やっと晴れ間が見えるようになった東京。が、火星最接近の27日は曇天の予報です。




2003ソスN8ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2282003

 樹々の青重ねて秋もはじめなり

                           鞠絵由布子

の六月に余白句会50回記念パーティが開かれ、そのときのことを詩人の財部鳥子が「詩人の俳句」と題して書いている(「俳句研究」2003年9月号)。最初に参加者による大句会が行われたのだが、会場の様子はこうだった。「俳句が読み上げられると作者の名前が明かされる。その前にみんなの下馬評、『これは詩人の俳句だな』『どうも詩人くさいな』笑いも混じる。下手の横好きという含みか。しかし案外に当たるのだった」。財部さんによれば、当たるのは詩人の俳句には「言葉の並びに自由と無理が入り込む」からなのである。私も、常々そう思ってきた。図星である。だから、たとえば掲句を詩人の俳句と感じる人は皆無だろう。どこから見ても、俳人の作品だ。夏から秋へとさしかかる季節感を、まだ青い樹々の葉の重なり具合を通して微妙に見出している。よくよく見ると盛夏の青ではなく、かといって紅葉しはじめている色でもない。その微妙な色彩をとらえて、すなわち「秋のはじめなり」と断定したところに俳句的な手柄がある。これが詩人だと、たとえ微妙な変化に気づいたとしても、こうは詠まない。いや、詠めない。掲句のように書くことに、どうしても不安感を抱いてしまうからだ。このままではどこか頼りなく、もう一押し念を入れたくなる。でも、もう一押しすると、たぶん樹々の青の微妙な色合いはどこかに押し込められてしまい、掲句の清新な感覚は衰えてしまうだろう。というようなことは、むろん詩人にだってわかっているのだ。わかっちゃいるけど止まらないのである。大雑把に言えば、詩は説得し俳句は説得しない。この差は大きい。それにしても上手な句です。脱帽です。『白い時間』(2003)所収。(清水哲男)


August 2182003

 退院をして来てをられ秋簾

                           深見けん二

語は「秋簾(あきすだれ)」。涼しくなってくると、簾はしまいこまれる。が、どうかすると、しまい忘れて吊りっぱなしになっていたりする。汚れてみすぼらしい感じを受ける。だから、逆に人目につきやすいとも言え、通りがかりにそんな簾があると、見るともなく、つい目をやってしまう。作者も同様で、通りがかりに近所の家の窓の簾に目をやると、簾越しに人の影が認められた。ご近所とはいっても、平素はそんなに付き合いの無い家だ。親しければ、当然入退院の報せは届けられるからである。つまり、ぼんやりと家族構成(一人暮らしかもしれない)くらいは知っている程度で、ご主人の入院も人づてに聞いていたのだろう。むろん、病状など詳しいことは何も知らない。そう言えば、このところその人の姿も見かけないし、簾を吊った部屋も閉じられていることが多かったような……。そんなわけで、何となく気になっていたところ、いま認めた人の影はまぎれもなくその人のものだった。ああ、早々に退院して来られたのだな。そう思ったら、それこそ何となく気持ちが明るくなったというのである。吊ったままの簾も、この様子だと今日にでもしまわれることだろう。と、ただそれだけのことを詠んでいるのだが、こういう句には文句無しに唸らされてしまう。詠まれているのは、日常的な些事には違いない。だが、その些事をこのようにさりげなく詠むには、虚子直門の作者には失礼な言い方になるけれど、相当な年月をかけた修練が必要だ。たとえば修練を積んだ剣士かどうかがさりげない立ち姿でわかるように、掲句もまた、さりげなくも腰がぴしりと決まっているのがわかる。『深見けん二句集』(1993)所収。(清水哲男)


August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます