敗戦日から数日後に、父が縁側で短銃を磨いていた。若い父は何を思っていたのか。




2003ソスN8ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1582003

 玉音を理解せし者前に出よ

                           渡辺白泉

書に「函館黒潮部隊分遣隊」とある。いわゆる季語はないが、しかし、この句を無季句に分類するわけにはいかない。「玉音」放送が1945年(昭和二十年)八月十五日正午より放送された歴史的なプログラムであった以上、季節は歴然としている。天皇は「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」云々と文語文を読み上げたのだから、すっと「理解」するには難しかった。加えて当時のラジオはきわめて感度が悪く、多くの人が正直なところよく聞き取れなかったと証言している。なかには、天皇が国民に「もっと頑張れ」と檄を飛ばしたのだと誤解した人さえいたという。句の「理解」が、どんなレベルでのそれを指しているのか不明ではあるけれど、作者の怒りは真っすぐに直属の上官たちに向けられている。すべての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。軍隊ばかりではなく、子供の学校でも、これを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞くが、殴られはしないが死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら、今度は即刻、お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。この句を、放送を理解できなかった上官が、いつもの調子で部下を脅している情景と読み、皮肉たっぶりの句ととらえる人もいる。が、私は採らない。そんなに軽い調子のものではない。句は、怒りにぶるぶると震えている。『渡辺白泉句集』(1975)所収。(清水哲男)


August 1482003

 惜別や手花火買ひに子をつれて

                           鈴木花蓑

に対する「惜別(せきべつ)」の情なのかは、明らかにされていない。ただ「惜別」と振りかぶっているからには、間近に辛い別れが待っているのだろう。たとえば、人生の一大転機に際しての退くに退けない別離といったものが感じられる。そんな父親の哀しみを知る由もない子供は、花火を買ってもらえる嬉しさに元気いっぱいだ。せきたてるように「早く早く」と、父親の手を引っ張って歩いているのかもしれない。両者の明暗の対比が、作者の惜別の情をいっそう色濃くしている。手元に句集がないので、作句年代がわからないのが残念だ。略歴によれば、花蓑(はなみの)は、現在の愛知県半田市の生まれ。名古屋地方裁判所に勤めながら俳句グループを作っていたが、1925年(大正十四年)に家族を伴って上京し、高浜虚子の門を敲いた。虚子の膝元で俳句を学びたい一心での転居であつたという。他に特筆すべき転機もないようだから、おそらくはこのときの句ではなかろうか。公務員職をなげうってまで俳句に没入するとは、なんとも凄まじい執念だ。それでなくとも「詩を作るより田を作れ」の時代だった。独身の文学青年ならばまだしも、家族を巻き込んでのことだから、よほどの苦渋の果ての決心だったろう。もしもこの時期の句だとしたら、作者にはその夜の「手花火」の光りはどんなふうに見えただろうか。前途を祝う小さな祝祭の光りというよりも、やはり故郷を捨てることやみずからの才への不安などがないまぜになって、弱々しくも心細い光りに映ったのではなかろうか。後に出た『鈴木花蓑句集』の虚子の序文には「研鑽を重ねて、ホトトギス雑詠欄における立派な作家の一人となり、巻頭をも占めるようになって、一時は花蓑時代ともいふべきものを出現するようになった」とあるそうだ。(清水哲男)


August 1382003

 盆芝居婆の投げたる米袋

                           沢木欣一

語は「盆芝居」で秋。句は、歌舞伎座で行われる「盆狂言」などの立派な舞台ではなく、田舎の小屋掛け芝居だ。どさ回りの一座がやってきて、一夜だけ怪談劇や人情噺を演じて去っていく。私の子供時代には、お盆の時期がいわば村の娯楽週間であり、盆踊りに野外映画会、漫才や浪曲の集い、そして盆芝居と、いろいろなイベントにワクワクしたものだ。芝居の時には夕暮れを待ちかねて早くから出かけ、舞台作りから見た。トラックから背景や大道具小道具が降ろされ、だんだんと舞台がそれらしくなっていく様子を飽かず眺めたものだったが、私など子供にとっては、もう準備それ自体が芝居だったと言ってよい。そしていよいよ芝居がはじまると、掲句のような情景が見られた。いわゆる「おひねり」をにわか贔屓になった役者めがけて投げるわけだが、この「婆」は現金ではなくて小さな「米袋」を投げている。お婆さんにしてみれば、何も投げない芝居見物は淋しかったのだろう。といって自由になる小遣いはないので、家を出る前に一所懸命に考えて、あらかじめ用意してきたのだ。泣けてくるようなシーンである。私の田舎では、入場料は無料だった。芝居がかかると決まると、集落ごとに寄付金を集めて興行料をまかなったからである。小屋の周囲には寄付した家の名前と金額がずらりと張りだされたが、我が家の名前はいつもなかった。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)




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