうか、あれがシベリヤ菓子という名前なのか。命名の由来には諸説あるようだが、いずれにしても大正末期ころから登場した純粋に日本製の庶民的な菓子である。「シベリヤ」という立派な名前を持ちながら、いつしか忘れられ、いまではその存在すらも知る人は少なくなってしまった。その「歳月」はまた、作者自身の過ごした歳月でもある。かすかな鉦叩の音を耳にしながら、来し方を思いやっている一人の男の淋しさがじわりと伝わってくる。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


September 2192003

 颱風の心支ふべき灯を点ず

                           加藤楸邨

後もしばらくまでは、木造住宅が多かったこともあり、都市部でも「颱風」は脅威だった。東京に住んでいた学齢前のころの記憶だが、颱風が近づいてくると、近所のそこここから家などを補強するための鎚の音が聞こえてきたものだ。家々は早くから雨戸を半分くらいは閉めてしまい、それでなくとも昼なお暗くなっていた室内はまるで夕暮れ時のようになった。子供心には、なにやら得体のしれない魔物が襲ってくる感じで恐かった。そんなただならぬ気配のなかで、作者は心細さを少しでも減じようと、電灯を点したのだろう。いい年をした大人が、などと笑う勿れ。昔は今のように、テレビが刻々と進路を告げてくれるわけじゃない。唯一の情報源であったラジオが告げるのは、よくわからない気象用語まじりの予報であり、天気図なしにあの放送を理解できた人は稀だったろう。その予報にしてからが、精度は極めて粗かったのだ。だから、接近を告げられれば、誰だって今の人以上に心細さを覚えたに違いない。せめて一灯を点ずることによって、作者はその暖かい明りに癒されようとしたのである。こういうときの一灯は、本当にありがたい。元気づけられる。作者のひとまず安堵した顔が目に浮かぶようだ。しかし、表の風雨の勢いはだんだんに強くなってくる……。風が激しくなると、昔の電灯は時折ふうっと消えそうに暗くなって、またしばらくすると明るくなったりした。ついに、そのまま消えてしまうことも多かった。掲句を味わうためには、この句の「つづき」を想像しておく必要があるだろう。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2292003

 迎へ水足し野井戸汲む秋の昼

                           棚山波朗

つう「迎へ水」というと、盆棚に供える水を思う人が多いだろう。しかし、掲句の水はそうではない。「呼び水」「誘い水」とも言う。でも、この人、よくこんなことを知っているなア。と、句集の略歴を見てみたら、私と同世代で出身地は石川県とあった。さもありなん。「野井戸」だから、ポンプで汲み上げるのではなく釣瓶を使う井戸だ。浅い井戸ならば、柄杓で汲める。日頃あまり使われないので、ちょっと覗くとほとんど水が無い状態か、枯れてしまっているようにすら見えることがある。だが、そこはそれ地下水脈だ。めったに枯れるなんてことはない。そこで必要なのが「迎へ水」というわけである。別の場所から調達してきた水を井戸に注いでやると、あら不思議。しばらく待つうちに、信じられないくらいに水が湧いてくる。水が水を迎えに行った、つまり途中で断たれていた水の道を、「迎え水」が逆方向から浸透して再開通させたという理屈だ。昔の人の知恵の一つである。秋の昼、天高し。野には、気持ちの良い風が吹いている。そんな清々しい野での、この「迎へ水」による達成感も清々しい。はるかな北陸での少年時代の思い出だろうか、それとも最近の体験を詠んだのだろうか。いずれにしても、あまり使われなくなった季語「秋の昼」にふさわしい情景だ。季語がぴしゃりと効いている。そして「秋の昼」と言える時間は短い。やがてこの野には、それこそ釣瓶落しに日暮れがやってくる。『料峭』(2003)所収。(清水哲男)


