今日あたりから帰省される方も多いでしょうね。どうか台風に遮られませんように。




2003ソスN8ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0982003

 百姓の手に手に氷菓滴れり

                           右城暮石

語は「氷菓(ひょうか)」で夏だが、種類はいろいろとある。この場合はアイスクリームといったような上等のものではなく、果汁を箸ほどの棒のまわりに凍結させたアイスキャンデーだろう。いまでも似たようなバー状の氷菓はあるけれど、昔のそれとはかなり違う。昔のそれは、とにかく固かった。ミルク分が少なかったせいだろうが、出来てすぐには歯の立つ代物じゃなかったので、少し溶けるのを待ってから食べたものだ。ただし、溶けはじめると早く、うかうかしていると半分くらいを落としてしまうことにもなる。あんなものでも、食べるのにはそれなりのコツが要ったのである。大人よりも、むろん我ら子供のほうが上手かった。句の情景は、そんな氷菓を「百姓(ひゃくしょう)」たちが食べている。おそらく、自転車で売りにきたのを求めたのだろう。田の草取りなど激しい労働の間の「おやつ」として、一息いれている図だ。ただし、一息いれるといっても、彼らには寄るべき木陰などはない。見渡すかぎりの田圃か畑のあぜ道で、炎天にさらされながらの束の間の休息なのである。だから、彼らの手の氷菓はどんどんと、ぼたぼたと溶けていく。まさに「手に手に氷菓滴れり」なのであって、その滴りの早さが「百姓」という職業の過酷な部分を暗示しているかのようだ。休憩だからといって、お互いに軽口をたたきあうわけでもなく、ただ黙々と氷菓を滴らせながら口に運んでいる……。そしてまだまだ、仰げば日は天に高いのである。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 0882003

 師の芋に服さぬ弟子の南瓜かな

                           平川へき

語は「芋」と「南瓜」で、いずれも秋。ああ言えばこう言う。師の言うことに、ことごとく反抗する弟子である。始末に終えない。私も、高校時代にはそんな気持ちの強い生徒だったと思う。『枕草子』を読む時間に解釈を当てられ、我ながら上手にできたと思ったのだが、今度は文法的な逐語訳を求められた。勉強してないのだから、わかりっこない。が、私は言い張った。「古文でも現代文でも、意味がわかればそれでいいんじゃないですか。第一、清少納言が文法を意識して書いたはずもありませんしね」。まったく、イヤ〜な生徒だ。先生、申し訳ありませんでした。そんなふうだったので、二十代でこの句をはじめて読んだときには、とてもこそばゆい感じがしたのだった。ところで、作者は「ホトトギス」の熱心な投句者だったというが、虚子はこの人に辟易させられていたようだ。というのも、この人は一題二十句以下という投稿規定があるにもかかわらず、いろいろと見え透いた変名を使っては百句以上も投稿してきた。それも「ことにその句は随分の出鱈目で作者自身が慎重な態度で自選をさへすればその中から二十句だけ選んで、他はうつちやつてしまつても差支えないものであると分つた時には、いよいよ選者の煩労を察しない態度を不愉快に思ふのであつた」。その人にして、この句あり。にやりとさせられるではないか。虚子は一度だけ、秋田の句会で平川へきに会っている。「あまり年のいかないやりつ放しの人」と想像していたところ、なんと「端座して儀容を崩さない年長者」なのであった。高浜虚子『進むべき俳句の道』(1959・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 0782003

 一振りのセンターフライ夏終る

                           八木忠栄

雲は湧き光溢れて、天高く純白の球今日ぞ飛ぶ……。さあ、甲子園だ。昨夏は何年ぶりかで観に出かけたが、今年は大人しくテレビ観戦することにした。掲句は「熱闘甲子園二句」のうちの一句で、もう一句は「夏雲の上に夏雲投手戦」とある。トーナメント方式だから、毎日、試合の数だけのチームが姿を消してゆく。投手戦など接戦の場合はともかく、ワンサイドゲームになったりすると、最終回には作戦も何もなく、次々とベンチに坐っていた控えの選手を登場させる。みんなに、甲子園の打席を味あわせてやろうという監督の温情からだ。句の選手も代打の切り札というのではなく、そうして出してもらった一人だろう。懸命に振ったが、無情にも平凡なセンターフライだった。この「一振り」で彼の夏は終わり、そしてチームの夏も終わったのだ。甲子園の観客は判官びいきが多いから、負けたチームにこそ暖かい拍手が送られる。「来年も、また来いよ」と、そこここから優しい声がかかる。このあたりにも、高校野球ならではの醍醐味がある。ほとんど、それは良質な「詩の味」のようだと、いつも思う。にもかかわらず、専門俳人はなかなか甲子園の句を作らない。何故なのか。そもそも野球の嫌いな人が多いのかどうかは知らないけれど、この「味」を、ただぼんやりと放っておくテはないだろう。もっともっと、甲子園を詠んでほしい。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)




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