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2003ソスN8ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2782003

 大きな火星へ汚れ童子等焚火上ぐ

                           川口重美

星最接近の日。六万年ぶりという。最接近とは言っても、地球からの距離は5千5百万キロメートルほどだから、上の看板みたいに大きく見えるわけじゃない。昨夜のラジオで国立天文台の人が、肉眼では2百メートル先の百円玉くらいにしか見えないと言っていた。今夜よりも少し遠ざかるが、大気が澄み上る時間が早くなる九月か十月が見ごろとも……。さて、火星といえば何と言っても萩原朔太郎の「人間に火星近づく暑さかな」が秀抜だが、この句については既に触れた。他にないかと、やっと探し当てたのが掲句である。「焚火」は冬の季語だから、残念なことに季節外れだ。戦後三年目(1948年)の作句。「汚れ童子等」とは、おそらく戦災孤児のことだろう。寒いので、そこらへんの燃えそうなものを持ってきては、委細構わずに燃やしている。生き伸びるための焚火である。中村草田男の「浮浪児昼寝す『なんでもねえやい知らねえやい』」に通う情景だ。このときに「大きな火星」とは、何だろうか。むろん実景としては常よりも少しは大きな火星が見えているのだろうが、句の勢いからすると、むしろ巨大に見えているという感じがする。その巨大な火星にむけて、子供らのやり場の無い鬱屈した怒りが、炎となって焚き上げられている。もはや、こんな地球は頼むに足らずと言わんばかりだ。作句年代からすると、この火星はソビエト連邦のシンボルであった赤い星に重ね合わされているのかもしれない。当時盛んに歌われた歌の一節に「赤き星の下に眠る我が山河広き野辺、世界に類無き国、麗し明るき国、我らが母なるロシア、子供らは育ちゆく」という文句があった。藤野房彦サイト「私の書斎」所載。(清水哲男)


August 2682003

 八月のある日がらんと山の駅

                           勝又星津女

山客であれほどにぎやかだった「山の駅」が、「ある日」突然嘘のように「がらんと」静かになる。ちょうど、いまごろの時期だろう。作者は地元の人のようだから、例年のことで慣れてはいるものの、やはり一抹の寂寥感がわいてくる。「がらんと」は駅の様子であるとともに、作者の心のそれでもある。「八月」も間もなく終わり、学校ではもうすぐ二学期。熱気の引いたこの山里の人々に、いつもの地味な日常が戻ってくるのだ。そして、これからの山の季節の移ろいは早い。さりげないスケッチ句だが、なかなかの余韻を残す佳句である。あやかって、本日の私の鑑賞も、以上で「がらんと」終わることにいたします。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 2582003

 三伏の肉のかたまり船へ運ぶ

                           吉田汀史

語は「三伏(さんぷく)」で夏。「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意。夏の極暑の期間。夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。時候の挨拶で、極暑の候をいう[広辞苑第五版]。暦的にはとっくに過ぎてしまったが、このところの暑さはまさに三伏の候を思わせる。やっと梅雨が明け、本格的な夏がやってきたというのが実感だ。東京の暑さも昨日が今年最高で、蝉時雨なおしきりなり。そんな暑さのなか、白昼「肉のかたまり」が「船」へと運ばれている。どんな肉なのか、どのくらいの大きさのかたまりなのか。あるいは、どんな船なのか。肉はたぶん船内での料理のために使われるのであろうが、一切の具体性は不明だけれど、掲句には猛暑に拮抗する人間のエネルギーが感じられる。情景の細部を省略し、一掴みに「肉のかたまり」とだけ言ったところに、言葉のエネルギーも噴き出している。真夏の太陽の直射を受けて立とうという気概があり、たとえ激しい労働の一情景だとしても、受けて立つ健康な肉体の喜びまでが伝わってくるようだ。しかも「船」には前途がある。港のこの活力は、ここだけで終わるのではない。未来につづくのだ。団扇をバタバタやりながら掲句を読んで、久しく忘れていた酷暑のなかでの爽快感を思い出した。若い日の夏を思い出して、とても気分が良くなった。こういう句は、作者もよほど体調がよくないと書けないだろうな。そんなことも、ふっと思ったことでした。俳誌「航標」(2003年8月号)所載。(清水哲男)




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