September 2392003

 南無秋の彼岸の入日赤々と

                           宮部寸七翁

日は秋分の日、「秋の彼岸の中日」。俳句で、単に「彼岸」と言えば春のそれを指す。作句の時には注意するようにと、たいていの入門書には書いてある。それかあらぬか、秋彼岸句には「彼岸」そのものに深く思い入れた句は少ないようだ。秋の彼岸は小道具的、背景的に扱われる例が多く、たとえば来たるべき寒い季節の兆を感じるというふうに……。これにはむろん「暑さ寒さも彼岸まで」の物理的な根拠もあるにはある。が、大きな要因は、おそらく秋彼岸が農民や漁民の繁忙期と重なっていたことに関係があるだろう。忙しさの真っ盛りだが、墓参りなどの仏事に事寄せて、誰はばかることなく小休止が取れる。つまり、秋の彼岸にはちょっとしたお祭り気分になれるというわけで、このときに彼岸は名分であり、仕事を休むみずからや地域共同体の言いわけに近い。勝手に休むと白い目で見られた時代の生活の知恵である。「旧家なり秋分の日の人出入り」(新田郊春)、「蜑のこゑ山にありたる秋彼岸」(岸田稚魚)など。「蜑」は「あま」で海人、漁師のこと。どことなく、お祭り気分が漂っているではないか。その点、掲句は彼岸と正対していて異色だ。「南無」と、ごく自然に口をついて出ている。赤々とした入日の沈むその彼岸に、作者の心の内側で深々と頭を垂れている感じが、無理なく伝わってくる。物理的な自然のうつろいと心象的な彼岸への祈りとが、見事に溶けあっている。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2492003

 子は電柱の裏側通る鰯雲

                           宮坂静生

者は雑誌「俳句」(2003年10月号)で、「子どもの歩き方には秘密がある。わざわざ電柱の裏へ回って」とコメントしている。その通りではあるのだが、掲句を実感するには、あらためて子供の動きを観察するよりも、自分の子供のころに戻ってみるほうが手っ取り早い。そうすると、大人の目からすれば「秘密」や「わざわざ」と見える振る舞いも、子供にしてみれば「秘密」でもなければ「わざわざ」でもなかったことに思いが至るだろう。考えてみれば、電柱があるような全ての長い道は大人の必要から作られたものだ。子供には、ただ点から点へと移動する目的の道なんぞは必要がないのである。幼稚園や小学校に通う道だって、無ければ無いでいっこうに構わない。それで困るのは、子供ではなくて大人のほうなのだ。だから、子供は道を移動するための場としては捉えずに、ほとんど細長い遊び場として理解している。というか、それ以外の場としての理解が及ばない。したがって、子供自身の意識としては「わざわざ」電柱の裏に回るのではなく、しごく「当然」なこととして回るのである。そのほうが面白いからだ。愉快だからだ。つまり、道の理解については、子供のほうが大人よりもずっと空間的に捉えている。比べて大人は、ずっと二次元的にしか捉えていない。高村光太郎の詩「道程」に、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」とある。むろん光太郎の道は観念的なそれなのだが、しかし、この道には大人としてのまぎれもない二次元的な道の解釈が前提にある。もはや子供ではなくなった人間の多くの不幸は、このような道の理解からもはじまってゆく。「道程」は、詩人の意に大いに反してではあろうが、そう読まれても仕方のない詩だと思う。掲句を読んだ途端に、ふっと思ったことを書いた。『青胡桃』所収。(清水哲男)


September 2592003

 このごろの蝗見たくて田を回る

                           小島 健

語は「蝗(いなご)」で秋。この季節になると、こんな気になるときがある。でも、元来が出不精なので一度も実行したことはない。さすがに、俳人はフットワークがいいなあ。普通、わざわざ蝗を見に行ったりはしないだろうけれど、俳人となれば実作の上で、こうした小さなことの積み重ねが物を言う機会があるのだと思う。で、実際はどうだったのだろうか。「このごろの蝗」を見ることができたのだろうか。「田を回る」とあるから、かなり見て回ったらしいが、収穫は乏しかったように受け取れる。環境的に、さすがに元気者の蝗も育ちにくくなっているのだろう。私の子供のころには、蝗は常に向こうからやって来た。通学のあぜ道などでは、いっせいに飛び立った蝗たちが頬にぶつかってきたりして、「痛てっ」てなものだった。まさに傍若無人とは、あのことだ。稲作農家にとっては一大天敵であった彼らも、しかし正面から見てみると、なかなかに愛嬌があって憎めない顔立ちをしていた。そんな思い出があるから掲句に惹かれたわけで、わざわざ見に行った作者の心持ちにも素直に同感できる。ところで世の中には、この蝗を焼いたりして平気で食う人がいる。就職して東京に出てきてから目撃したのだが、思わず目を覆いたくなった。あの愛嬌のある顔を見たことがある人ならば、とてもそんな残酷な真似はできないはずなのだ。以降、たまに飲み屋で出されたこともあるが、ただちに目の前から下げてもらってきた。「美味いのに……」と訝しげな顔をされると、「幼友達を食うわけにはいかない」と答えてきた。「俳句研究」(2003年10月号)所載。(清水哲男)


