油蝉しきり。法師蝉は十日ほど前にちらっと鳴いてすっと引いた。朝夕には秋の風。




2003ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2682003

 八月のある日がらんと山の駅

                           勝又星津女

山客であれほどにぎやかだった「山の駅」が、「ある日」突然嘘のように「がらんと」静かになる。ちょうど、いまごろの時期だろう。作者は地元の人のようだから、例年のことで慣れてはいるものの、やはり一抹の寂寥感がわいてくる。「がらんと」は駅の様子であるとともに、作者の心のそれでもある。「八月」も間もなく終わり、学校ではもうすぐ二学期。熱気の引いたこの山里の人々に、いつもの地味な日常が戻ってくるのだ。そして、これからの山の季節の移ろいは早い。さりげないスケッチ句だが、なかなかの余韻を残す佳句である。あやかって、本日の私の鑑賞も、以上で「がらんと」終わることにいたします。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 2582003

 三伏の肉のかたまり船へ運ぶ

                           吉田汀史

語は「三伏(さんぷく)」で夏。「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意。夏の極暑の期間。夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。時候の挨拶で、極暑の候をいう[広辞苑第五版]。暦的にはとっくに過ぎてしまったが、このところの暑さはまさに三伏の候を思わせる。やっと梅雨が明け、本格的な夏がやってきたというのが実感だ。東京の暑さも昨日が今年最高で、蝉時雨なおしきりなり。そんな暑さのなか、白昼「肉のかたまり」が「船」へと運ばれている。どんな肉なのか、どのくらいの大きさのかたまりなのか。あるいは、どんな船なのか。肉はたぶん船内での料理のために使われるのであろうが、一切の具体性は不明だけれど、掲句には猛暑に拮抗する人間のエネルギーが感じられる。情景の細部を省略し、一掴みに「肉のかたまり」とだけ言ったところに、言葉のエネルギーも噴き出している。真夏の太陽の直射を受けて立とうという気概があり、たとえ激しい労働の一情景だとしても、受けて立つ健康な肉体の喜びまでが伝わってくるようだ。しかも「船」には前途がある。港のこの活力は、ここだけで終わるのではない。未来につづくのだ。団扇をバタバタやりながら掲句を読んで、久しく忘れていた酷暑のなかでの爽快感を思い出した。若い日の夏を思い出して、とても気分が良くなった。こういう句は、作者もよほど体調がよくないと書けないだろうな。そんなことも、ふっと思ったことでした。俳誌「航標」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


August 2482003

 雀蛤と化して食はれけるかも

                           櫂未知子

つけたっ、珍季語句。このところいささか理屈っぽくなっていたので、理屈抜きで楽しめる句を探していたら、掲句にぶつかった。季語は「雀蛤と化す(なる)」で秋。もはやほとんどの歳時記から姿を消している季語であり、ついぞ実作を見かけたこともない。手元の辞書に、こうある。「雀海中(かいちゅう)[=海・大水(たいすい)・水]に入(い)って蛤(はまぐり)となる(「国語‐晋語九」による)。物がよく変化することのたとえ。古くから中国で信じられていた俗信で、雀が晩秋に海辺に群れて騒ぐところから、蛤になるものと考えたものという」。日常的にはあくまでも「たとえ」として諺的に使われてきた言葉なのだが、これを作者がいわば「実話」として扱ったところに、楽しさが出た。あたら蛤なんぞにならなければ、食われることもなかったろうに……。ほんとに、そうだなあ。たまには、こうやって俳句を遊んでみるのも精神衛生には良いですね。ちなみに、この季語で夏目漱石が「蛤とならざるをいたみ菊の露」と詠んでいる。ついに蛤になるに至らず死んだ雀を悼んだ句だ。死骸を白菊の根元に埋めてやったという。しかし、これも「たとえ」ではなく「実話」としての扱いである。現代俳人では、たとえば加藤静夫に「木登りの木も減り雀蛤に」があるが、これまた「木」と「雀」がイメージ的に結びついていることから、どちらかと言うとやはり「実話」色が濃い。どなたか、諺的な「たとえ」の意味でチャレンジしてみてください。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)




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