2003N8句

August 0182003

 礁打つ浪に八月傷むかな

                           秋元不死男

語「八月」は初旬に立秋がある(今年は8日)ので、秋季に分類される。夏から秋にかわる月だ。暑い日が多いとはいえ、中旬ころになると、朝夕にはそこはかとなく秋の気配が感じられるようになる。海の変化はもっと明瞭で、太平洋岸の土用波は言うまでもなく、だんだんと立つ波も荒くなり、海水浴客もめっきりと減ってしまう。作者は岩礁に打ち寄せるそんな荒い「浪」を見ながら、季節が衰微していく気配を色濃く感じている。その気配を「八月傷(いた)む」と言い止めたところが見事だ。季節の活力がピークに達して、それが徐々に傷んでいく宿命は自然全般のものであり、もとより我ら人間とても例外ではありえない。この句を読んだときに、去り行く青春への挽歌と感じた読者も少なくないだろう。詠まれている情景自体は荒々しいが、「八月傷む」と情景が転位され抽象化されたときに、ふっと読者の胸をよぎるのは優しくも甘酸っぱい感傷のはずだからである。ところで、句の「礁」はどう発音すればよいのだろうか。辞書通りに素直に「しょう」と音読みしておいてもよいのだろうが、句としてのリズム感がよろしくない。私としては「巖根(いわね)」か「巖(いわお)」と発音したいところだ。ただ「巖根」や「巖」の文字面だと山を連想させるので、作者はあえて海を意識させる「礁」の漢字を当てたのではないかと、勝手に想像してのことである。平井照敏編『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[ ありがとうございます ] 数人の読者から「礁」は「いくり」と読むのではないかとのメールをいただきました。意味は、石。海中の岩。暗礁。古事記下「由良の門(と)の門中(となか)のいくりに」[広辞苑第五版]。古語ですか、どうなんでしょうか、うーむ。


August 0282003

 豹つかひ夜は蚊を打ちて夫に寄る

                           橋詰沙尋

性が猛獣を手なづけるという芸は、古くから見られる。屈強な男よりも、かえってかよわい女性の芸としたほうが神秘的に写り、より魅力が増すからだろう。旅から旅へのサーカス暮らし。夫婦で一緒に働いてはいても、二人だけで過ごせる時間は短い。そんな一刻に、「蚊」を打つ仕草をきっかけとして「夫(つま)」に寄り添ったというのだ。ショーの仕事では「豹(ひょう)」を相手に鞭をしならせる手が、なにほどのものでもない蚊を打つという対照の妙。しかも、豹よりも蚊を打つほうにこそ、こまやかな神経を使っていると読ませる技術の冴え。想像句ではあろうが、嫌みのないリアリティが滲み出ていて楽しめる句だ。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)

{ 読者情報 ] 作者は実際に曲馬団の団長だった方だそうです。山口誓子がどこかで書いていたと、お知らせ頂きました。
[ 夏休みのおまけ話 ] ◆ドイツのサーカス団◆ドイツのサーカス団から、40歳代後半の女性の猛獣使いが、ライオン8頭、トラ2頭を乗せたトラックごと団長の息子(20)と駆け落ちした。警察によると、この女性は、団長の息子にライオンの調教法を教えているうちに親密な関係になったとみられる。「ライオンやトラを操れるのなら、20歳の男性とも問題はないだろう…」と警察の広報担当者。団長は”窃盗”の損害は10万ユーロ(1300万円)になるとして警察に届けた(スポニチ大阪版・April 2003)。


August 0382003

 夏雲へ骨のかたちの膝立てて

                           谷野予志

んな情景を詠んだ句だろうか。いろいろに想像できる。「骨のかたちの膝」というのだから、痩せた膝を思い浮かべて、縁側などで老人か病者がひとりぽつねんと空を見ている様子を思い浮かべることができる。その人は、あるいは作者自身かもしれない。活気に満ちた「夏雲」に対するに弱々しげな人間との対比が、人の生命のはかなさの想いのほうへと連れてゆく。毎日ここを書いていて思うことは、当たり前といえばそれまでだけれど、どのような句と向き合っても、私自身の性癖としか言いようのない内向的な感覚に引き込んで読んでしまいがちなことだ。早い話が、明るい句でも、そのどこかに暗さを見つけたくなるのである。見つけないと安心できない性分、すなわち性癖だ。そんな部分をあとで読み返すと、いやな気分になる。どうしてこうなのかと、情けなくなる。こうした性癖は、格好良く言えば近代的な病(やまい)の一つではあろうが、そんなビョーキにかかっても、何も良いことはない。なんとか逃れようと、何度も試みてはいるのだが、なかなかうまくはいかないものだ。掲句についてもそう考えて、最初の解釈は捨て、情景を海水浴場に置き換えてみた。そうすると、かなり明るい感じにはなる。もくもくと湧く入道雲の下に、たくさんの人たちが膝を立てて沖のほうを眺めている。このときに「骨のかたち」にはもはや痩せたイメージはなく、人が人らしく見える特長をクローズアップしているのだと読めるのである。こんな具合に解釈してみると、先の鑑賞とは反対に、可笑しみさえ感じられる句に変身する。私にとってはどちらが正しいかというような問題ではなく、常にこの異った感覚を働かせることこそが大事なのだと、読者諸兄姉のご迷惑も省みず、本日は自戒のための一筆とはあいなり申し候。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0482003

 いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは

                           飯島晴子

語は「肌ぬぎ(肌脱)」で夏。私の子供のころにも、近所にこんなお婆さんがいたような記憶がある。掲句のモデルは作者の曽祖母だというから、明治の女だ。以下は、最近出た飯島晴子エッセイ集『葛の花』(富士見書房)より。「この人は、自分の一人娘が十二人の子供を産んで死んでからも長い間生きていた。毎日晩酌を欠かさず、夏は肌脱で酒を呑んだという。夢多き少女であった母の眼に、その姿が嫌わしいものに映ったのは当然である。母の話に出てくる私の曽祖母は、肌脱で暗い家の中にとぐろを捲いている醜悪な因業婆であった」。ついでに思い出したが、こういうお婆さんは表でも平気で立ち小便をしたものだ。「しかし」と、作者はつづけている。「私につながる遠い過去の光の中に浮び上ってくる肌脱の活力は、私には頼もしいものに思われる。私の子供の頃、田舎で見かける肌脱のお婆さんの垂れたおっぱいは、夏の風物としてごく自然で、決してわるい感じではなかった印象もあるが……」。句は「ゐるからは」で止められていて、だからどうなのかということについては、読者に解釈をゆだねている。エッセイを読むと作者自身の解釈はおのずから定まっていたことが知れるわけだが、読まなくても「肌ぬぎの祖母」の存在を否定的に読む人は少ないだろう。やはり読者も、頼もしく思うはずなのである。ただ、その頼もしさはカラリとしたそれではない。この肌脱がじめじめとした因習を破るといった進取の気性からではなく、あくまでも老いたがゆえに陰湿な因習からも見放されかかってのそれだからである。そのことにひとり気づかぬ婆さんは、まるで永遠に生きつづけるかのように、今宵も二階でとぐろを捲いて酒を呑んでいる。第三者にはともかく、家人には鬱陶しいような活力が夏の家の湿度をいっそう高めている。『八頭』(1980)所収。(清水哲男)


August 0582003

 蝿叩持つておもてへ出てゆけり

                           林 朋子

るいはボケ老人のスケッチかもしれないが、前書も何もないのでそのままに受け取っておきたい。いいなあ、このナンセンスは。書かれている情景の無意味さもいいけれど、こういうことを俳句にできる作者の感性のほうが、もっと素晴らしい。寝ても覚めても「意味」だらけの暑苦しい情報化社会に、すっと涼風が立ったかのようではないか。この句をくだらないと一蹴できる人は、よほどこの世の有意味の毒がまわっている人だろう。あるいは、無意味も意味のうちであることを意味的に肯んじない呑気な人かもしれない。「蝿叩(はえたたき)」を持って「おもて」へ出ていく行為は、そこつなそれではないだろう。上半身はスーツ姿で、電車の中で下はステテコだけだったことに気がついた(某文芸評論家の実話です)というような失敗は、大なり小なり誰にでもあることだ。そうではなくて、掲句の情景はまったく無意味なのだから、笑える行為でもなければいぶかしく感じられる振る舞いでもないわけだ。ただただそういうことなのだからして、読者はそういうことをそういうこととして受け取ればよいのである。受け取って、では、何も感じないのかといえば、むしろ下手に意味のある俳句よりも、よほどこの「蝿叩」人間の行為に手応えを感じることになるはずだ。不思議なようでもあるが、私たちは別に意味に奉仕して生きているわけじゃないから、むしろそれが自然にして当然の感じ方なのだろう。……などと、掲句にぐだぐだ「意味」づけするなどは愚の骨頂だ。さあ諸君、意味を捨て蝿叩を持っておもてへ出よう。とまた、これも意味ある言い草だったか。いかん、いかん。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


August 0682003

 朝の膳に向ふ八月六日晴れ

                           原 朋沖

祷。本日は一冊の本を紹介するにとどめます。この春、共同通信に書いたものです。デニス・ボック『灰の庭』(2003・河出書房新社)。[ 広島で被爆した少女と、ナチから逃れ「マンハッタン計画」に加わった科学者と、そのユダヤ人の妻と。この三人が運命の糸に操られるようにして、原爆投下の五十年後に実際に出会うという奇跡に近い物語だ。/しかし、あり得ない出会いではない。まず読者にこう思わせるところで、小説は半分以上成功している。著者はまだ三十代のカナダ人で、来日経験がないのに、被爆前後の広島や日本の様子を詳しく書いていて、相当に勉強したあとがうかがえる。当時の新聞記事や公式文書などを、徹底的に読み込んだに違いない。読みながら、私は当時の日本や日本人の描写にほとんど違和感はなかった。著者がこれらの「記録」からのみ誘発された想像力の豊かさには、舌を巻く。/出会った三人がどうなるのか。これから読む人のために書かないでおくが、息詰まるような展開があるとだけ言っておきたい。そして、もうひとつ。この物語はあくまでも原爆投下の歴史的な事実を中心に動いていくのだが、本当のテーマはもっと一般的で、時代を越えた普遍性のあるものだと思った。/すなわち、どのような人の人生も、ついに個人的な「記憶」や「想像」によってのみ構築されるのであって、このときに「記録」にはさして意味がない。人は「記録」を生きるわけではないからだ。テーマは、これだろう。原爆は暴力であり悪であり、どんな戦争も必ず悲劇を生む。事実の「記録」は、そのことをはっきりと告げている。が、実際にそのことに関わった人に言わせれば、どこか違うのだ、ずれているのだ。/それが作品化のために膨大な「記録」を読み、「記録」に矛盾せぬよう三人を会わせた末に得た、もどかしくも悲しいテーマであった。登場人物は、しばしば「記録」を前に口ごもる。むろん、著者自身が口ごもったからなのだ ]。句は『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 0782003

 一振りのセンターフライ夏終る

                           八木忠栄

雲は湧き光溢れて、天高く純白の球今日ぞ飛ぶ……。さあ、甲子園だ。昨夏は何年ぶりかで観に出かけたが、今年は大人しくテレビ観戦することにした。掲句は「熱闘甲子園二句」のうちの一句で、もう一句は「夏雲の上に夏雲投手戦」とある。トーナメント方式だから、毎日、試合の数だけのチームが姿を消してゆく。投手戦など接戦の場合はともかく、ワンサイドゲームになったりすると、最終回には作戦も何もなく、次々とベンチに坐っていた控えの選手を登場させる。みんなに、甲子園の打席を味あわせてやろうという監督の温情からだ。句の選手も代打の切り札というのではなく、そうして出してもらった一人だろう。懸命に振ったが、無情にも平凡なセンターフライだった。この「一振り」で彼の夏は終わり、そしてチームの夏も終わったのだ。甲子園の観客は判官びいきが多いから、負けたチームにこそ暖かい拍手が送られる。「来年も、また来いよ」と、そこここから優しい声がかかる。このあたりにも、高校野球ならではの醍醐味がある。ほとんど、それは良質な「詩の味」のようだと、いつも思う。にもかかわらず、専門俳人はなかなか甲子園の句を作らない。何故なのか。そもそも野球の嫌いな人が多いのかどうかは知らないけれど、この「味」を、ただぼんやりと放っておくテはないだろう。もっともっと、甲子園を詠んでほしい。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


August 0882003

 師の芋に服さぬ弟子の南瓜かな

                           平川へき

語は「芋」と「南瓜」で、いずれも秋。ああ言えばこう言う。師の言うことに、ことごとく反抗する弟子である。始末に終えない。私も、高校時代にはそんな気持ちの強い生徒だったと思う。『枕草子』を読む時間に解釈を当てられ、我ながら上手にできたと思ったのだが、今度は文法的な逐語訳を求められた。勉強してないのだから、わかりっこない。が、私は言い張った。「古文でも現代文でも、意味がわかればそれでいいんじゃないですか。第一、清少納言が文法を意識して書いたはずもありませんしね」。まったく、イヤ〜な生徒だ。先生、申し訳ありませんでした。そんなふうだったので、二十代でこの句をはじめて読んだときには、とてもこそばゆい感じがしたのだった。ところで、作者は「ホトトギス」の熱心な投句者だったというが、虚子はこの人に辟易させられていたようだ。というのも、この人は一題二十句以下という投稿規定があるにもかかわらず、いろいろと見え透いた変名を使っては百句以上も投稿してきた。それも「ことにその句は随分の出鱈目で作者自身が慎重な態度で自選をさへすればその中から二十句だけ選んで、他はうつちやつてしまつても差支えないものであると分つた時には、いよいよ選者の煩労を察しない態度を不愉快に思ふのであつた」。その人にして、この句あり。にやりとさせられるではないか。虚子は一度だけ、秋田の句会で平川へきに会っている。「あまり年のいかないやりつ放しの人」と想像していたところ、なんと「端座して儀容を崩さない年長者」なのであった。高浜虚子『進むべき俳句の道』(1959・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 0982003

 百姓の手に手に氷菓滴れり

                           右城暮石

語は「氷菓(ひょうか)」で夏だが、種類はいろいろとある。この場合はアイスクリームといったような上等のものではなく、果汁を箸ほどの棒のまわりに凍結させたアイスキャンデーだろう。いまでも似たようなバー状の氷菓はあるけれど、昔のそれとはかなり違う。昔のそれは、とにかく固かった。ミルク分が少なかったせいだろうが、出来てすぐには歯の立つ代物じゃなかったので、少し溶けるのを待ってから食べたものだ。ただし、溶けはじめると早く、うかうかしていると半分くらいを落としてしまうことにもなる。あんなものでも、食べるのにはそれなりのコツが要ったのである。大人よりも、むろん我ら子供のほうが上手かった。句の情景は、そんな氷菓を「百姓(ひゃくしょう)」たちが食べている。おそらく、自転車で売りにきたのを求めたのだろう。田の草取りなど激しい労働の間の「おやつ」として、一息いれている図だ。ただし、一息いれるといっても、彼らには寄るべき木陰などはない。見渡すかぎりの田圃か畑のあぜ道で、炎天にさらされながらの束の間の休息なのである。だから、彼らの手の氷菓はどんどんと、ぼたぼたと溶けていく。まさに「手に手に氷菓滴れり」なのであって、その滴りの早さが「百姓」という職業の過酷な部分を暗示しているかのようだ。休憩だからといって、お互いに軽口をたたきあうわけでもなく、ただ黙々と氷菓を滴らせながら口に運んでいる……。そしてまだまだ、仰げば日は天に高いのである。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 1082003

 台風来屋根石に死石はなし

                           平畑静塔

の上で秋になったら、早速「秋の季語」の「台風」がやってきた。そんなに律義に暦に義理立てしてくれなくてもいいのに……。被害を受けられた方には、お見舞い申し上げます。写真でしか見たことはないが、昔は地方によっては板葺きの屋根があり、釘などでは留めずに、上に石を並べて置いただけのものだった。その石が「屋根石」だ。一見しただけでは適当に(いい加減に)並べてある感じなのだが、そうではない。少々の風雨などではびくともしないように、極めて物理的に理に適った並べ方なのだ。台風が来たときの板屋根を見ていて、はじめてそのことに気づき、一つも「死石(しにいし)」がないことに作者は舌を巻いている。ところで「屋根石に死石はなし」とは、なんだか格言か諺にでもなりそうな言い方だ。と、つい思ってしまうのは、もともと「死石」が囲碁の用語だからだろう。相手の石に囲まれて死んでいる石、ないしはもはや機能しない石を言うが、私の子供のころには別に囲碁を知らなくても、こうした言葉がよく使われていた。大失敗を表す「ポカ」も囲碁から来ているそうだけれど、将棋からの言葉のほうが多かったような気がする。囲碁よりも将棋が庶民的なゲームだったからだと思う。「王より飛車を大事がり」「桂馬の高飛び歩の餌食」「攻防も歩でのあやまり」「貧乏受けなし」「形を作る」等々、最近ではあまり使われない「成り金」も将棋用語だ。もう十数年前の放送で「桂馬の高上がり」と言ったら、リスナーから「何のことでしょうか」という問い合せがあった。ついでに、もう一つ。野球中継などで「このへんでナカオシ点が欲しいところですね」などと言うアナウンサーがいる。囲碁では「チュウオシ(中押し)」としか言わないのになア。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 1182003

 炎天下亡き友の母歩み来る

                           大串 章

省時の句だ。句集では、この句の前に「母の辺にあり青き嶺も沼も見ゆ」が置かれている。久しぶりの故郷では、山の嶺も沼も昔と変わらぬ風景が広がっていて、母も健在。なんだか子供のころに戻ったようなくつろいだ気持ちが、「母の辺にあり」からうかがえる。暑い真昼時、作者は縁側にでもいるのだろう。懐しく表を見ていると、遠くから人影がぽつんと近づいてきた。「炎天下」を、昔と変わらぬ足取りでゆっくりと歩いてくる。すぐに「亡き友の母」だとわかった。田舎では、めったに住む人の移動はないから、はるかに遠方からでもどこの誰かは判別できるのだ。このときに、作者の心は一瞬複雑に揺れたであろう。歩いてくるのは、友人が生きているのなら、こちらのほうから近寄っていって挨拶をすべき人である。だが、それをしていいものか、どうか……。自分の元気な姿は、かえってその人に亡き息子のことを思い出させて哀しませることになるのではないか。結局、作者はどうしたのだろう。私にも経験があるが、むろんきちんと挨拶はした。が、なるべく元気に映らないように、小さな声で、ほとんど会釈に近い挨拶しかできなかった。その人のまぶしそうな顔が、いまでも目に焼きついている。風景は少しも変わらなくても、住んでいる人の事情は徐々に様々に変化していく。掲句は、まことに静かな語り口でそのことを告げている。『山童記』(1984)所収。(清水哲男)


August 1282003

 西日中電車のどこか掴みて居り

                           石田波郷

語は「西日」で夏。敗戦直後に詠まれた句だ。「電車」は路面電車ではあるまいか。だまりこくっている満員の乗客。そして窓外をのろのろと流れていくのは、一面の焦土と化した東京の光景だ。西日は容赦なくかっと照りつけ、車内にも射し込んでくる。むろん冷房装置などあるわけもないから、頭の中が白くなるような暑さだ。吊り革か、他の部分か。「電車のどこか掴(つか)みて居り」には、そんな暑さから来る空漠感に加えて、明日の生活へのひとかけらの希望もない心の荒廃感が重ね合わされている。とにかく、何かどこかを掴んで生きていかなければ……。戦後の復興は、こうした庶民の文字通りに必死の奮闘によってなされた。そこにはまず、自分さえよければいいというエゴイズムが当然に働いたであろう。食うため生きるためには、他人への迷惑やら裏切りやら、さらには法律もへったくれもあるものかと、がむしゃらだった。誰も彼もが栄養失調で、目ばかりがぎらぎらしていた。掲句の電車の客も、そういう人ばかりである。このことを後の世代は庶民の逞しさと総括したりするけれど、一言で逞しさと言うには、あまりにも哀しすぎるエネルギーではないか。この筆舌に尽くしがたい国民的な辛酸の拠って来たる所以は、言うまでもなく戦争だ。往時のどんなに「逞しい」エゴイストでも、二度と戦争はご免だと骨身に沁みていたはずだ。理屈ではない。骨身が感じていたのである。あれから半世紀余を閲したいま、この国は再び公然と戦争や軍隊を口にしはじめている。情けなくて、涙も出やしない。これからの若い日本人は、それこそ何を掴んで生きてゆくのだろうか。『雨覆』(1948)所収。(清水哲男)


August 1382003

 盆芝居婆の投げたる米袋

                           沢木欣一

語は「盆芝居」で秋。句は、歌舞伎座で行われる「盆狂言」などの立派な舞台ではなく、田舎の小屋掛け芝居だ。どさ回りの一座がやってきて、一夜だけ怪談劇や人情噺を演じて去っていく。私の子供時代には、お盆の時期がいわば村の娯楽週間であり、盆踊りに野外映画会、漫才や浪曲の集い、そして盆芝居と、いろいろなイベントにワクワクしたものだ。芝居の時には夕暮れを待ちかねて早くから出かけ、舞台作りから見た。トラックから背景や大道具小道具が降ろされ、だんだんと舞台がそれらしくなっていく様子を飽かず眺めたものだったが、私など子供にとっては、もう準備それ自体が芝居だったと言ってよい。そしていよいよ芝居がはじまると、掲句のような情景が見られた。いわゆる「おひねり」をにわか贔屓になった役者めがけて投げるわけだが、この「婆」は現金ではなくて小さな「米袋」を投げている。お婆さんにしてみれば、何も投げない芝居見物は淋しかったのだろう。といって自由になる小遣いはないので、家を出る前に一所懸命に考えて、あらかじめ用意してきたのだ。泣けてくるようなシーンである。私の田舎では、入場料は無料だった。芝居がかかると決まると、集落ごとに寄付金を集めて興行料をまかなったからである。小屋の周囲には寄付した家の名前と金額がずらりと張りだされたが、我が家の名前はいつもなかった。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 1482003

 惜別や手花火買ひに子をつれて

                           鈴木花蓑

に対する「惜別(せきべつ)」の情なのかは、明らかにされていない。ただ「惜別」と振りかぶっているからには、間近に辛い別れが待っているのだろう。たとえば、人生の一大転機に際しての退くに退けない別離といったものが感じられる。そんな父親の哀しみを知る由もない子供は、花火を買ってもらえる嬉しさに元気いっぱいだ。せきたてるように「早く早く」と、父親の手を引っ張って歩いているのかもしれない。両者の明暗の対比が、作者の惜別の情をいっそう色濃くしている。手元に句集がないので、作句年代がわからないのが残念だ。略歴によれば、花蓑(はなみの)は、現在の愛知県半田市の生まれ。名古屋地方裁判所に勤めながら俳句グループを作っていたが、1925年(大正十四年)に家族を伴って上京し、高浜虚子の門を敲いた。虚子の膝元で俳句を学びたい一心での転居であつたという。他に特筆すべき転機もないようだから、おそらくはこのときの句ではなかろうか。公務員職をなげうってまで俳句に没入するとは、なんとも凄まじい執念だ。それでなくとも「詩を作るより田を作れ」の時代だった。独身の文学青年ならばまだしも、家族を巻き込んでのことだから、よほどの苦渋の果ての決心だったろう。もしもこの時期の句だとしたら、作者にはその夜の「手花火」の光りはどんなふうに見えただろうか。前途を祝う小さな祝祭の光りというよりも、やはり故郷を捨てることやみずからの才への不安などがないまぜになって、弱々しくも心細い光りに映ったのではなかろうか。後に出た『鈴木花蓑句集』の虚子の序文には「研鑽を重ねて、ホトトギス雑詠欄における立派な作家の一人となり、巻頭をも占めるようになって、一時は花蓑時代ともいふべきものを出現するようになった」とあるそうだ。(清水哲男)


August 1582003

 玉音を理解せし者前に出よ

                           渡辺白泉

書に「函館黒潮部隊分遣隊」とある。いわゆる季語はないが、しかし、この句を無季句に分類するわけにはいかない。「玉音」放送が1945年(昭和二十年)八月十五日正午より放送された歴史的なプログラムであった以上、季節は歴然としている。天皇は「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」云々と文語文を読み上げたのだから、すっと「理解」するには難しかった。加えて当時のラジオはきわめて感度が悪く、多くの人が正直なところよく聞き取れなかったと証言している。なかには、天皇が国民に「もっと頑張れ」と檄を飛ばしたのだと誤解した人さえいたという。句の「理解」が、どんなレベルでのそれを指しているのか不明ではあるけれど、作者の怒りは真っすぐに直属の上官たちに向けられている。すべての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。軍隊ばかりではなく、子供の学校でも、これを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞くが、殴られはしないが死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら、今度は即刻、お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。この句を、放送を理解できなかった上官が、いつもの調子で部下を脅している情景と読み、皮肉たっぶりの句ととらえる人もいる。が、私は採らない。そんなに軽い調子のものではない。句は、怒りにぶるぶると震えている。『渡辺白泉句集』(1975)所収。(清水哲男)