September 2692003

 銀漢や三つの国の銀貨持ち

                           中田尚子

ロシア銀貨
語は「銀漢(ぎんかん)・天の川」で秋。かつての三高(現・京大)寮歌「紅萌ゆる」に、銀漢が出てくる。「千載秋の水清く 銀漢空にさゆる時 通へる夢は昆崙の 高嶺の此方ゴビの原」。いかにも気負った壮士気取りの歌詞であるが、天の川を仰いで世界に思いを馳せる気持ちは、古今東西の人々に共通するものだろう。銀砂子を撒いたような銀漢を眺めながら、作者もまた世界を思っている。それは、この同じ空の下にある、かつて旅した懐しい国々だ。記念に、大事にしている「三つの国の銀貨」。天にきらめく星の数に比べれば、取るに足らない「三つ」でしかないけれど、作者にはこの「三つ」で十分に雄大な銀漢と釣りあい響きあっているのだ。先の三高寮歌に対するに、なんとつつましやかで心優しく、無垢な少女のように純情可憐な作品であることか。「銀漢」と「銀貨」の視覚的な、そして音律的な響きあいもよく効いている。「持ち」と余韻を残して止めたところも、よい。句にちなんで、星の図柄の銀貨がないかと探して見つけたのが、画像のループル銀貨(ロシア)である。双子座。とても可愛らしいけれど、日本の記念銀貨のように実際に流通していないのではなかろうか。ロシア事情に詳しい方がおられたら、ご教示願いたい。私が社会人になったころに何を記念するのでもない百円銀貨(稲穂のデザイン)が発行されたことがあり、ごく普通に使っていたように覚えているが、どうやらあれがこの国の流通銀貨の最後だったようだ。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


September 2792003

 かの岡に稚き時の棗かな

                           松瀬青々

語は「棗(なつめ)・棗の実」で秋。楕円形の実は秋に熟して黄褐色になり、食べられる。庭木としても植えられてきたが、句の棗はむろん野生種だ。私の田舎にもあったけれど、好んで食べた覚えはない。あまりジューシーでなくパサパサしていたので、一秋に、なんとなく付き合いで二三粒ほど食べたくらいだ。でも、舌はよく覚えているもので、掲句を読むとすぐにあのパサパサ味を思い出していた。いまや棗取りなどには縁がなくなった作者も、「稚き時」に遊んだ岡を遠望して、なっていた様子や味を懐しく思い出している。作者は子規門、明治から昭和初期にかけて活躍した俳人だ。こういう句を読んでつくづく思うのは、いかに私たち日本人が同じ自然とともに生きた時間が長かったかということである。作者の食べた明治の棗も、私の昭和の棗も同じ棗だと言ってよい。江戸期やそれ以前の棗だって、おそらくは同じなのである。自然破壊が進行した今では、なんだか不思議な気がするくらいに、この同一性は保たれつづけてきたのだった。有季定型の俳句文芸は、この同一性に深く依存している。「季語」の発明は、自然と人間とのいわば永遠の共存関係を前提にしたものであり、その関係が現実的に破綻した現在、俳句がギクシャクとしているのも当然と言えるだろう。はっきり言って、もう有季定型に未来は詠めなくなった。伝統的な自然との親和力は、過去と、そしてかろうじての現在に向いてしか働かないからだ。このままだと、遠からず有季定型句は滅びてしまうに違いない。でも、それだっていいじゃないか。というのが、私の立場である。『新歳時記・秋』(1989)所収。(清水哲男)


September 2892003

 物言へば唇寒し秋の風

                           松尾芭蕉

まりにも有名なので、作者の名前を知らなかったり、あるいは諺だと思っている人も少なくないだろう。有名は無名に通じる。こうした例は、他のジャンルでも枚挙にいとまがない。それはともかく、掲句は教育的道徳的に過ぎて昔から評判は芳しくないようだ。ご丁寧にも座右の銘として、こんな前書までついているからだろう。「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」。虚子も、苦々しげに言っている。「沈黙を守るに若かず、無用の言を吐くと駟(シ)も舌に及ばずで,忽ち不測の害をかもすことになる,注意すべきは言葉であるという道徳の箴言に類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない」。ま、そういうことになるのだろうが、私はちょっと違う見方をしてきた。発表された当時には、かなり大胆かつ新鮮な表現で読者を驚かせたのではないのかと……。なぜなら、江戸期の人にとって、この「唇」という言葉は、文芸的にも日常的にも一般的ではなかったろうと推察されるからである。言葉自体としては、弘法大師の昔からあるにはあった。が、それは例えば「目」と言わずに「眼球」と言うが如しで、ほとんど医術用語のようにあからさまに「器官」を指す言葉だったと思われる。普通には「口」や「口元」だった。キスでも「口吸ふ」と言い、「唇吸ふ」という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて「唇」と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」と「眼球をこする」では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。(清水哲男)


