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2003ソスN8ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1482003

 惜別や手花火買ひに子をつれて

                           鈴木花蓑

に対する「惜別(せきべつ)」の情なのかは、明らかにされていない。ただ「惜別」と振りかぶっているからには、間近に辛い別れが待っているのだろう。たとえば、人生の一大転機に際しての退くに退けない別離といったものが感じられる。そんな父親の哀しみを知る由もない子供は、花火を買ってもらえる嬉しさに元気いっぱいだ。せきたてるように「早く早く」と、父親の手を引っ張って歩いているのかもしれない。両者の明暗の対比が、作者の惜別の情をいっそう色濃くしている。手元に句集がないので、作句年代がわからないのが残念だ。略歴によれば、花蓑(はなみの)は、現在の愛知県半田市の生まれ。名古屋地方裁判所に勤めながら俳句グループを作っていたが、1925年(大正十四年)に家族を伴って上京し、高浜虚子の門を敲いた。虚子の膝元で俳句を学びたい一心での転居であつたという。他に特筆すべき転機もないようだから、おそらくはこのときの句ではなかろうか。公務員職をなげうってまで俳句に没入するとは、なんとも凄まじい執念だ。それでなくとも「詩を作るより田を作れ」の時代だった。独身の文学青年ならばまだしも、家族を巻き込んでのことだから、よほどの苦渋の果ての決心だったろう。もしもこの時期の句だとしたら、作者にはその夜の「手花火」の光りはどんなふうに見えただろうか。前途を祝う小さな祝祭の光りというよりも、やはり故郷を捨てることやみずからの才への不安などがないまぜになって、弱々しくも心細い光りに映ったのではなかろうか。後に出た『鈴木花蓑句集』の虚子の序文には「研鑽を重ねて、ホトトギス雑詠欄における立派な作家の一人となり、巻頭をも占めるようになって、一時は花蓑時代ともいふべきものを出現するようになった」とあるそうだ。(清水哲男)


August 1382003

 盆芝居婆の投げたる米袋

                           沢木欣一

語は「盆芝居」で秋。句は、歌舞伎座で行われる「盆狂言」などの立派な舞台ではなく、田舎の小屋掛け芝居だ。どさ回りの一座がやってきて、一夜だけ怪談劇や人情噺を演じて去っていく。私の子供時代には、お盆の時期がいわば村の娯楽週間であり、盆踊りに野外映画会、漫才や浪曲の集い、そして盆芝居と、いろいろなイベントにワクワクしたものだ。芝居の時には夕暮れを待ちかねて早くから出かけ、舞台作りから見た。トラックから背景や大道具小道具が降ろされ、だんだんと舞台がそれらしくなっていく様子を飽かず眺めたものだったが、私など子供にとっては、もう準備それ自体が芝居だったと言ってよい。そしていよいよ芝居がはじまると、掲句のような情景が見られた。いわゆる「おひねり」をにわか贔屓になった役者めがけて投げるわけだが、この「婆」は現金ではなくて小さな「米袋」を投げている。お婆さんにしてみれば、何も投げない芝居見物は淋しかったのだろう。といって自由になる小遣いはないので、家を出る前に一所懸命に考えて、あらかじめ用意してきたのだ。泣けてくるようなシーンである。私の田舎では、入場料は無料だった。芝居がかかると決まると、集落ごとに寄付金を集めて興行料をまかなったからである。小屋の周囲には寄付した家の名前と金額がずらりと張りだされたが、我が家の名前はいつもなかった。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 1282003

 西日中電車のどこか掴みて居り

                           石田波郷

語は「西日」で夏。敗戦直後に詠まれた句だ。「電車」は路面電車ではあるまいか。だまりこくっている満員の乗客。そして窓外をのろのろと流れていくのは、一面の焦土と化した東京の光景だ。西日は容赦なくかっと照りつけ、車内にも射し込んでくる。むろん冷房装置などあるわけもないから、頭の中が白くなるような暑さだ。吊り革か、他の部分か。「電車のどこか掴(つか)みて居り」には、そんな暑さから来る空漠感に加えて、明日の生活へのひとかけらの希望もない心の荒廃感が重ね合わされている。とにかく、何かどこかを掴んで生きていかなければ……。戦後の復興は、こうした庶民の文字通りに必死の奮闘によってなされた。そこにはまず、自分さえよければいいというエゴイズムが当然に働いたであろう。食うため生きるためには、他人への迷惑やら裏切りやら、さらには法律もへったくれもあるものかと、がむしゃらだった。誰も彼もが栄養失調で、目ばかりがぎらぎらしていた。掲句の電車の客も、そういう人ばかりである。このことを後の世代は庶民の逞しさと総括したりするけれど、一言で逞しさと言うには、あまりにも哀しすぎるエネルギーではないか。この筆舌に尽くしがたい国民的な辛酸の拠って来たる所以は、言うまでもなく戦争だ。往時のどんなに「逞しい」エゴイストでも、二度と戦争はご免だと骨身に沁みていたはずだ。理屈ではない。骨身が感じていたのである。あれから半世紀余を閲したいま、この国は再び公然と戦争や軍隊を口にしはじめている。情けなくて、涙も出やしない。これからの若い日本人は、それこそ何を掴んで生きてゆくのだろうか。『雨覆』(1948)所収。(清水哲男)




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