娘たちが暑いヨーロッパに帰っていく。気温差に体調を崩さなければよいのだが…。




2003ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982003

 炎昼の血砂を吐けり落馬騎手

                           山本光篁子

語は「炎昼(えんちゅう)」で夏。燃えるように暑い真夏の競馬場で、落馬した騎手が地面に叩きつけられた瞬間を押さえた句だ。「血砂」は「けっさ」と発音するのだろう。騎手が吐いたのはむろん「血」であるが、それが地面の「砂」にぱっとかかった様子を描写するのに、作者はあえて「血砂」という造語をもってした。あたかも騎手が「血」と「砂」を同時に吐いたかのようだが、それがこの句の情景をかえって鮮明にしている。飛び散った「血」と「砂」に、瞬間的にピントを正確に合わせた写真のように、落馬の情景は読者の網膜にくっきりと焼き付けられるのだ。そして、このときに現場では起きたであろう観客のどよめきも、委細構わずに走り去っていく他の馬群のとどろきも、句からは何も聞こえてこない。奇妙なほどに、あたりはしいんとしている。ただあるのは、既にしてどす黒くも鮮かな「血砂」に倒れ込んだ騎手の無音のストップモーションだ。状況は違うけれど、読んだ途端に私は、スペイン戦線で被弾した瞬間の兵士を撮ったロバート・キャパの写真に共通するものを感じたのだった。すなわち、非情の世界にはいつだって音などは無いものなのだと……。いずれにしても、このシャッターチャンスを逃さなかった作者の眼力が素晴らしい。競馬に取材した句は数あれど、なかでも出色の一句と言ってよいだろう。俳誌「梟」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


August 1882003

 かの夏の兄が匂わすセメダイン

                           的野 雄

セメダイン
い日の夏休みの思い出だ。夏休みも後半になってくると、宿題の工作の必需品として「セメダイン」が活躍する。船や飛行機の模型を作ったり、筆立てや状差しなどの文具作りにと、この接着剤は欠かせなかった。チューブを絞ってしかるべき場所に塗り、手早く接着するには慣れとコツが必要だった。ぼやぼやしていると乾いて役立たずになるので、小さい子が扱うのはとても無理。学校の工作でも、セメダインを使うのは小学生だと高学年になってからだったと思う。だから、小さかった作者には、セメダインをこともなげに使える「兄」が羨ましかったのだろう。使う当人には手についてなかなか取れないで困るあの刺激臭すら、羨望の対象だったのだ。はるか昔の甘酢っぱくも懐しい夏の日々よ。作者は七十代の後半。この素敵なお兄さんは、ご健在だろうか。ところで、セメダインは接着剤の代名詞のように言われることが多いのだが、ホッチキスなどと同様に商標登録された固有名詞である。セメダインの語源はセメント(cement)と力を表す単位ダイン(dyne)による合成語で「強い接合、接着」という意味だ。しかし一説には創業当時、市場を独占していたイギリス製の接着剤「メンダイン」を市場から「攻め(セメ)出す」という意味でつけられたという話もあるそうだ。命名は1923年(大正十二年)のことだから、「攻め」の意が込められたとしても不思議ではないけれど。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


August 1782003

 盆過ぎや人立つてゐる水の際

                           桂 信子

盆が終わった。久しぶりに家族みんなが集まり親類縁者が交流しと、盆(盂蘭盆会)は血縁共同体のためのお祭りでもある。そのお祭りも、慌ただしくするうちに四日間で終わってしまう。掲句は、いわば「祭りの果て」の風情を詠んでいて巧みだ。死者の霊魂もあの世に戻り、生者たちもそれぞれの生活の場に帰っていった。作者はそんな祭りの後のすうっと緊張が解けた状態にあるのだが、虚脱の心と言うと大袈裟になるだろう。軽い放心状態とでも言おうか、日常の静かなバランスを取り戻した近辺の道を歩きながら、作者は川か池の辺にひとり立っている人の影を認めている。しかし、その人が何故そこに立っているのかだとか、どこの誰だろうだとかということに意識が向いているのではなく、ただ何も思うことなく視野に収めているのだ。私の好みで情景を勝手に決めるとすると、時は夕暮れであり、立っている人の姿は夕日を浴び、また水の反射光に照り返されて半ばシルエットのように見えている。そして、忍び寄る秋を思わせる風も吹いてきた。またそして、あそこの「水の際(きわ)」に人がいるように、ここにも私という人がいる。このことに何の不思議はなけれども、なお祭りの余韻が残る心には、何故か印象的な光景なのであった。今日あたりは、広い日本のあちこちで、同様な感懐を抱く人がおられるだろう。この種の風情を言葉にすることは、なかなかに難しい。みずからの「意味の奴隷」を解放しなければならないからだ。『草樹』(1986)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます