今年は一度も冷房をつけていない。このまま何とかがんばるぞ。団扇大活躍の候也。




2003ソスN8ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2582003

 三伏の肉のかたまり船へ運ぶ

                           吉田汀史

語は「三伏(さんぷく)」で夏。「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意。夏の極暑の期間。夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。時候の挨拶で、極暑の候をいう[広辞苑第五版]。暦的にはとっくに過ぎてしまったが、このところの暑さはまさに三伏の候を思わせる。やっと梅雨が明け、本格的な夏がやってきたというのが実感だ。東京の暑さも昨日が今年最高で、蝉時雨なおしきりなり。そんな暑さのなか、白昼「肉のかたまり」が「船」へと運ばれている。どんな肉なのか、どのくらいの大きさのかたまりなのか。あるいは、どんな船なのか。肉はたぶん船内での料理のために使われるのであろうが、一切の具体性は不明だけれど、掲句には猛暑に拮抗する人間のエネルギーが感じられる。情景の細部を省略し、一掴みに「肉のかたまり」とだけ言ったところに、言葉のエネルギーも噴き出している。真夏の太陽の直射を受けて立とうという気概があり、たとえ激しい労働の一情景だとしても、受けて立つ健康な肉体の喜びまでが伝わってくるようだ。しかも「船」には前途がある。港のこの活力は、ここだけで終わるのではない。未来につづくのだ。団扇をバタバタやりながら掲句を読んで、久しく忘れていた酷暑のなかでの爽快感を思い出した。若い日の夏を思い出して、とても気分が良くなった。こういう句は、作者もよほど体調がよくないと書けないだろうな。そんなことも、ふっと思ったことでした。俳誌「航標」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


August 2482003

 雀蛤と化して食はれけるかも

                           櫂未知子

つけたっ、珍季語句。このところいささか理屈っぽくなっていたので、理屈抜きで楽しめる句を探していたら、掲句にぶつかった。季語は「雀蛤と化す(なる)」で秋。もはやほとんどの歳時記から姿を消している季語であり、ついぞ実作を見かけたこともない。手元の辞書に、こうある。「雀海中(かいちゅう)[=海・大水(たいすい)・水]に入(い)って蛤(はまぐり)となる(「国語‐晋語九」による)。物がよく変化することのたとえ。古くから中国で信じられていた俗信で、雀が晩秋に海辺に群れて騒ぐところから、蛤になるものと考えたものという」。日常的にはあくまでも「たとえ」として諺的に使われてきた言葉なのだが、これを作者がいわば「実話」として扱ったところに、楽しさが出た。あたら蛤なんぞにならなければ、食われることもなかったろうに……。ほんとに、そうだなあ。たまには、こうやって俳句を遊んでみるのも精神衛生には良いですね。ちなみに、この季語で夏目漱石が「蛤とならざるをいたみ菊の露」と詠んでいる。ついに蛤になるに至らず死んだ雀を悼んだ句だ。死骸を白菊の根元に埋めてやったという。しかし、これも「たとえ」ではなく「実話」としての扱いである。現代俳人では、たとえば加藤静夫に「木登りの木も減り雀蛤に」があるが、これまた「木」と「雀」がイメージ的に結びついていることから、どちらかと言うとやはり「実話」色が濃い。どなたか、諺的な「たとえ」の意味でチャレンジしてみてください。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


August 2382003

 秋めくや一つ出てゐる貸ボート

                           高橋悦男

語は「秋めく」。このところの東京は残暑がぶりかえしてきて蒸し暑いが、日の光りはさすがにもう秋である。八月も終わりのころの、そんな日の暑い昼下りの情景だろう。夏の盛りには家族連れなどで大いににぎわった貸ボート場も、いまは閑散として、ただ一艘が出ているだけだ。この句が上手いなと思うのは、主観性の強い「秋めく」という表現に、眼前の一情景をそのまま写生することによって明晰な客観性を与えているところだ。間もなく秋の観光シーズンになれば、またこのボート場にも活気が戻ってくるのである。すなわち、夏の盛りと秋のそれとの中間の、それもほんの短い間の季節感をさらりと一筆書きに仕留めたような巧みさ。だから作者は、この情景が淋しいとか心に沁みるとかと言っているのではない。あえて言うならば、情景の客観写生が「秋めく」という主観的な言葉を引き出してくれたことで、作者は句になったと納得している。実作者の人ならば、このあたりの気持ちの良さは理解できるだろう。これまでに「秋めく」の句はたくさん作られてきたが、主観性のかちすぎた句が多い。といって、私には主観性を否定する気など毛頭ないのだけれど、しかし、このように客観が主観を引っ張り出す俳句の様式には、舌を巻かざるを得ないのである。地味な句ではある。が、俳句の様式に関心のある人には見過ごせない句だと思った。もう少し考えてみたい。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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