真夏の陽光は美しい、それも午前中の。午後になるとなんとなく濁ってきますね。




2003ソスN8ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0582003

 蝿叩持つておもてへ出てゆけり

                           林 朋子

るいはボケ老人のスケッチかもしれないが、前書も何もないのでそのままに受け取っておきたい。いいなあ、このナンセンスは。書かれている情景の無意味さもいいけれど、こういうことを俳句にできる作者の感性のほうが、もっと素晴らしい。寝ても覚めても「意味」だらけの暑苦しい情報化社会に、すっと涼風が立ったかのようではないか。この句をくだらないと一蹴できる人は、よほどこの世の有意味の毒がまわっている人だろう。あるいは、無意味も意味のうちであることを意味的に肯んじない呑気な人かもしれない。「蝿叩(はえたたき)」を持って「おもて」へ出ていく行為は、そこつなそれではないだろう。上半身はスーツ姿で、電車の中で下はステテコだけだったことに気がついた(某文芸評論家の実話です)というような失敗は、大なり小なり誰にでもあることだ。そうではなくて、掲句の情景はまったく無意味なのだから、笑える行為でもなければいぶかしく感じられる振る舞いでもないわけだ。ただただそういうことなのだからして、読者はそういうことをそういうこととして受け取ればよいのである。受け取って、では、何も感じないのかといえば、むしろ下手に意味のある俳句よりも、よほどこの「蝿叩」人間の行為に手応えを感じることになるはずだ。不思議なようでもあるが、私たちは別に意味に奉仕して生きているわけじゃないから、むしろそれが自然にして当然の感じ方なのだろう。……などと、掲句にぐだぐだ「意味」づけするなどは愚の骨頂だ。さあ諸君、意味を捨て蝿叩を持っておもてへ出よう。とまた、これも意味ある言い草だったか。いかん、いかん。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


August 0482003

 いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは

                           飯島晴子

語は「肌ぬぎ(肌脱)」で夏。私の子供のころにも、近所にこんなお婆さんがいたような記憶がある。掲句のモデルは作者の曽祖母だというから、明治の女だ。以下は、最近出た飯島晴子エッセイ集『葛の花』(富士見書房)より。「この人は、自分の一人娘が十二人の子供を産んで死んでからも長い間生きていた。毎日晩酌を欠かさず、夏は肌脱で酒を呑んだという。夢多き少女であった母の眼に、その姿が嫌わしいものに映ったのは当然である。母の話に出てくる私の曽祖母は、肌脱で暗い家の中にとぐろを捲いている醜悪な因業婆であった」。ついでに思い出したが、こういうお婆さんは表でも平気で立ち小便をしたものだ。「しかし」と、作者はつづけている。「私につながる遠い過去の光の中に浮び上ってくる肌脱の活力は、私には頼もしいものに思われる。私の子供の頃、田舎で見かける肌脱のお婆さんの垂れたおっぱいは、夏の風物としてごく自然で、決してわるい感じではなかった印象もあるが……」。句は「ゐるからは」で止められていて、だからどうなのかということについては、読者に解釈をゆだねている。エッセイを読むと作者自身の解釈はおのずから定まっていたことが知れるわけだが、読まなくても「肌ぬぎの祖母」の存在を否定的に読む人は少ないだろう。やはり読者も、頼もしく思うはずなのである。ただ、その頼もしさはカラリとしたそれではない。この肌脱がじめじめとした因習を破るといった進取の気性からではなく、あくまでも老いたがゆえに陰湿な因習からも見放されかかってのそれだからである。そのことにひとり気づかぬ婆さんは、まるで永遠に生きつづけるかのように、今宵も二階でとぐろを捲いて酒を呑んでいる。第三者にはともかく、家人には鬱陶しいような活力が夏の家の湿度をいっそう高めている。『八頭』(1980)所収。(清水哲男)


August 0382003

 夏雲へ骨のかたちの膝立てて

                           谷野予志

んな情景を詠んだ句だろうか。いろいろに想像できる。「骨のかたちの膝」というのだから、痩せた膝を思い浮かべて、縁側などで老人か病者がひとりぽつねんと空を見ている様子を思い浮かべることができる。その人は、あるいは作者自身かもしれない。活気に満ちた「夏雲」に対するに弱々しげな人間との対比が、人の生命のはかなさの想いのほうへと連れてゆく。毎日ここを書いていて思うことは、当たり前といえばそれまでだけれど、どのような句と向き合っても、私自身の性癖としか言いようのない内向的な感覚に引き込んで読んでしまいがちなことだ。早い話が、明るい句でも、そのどこかに暗さを見つけたくなるのである。見つけないと安心できない性分、すなわち性癖だ。そんな部分をあとで読み返すと、いやな気分になる。どうしてこうなのかと、情けなくなる。こうした性癖は、格好良く言えば近代的な病(やまい)の一つではあろうが、そんなビョーキにかかっても、何も良いことはない。なんとか逃れようと、何度も試みてはいるのだが、なかなかうまくはいかないものだ。掲句についてもそう考えて、最初の解釈は捨て、情景を海水浴場に置き換えてみた。そうすると、かなり明るい感じにはなる。もくもくと湧く入道雲の下に、たくさんの人たちが膝を立てて沖のほうを眺めている。このときに「骨のかたち」にはもはや痩せたイメージはなく、人が人らしく見える特長をクローズアップしているのだと読めるのである。こんな具合に解釈してみると、先の鑑賞とは反対に、可笑しみさえ感じられる句に変身する。私にとってはどちらが正しいかというような問題ではなく、常にこの異った感覚を働かせることこそが大事なのだと、読者諸兄姉のご迷惑も省みず、本日は自戒のための一筆とはあいなり申し候。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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