September 2992003

 石榴割れる村お嬢さんもう引き返さう

                           星野紗一

語は「石榴(ざくろ)」で秋。不思議な味のする句だ。変な句だなあと一度は読み過ごしたが、また気になって戻ってきた。まるで、横溝正史の小説の発端でも読んでいるような雰囲気だ。この状況で、そこここに大きなカラスがギャーギャー鳴きながら飛び回りでもしていたら、おぜん立てはぴったり。作者ならずとも、「もう引き返さう」という気持ちになるだろう。でも、お嬢さんは気丈である。委細構わず物も言わずに、人気の無い村の奥へ奥へと歩み入ってゆく……。周囲にある石榴の木を見上げると、どれもこれもの実が大きく割れており、二人をあざ笑うかのような赤い果肉がおどろおどろしい。気味が悪いなあ……。ところで実際、石榴は、昔は不吉な実として忌み嫌われていたそうである。というのも、東京入谷などの鬼子母神(きしもじん)像を見ると右手に石榴を持っているが、あの石榴には次の言い伝えがあるからだった。この女はもとは鬼女であり千人の子を生んだが、子を養うために、日夜、他人の子を盗んではわが子に与え、地域には悲しみの泣き声が絶えなかった。この話を伝え聞いた釈迦は、女に吉祥果(石榴)を与え、人の子の代わりにその実を食べさせよと戒めたという。この話のため、石榴は人肉の味がするとして嫌われたということだ。嘘か本当かは知る由もないけれど、私もそういえば人肉は酸っぱいものだと聞いたことがある。作者もまた、おそらくはこの話を踏まえて作句しているのだろう。それにしても、奇妙な味の俳句があったものである。この人の句を、もっと読んでみたくなった。もし句集があったら、どなたかお知らせいただければありがたいのですが。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)

[早速……]上記星野紗一句集について、読者より丁寧なご案内をいただきました。ありがとうございました。(29日午前6時30分)


September 3092003

 みづうみのみなとのなつのみじかけれ

                           田中裕明

月尽。九月が終わる。今年の夏は冷たく、今月に入ってから猛烈な暑さに見舞われた。いつもの年だと名残の夏の暑さと感じるのだが、今年は九月になってから、やっと本格的な夏がやってきたという感じだ。それも、まことに短い「夏」であった。おおかたの人々の実感も同じだろう。この実感の上に立って掲句を読むと、私には歳時記的な夏の終わりではなくて、今年の九月尽のことを詠んでいるように思えてならない。句意もその抒情性も明瞭なので説明の必要もないだろうが、しかし逆にこの世界を散文で説明せよと言われると、かなり難しいことになる。ふと、そんなことを思った。つまり、自分なりのイメージを述べるだけでは、何かまだ説明が足らないという思いの残る句なのだ。というのも、すべてはこの故意の平仮名表記に原因があるからだと思う。「湖」ではなく「みづうみ」、「港」ないしは「湊」ではなく「みなと」と表記するとき、「みづうみ」も「みなと」も現実にあるどこそこのそれらを離れてふわりと宙に浮く。架空的にで浮くのではなく、現実的な存在感を残しつつ抽象化されるとでも言えばよいだろうか。平たく言ってしまえば、出てくる「みづうみ」も「みなと」も、そしてまた「みじかけれ」までもが漠然としてしまうのだ。だから、受けた抒情的な印象がいかに鮮明であったとしても、上手には説明できない。作者がねらったのはまさにこの漠然性の効果であり、もっと言えば、漠然性の明瞭化明晰化による効果ということだろう。しかるべき部分を漢字に直してみればはっきりするが、漢字混じりにすると、句のスケールはぐっと縮まってしまう。読者の想像の余地が、ぐっとせばまってしまうからだ。平仮名表記なぞは一見簡単そうだけれど、よほど練達の俳人でないと、句のようにさらりと使えるものではない。こういう句を、玄人の句、玄人好みのする句と言う。俳誌「ゆう」(2003年10月号)所載。(清水哲男)




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