August 1682003

 宙に足上げて堰越ゆ茄子の馬

                           鈴木木鳥

の故郷では盆の十六日の夜に、精霊流しを行った。環境汚染とのからみがあるので、現在もやっているかどうか。盆踊りとセットになっており、踊りが終わるとみんなで川辺に集まり、盆のものを流したものだ。なかには大きな精霊舟を流す家もあり、それらは前もって簡単に転覆しないようテストを繰り返した労作だった。数人の若い衆が腰くらいまで漬かる川に入り、竹竿を持って待機するうちに精霊流しがはじまる。流灯が漂いはじめると、ときどき思いがけないところから若い衆の姿が浮き上がり、なんだか小人国のガリバーみたいだった。彼らの役目は、燈篭や船が近くの岸や堰にひっかかって転覆しないよう竹竿を操ることだ。とくにすぐ下流の堰は難所で、全部が無事に乗り越えられるわけじゃない。掲句は、そんな難所にさしかかった船の「茄子の馬」が、あたかも生きているように前足を「宙」に上げ、懸命に乗り越えていった様子を描いている。思わずも「やった」という声を、小さく発したかもしれない。これでご先祖様も、無事にあの世にお帰りになれるだろう。茄子の馬の躍動感をとらえたところが見事だ。ところで、今夜は京都大文字の送り火だ。夜の八時にいっせいに点火されると、街全体がざわめく感じになる。毎年八月十六日と決まっているが、敗戦の年はどうしたのだろう。ふと、気になった。大きな戦災にあわなかった京都にしても、なにしろ玉音放送の次の日の行事だから、やはりそれどころじゃなかったろうとは思う。調べてみたけれど、わからなかった。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 1782003

 盆過ぎや人立つてゐる水の際

                           桂 信子

盆が終わった。久しぶりに家族みんなが集まり親類縁者が交流しと、盆(盂蘭盆会)は血縁共同体のためのお祭りでもある。そのお祭りも、慌ただしくするうちに四日間で終わってしまう。掲句は、いわば「祭りの果て」の風情を詠んでいて巧みだ。死者の霊魂もあの世に戻り、生者たちもそれぞれの生活の場に帰っていった。作者はそんな祭りの後のすうっと緊張が解けた状態にあるのだが、虚脱の心と言うと大袈裟になるだろう。軽い放心状態とでも言おうか、日常の静かなバランスを取り戻した近辺の道を歩きながら、作者は川か池の辺にひとり立っている人の影を認めている。しかし、その人が何故そこに立っているのかだとか、どこの誰だろうだとかということに意識が向いているのではなく、ただ何も思うことなく視野に収めているのだ。私の好みで情景を勝手に決めるとすると、時は夕暮れであり、立っている人の姿は夕日を浴び、また水の反射光に照り返されて半ばシルエットのように見えている。そして、忍び寄る秋を思わせる風も吹いてきた。またそして、あそこの「水の際(きわ)」に人がいるように、ここにも私という人がいる。このことに何の不思議はなけれども、なお祭りの余韻が残る心には、何故か印象的な光景なのであった。今日あたりは、広い日本のあちこちで、同様な感懐を抱く人がおられるだろう。この種の風情を言葉にすることは、なかなかに難しい。みずからの「意味の奴隷」を解放しなければならないからだ。『草樹』(1986)所収。(清水哲男)


August 1882003

 かの夏の兄が匂わすセメダイン

                           的野 雄

セメダイン
い日の夏休みの思い出だ。夏休みも後半になってくると、宿題の工作の必需品として「セメダイン」が活躍する。船や飛行機の模型を作ったり、筆立てや状差しなどの文具作りにと、この接着剤は欠かせなかった。チューブを絞ってしかるべき場所に塗り、手早く接着するには慣れとコツが必要だった。ぼやぼやしていると乾いて役立たずになるので、小さい子が扱うのはとても無理。学校の工作でも、セメダインを使うのは小学生だと高学年になってからだったと思う。だから、小さかった作者には、セメダインをこともなげに使える「兄」が羨ましかったのだろう。使う当人には手についてなかなか取れないで困るあの刺激臭すら、羨望の対象だったのだ。はるか昔の甘酢っぱくも懐しい夏の日々よ。作者は七十代の後半。この素敵なお兄さんは、ご健在だろうか。ところで、セメダインは接着剤の代名詞のように言われることが多いのだが、ホッチキスなどと同様に商標登録された固有名詞である。セメダインの語源はセメント(cement)と力を表す単位ダイン(dyne)による合成語で「強い接合、接着」という意味だ。しかし一説には創業当時、市場を独占していたイギリス製の接着剤「メンダイン」を市場から「攻め(セメ)出す」という意味でつけられたという話もあるそうだ。命名は1923年(大正十二年)のことだから、「攻め」の意が込められたとしても不思議ではないけれど。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


