歌えますか。♪にはかに過ぐる夏の雨、物干竿に白露を、名残としばし走らせて…。




2003ソスN8ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0682003

 朝の膳に向ふ八月六日晴れ

                           原 朋沖

祷。本日は一冊の本を紹介するにとどめます。この春、共同通信に書いたものです。デニス・ボック『灰の庭』(2003・河出書房新社)。[ 広島で被爆した少女と、ナチから逃れ「マンハッタン計画」に加わった科学者と、そのユダヤ人の妻と。この三人が運命の糸に操られるようにして、原爆投下の五十年後に実際に出会うという奇跡に近い物語だ。/しかし、あり得ない出会いではない。まず読者にこう思わせるところで、小説は半分以上成功している。著者はまだ三十代のカナダ人で、来日経験がないのに、被爆前後の広島や日本の様子を詳しく書いていて、相当に勉強したあとがうかがえる。当時の新聞記事や公式文書などを、徹底的に読み込んだに違いない。読みながら、私は当時の日本や日本人の描写にほとんど違和感はなかった。著者がこれらの「記録」からのみ誘発された想像力の豊かさには、舌を巻く。/出会った三人がどうなるのか。これから読む人のために書かないでおくが、息詰まるような展開があるとだけ言っておきたい。そして、もうひとつ。この物語はあくまでも原爆投下の歴史的な事実を中心に動いていくのだが、本当のテーマはもっと一般的で、時代を越えた普遍性のあるものだと思った。/すなわち、どのような人の人生も、ついに個人的な「記憶」や「想像」によってのみ構築されるのであって、このときに「記録」にはさして意味がない。人は「記録」を生きるわけではないからだ。テーマは、これだろう。原爆は暴力であり悪であり、どんな戦争も必ず悲劇を生む。事実の「記録」は、そのことをはっきりと告げている。が、実際にそのことに関わった人に言わせれば、どこか違うのだ、ずれているのだ。/それが作品化のために膨大な「記録」を読み、「記録」に矛盾せぬよう三人を会わせた末に得た、もどかしくも悲しいテーマであった。登場人物は、しばしば「記録」を前に口ごもる。むろん、著者自身が口ごもったからなのだ ]。句は『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 0582003

 蝿叩持つておもてへ出てゆけり

                           林 朋子

るいはボケ老人のスケッチかもしれないが、前書も何もないのでそのままに受け取っておきたい。いいなあ、このナンセンスは。書かれている情景の無意味さもいいけれど、こういうことを俳句にできる作者の感性のほうが、もっと素晴らしい。寝ても覚めても「意味」だらけの暑苦しい情報化社会に、すっと涼風が立ったかのようではないか。この句をくだらないと一蹴できる人は、よほどこの世の有意味の毒がまわっている人だろう。あるいは、無意味も意味のうちであることを意味的に肯んじない呑気な人かもしれない。「蝿叩(はえたたき)」を持って「おもて」へ出ていく行為は、そこつなそれではないだろう。上半身はスーツ姿で、電車の中で下はステテコだけだったことに気がついた(某文芸評論家の実話です)というような失敗は、大なり小なり誰にでもあることだ。そうではなくて、掲句の情景はまったく無意味なのだから、笑える行為でもなければいぶかしく感じられる振る舞いでもないわけだ。ただただそういうことなのだからして、読者はそういうことをそういうこととして受け取ればよいのである。受け取って、では、何も感じないのかといえば、むしろ下手に意味のある俳句よりも、よほどこの「蝿叩」人間の行為に手応えを感じることになるはずだ。不思議なようでもあるが、私たちは別に意味に奉仕して生きているわけじゃないから、むしろそれが自然にして当然の感じ方なのだろう。……などと、掲句にぐだぐだ「意味」づけするなどは愚の骨頂だ。さあ諸君、意味を捨て蝿叩を持っておもてへ出よう。とまた、これも意味ある言い草だったか。いかん、いかん。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


August 0482003

 いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは

                           飯島晴子

語は「肌ぬぎ(肌脱)」で夏。私の子供のころにも、近所にこんなお婆さんがいたような記憶がある。掲句のモデルは作者の曽祖母だというから、明治の女だ。以下は、最近出た飯島晴子エッセイ集『葛の花』(富士見書房)より。「この人は、自分の一人娘が十二人の子供を産んで死んでからも長い間生きていた。毎日晩酌を欠かさず、夏は肌脱で酒を呑んだという。夢多き少女であった母の眼に、その姿が嫌わしいものに映ったのは当然である。母の話に出てくる私の曽祖母は、肌脱で暗い家の中にとぐろを捲いている醜悪な因業婆であった」。ついでに思い出したが、こういうお婆さんは表でも平気で立ち小便をしたものだ。「しかし」と、作者はつづけている。「私につながる遠い過去の光の中に浮び上ってくる肌脱の活力は、私には頼もしいものに思われる。私の子供の頃、田舎で見かける肌脱のお婆さんの垂れたおっぱいは、夏の風物としてごく自然で、決してわるい感じではなかった印象もあるが……」。句は「ゐるからは」で止められていて、だからどうなのかということについては、読者に解釈をゆだねている。エッセイを読むと作者自身の解釈はおのずから定まっていたことが知れるわけだが、読まなくても「肌ぬぎの祖母」の存在を否定的に読む人は少ないだろう。やはり読者も、頼もしく思うはずなのである。ただ、その頼もしさはカラリとしたそれではない。この肌脱がじめじめとした因習を破るといった進取の気性からではなく、あくまでも老いたがゆえに陰湿な因習からも見放されかかってのそれだからである。そのことにひとり気づかぬ婆さんは、まるで永遠に生きつづけるかのように、今宵も二階でとぐろを捲いて酒を呑んでいる。第三者にはともかく、家人には鬱陶しいような活力が夏の家の湿度をいっそう高めている。『八頭』(1980)所収。(清水哲男)




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