August 1982003

 炎昼の血砂を吐けり落馬騎手

                           山本光篁子

語は「炎昼(えんちゅう)」で夏。燃えるように暑い真夏の競馬場で、落馬した騎手が地面に叩きつけられた瞬間を押さえた句だ。「血砂」は「けっさ」と発音するのだろう。騎手が吐いたのはむろん「血」であるが、それが地面の「砂」にぱっとかかった様子を描写するのに、作者はあえて「血砂」という造語をもってした。あたかも騎手が「血」と「砂」を同時に吐いたかのようだが、それがこの句の情景をかえって鮮明にしている。飛び散った「血」と「砂」に、瞬間的にピントを正確に合わせた写真のように、落馬の情景は読者の網膜にくっきりと焼き付けられるのだ。そして、このときに現場では起きたであろう観客のどよめきも、委細構わずに走り去っていく他の馬群のとどろきも、句からは何も聞こえてこない。奇妙なほどに、あたりはしいんとしている。ただあるのは、既にしてどす黒くも鮮かな「血砂」に倒れ込んだ騎手の無音のストップモーションだ。状況は違うけれど、読んだ途端に私は、スペイン戦線で被弾した瞬間の兵士を撮ったロバート・キャパの写真に共通するものを感じたのだった。すなわち、非情の世界にはいつだって音などは無いものなのだと……。いずれにしても、このシャッターチャンスを逃さなかった作者の眼力が素晴らしい。競馬に取材した句は数あれど、なかでも出色の一句と言ってよいだろう。俳誌「梟」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)


August 2182003

 退院をして来てをられ秋簾

                           深見けん二

語は「秋簾(あきすだれ)」。涼しくなってくると、簾はしまいこまれる。が、どうかすると、しまい忘れて吊りっぱなしになっていたりする。汚れてみすぼらしい感じを受ける。だから、逆に人目につきやすいとも言え、通りがかりにそんな簾があると、見るともなく、つい目をやってしまう。作者も同様で、通りがかりに近所の家の窓の簾に目をやると、簾越しに人の影が認められた。ご近所とはいっても、平素はそんなに付き合いの無い家だ。親しければ、当然入退院の報せは届けられるからである。つまり、ぼんやりと家族構成(一人暮らしかもしれない)くらいは知っている程度で、ご主人の入院も人づてに聞いていたのだろう。むろん、病状など詳しいことは何も知らない。そう言えば、このところその人の姿も見かけないし、簾を吊った部屋も閉じられていることが多かったような……。そんなわけで、何となく気になっていたところ、いま認めた人の影はまぎれもなくその人のものだった。ああ、早々に退院して来られたのだな。そう思ったら、それこそ何となく気持ちが明るくなったというのである。吊ったままの簾も、この様子だと今日にでもしまわれることだろう。と、ただそれだけのことを詠んでいるのだが、こういう句には文句無しに唸らされてしまう。詠まれているのは、日常的な些事には違いない。だが、その些事をこのようにさりげなく詠むには、虚子直門の作者には失礼な言い方になるけれど、相当な年月をかけた修練が必要だ。たとえば修練を積んだ剣士かどうかがさりげない立ち姿でわかるように、掲句もまた、さりげなくも腰がぴしりと決まっているのがわかる。『深見けん二句集』(1993)所収。(清水哲男)


August 2282003

 樹々の青重ねて秋もはじめなり

                           鞠絵由布子

の六月に余白句会50回記念パーティが開かれ、そのときのことを詩人の財部鳥子が「詩人の俳句」と題して書いている(「俳句研究」2003年9月号)。最初に参加者による大句会が行われたのだが、会場の様子はこうだった。「俳句が読み上げられると作者の名前が明かされる。その前にみんなの下馬評、『これは詩人の俳句だな』『どうも詩人くさいな』笑いも混じる。下手の横好きという含みか。しかし案外に当たるのだった」。財部さんによれば、当たるのは詩人の俳句には「言葉の並びに自由と無理が入り込む」からなのである。私も、常々そう思ってきた。図星である。だから、たとえば掲句を詩人の俳句と感じる人は皆無だろう。どこから見ても、俳人の作品だ。夏から秋へとさしかかる季節感を、まだ青い樹々の葉の重なり具合を通して微妙に見出している。よくよく見ると盛夏の青ではなく、かといって紅葉しはじめている色でもない。その微妙な色彩をとらえて、すなわち「秋のはじめなり」と断定したところに俳句的な手柄がある。これが詩人だと、たとえ微妙な変化に気づいたとしても、こうは詠まない。いや、詠めない。掲句のように書くことに、どうしても不安感を抱いてしまうからだ。このままではどこか頼りなく、もう一押し念を入れたくなる。でも、もう一押しすると、たぶん樹々の青の微妙な色合いはどこかに押し込められてしまい、掲句の清新な感覚は衰えてしまうだろう。というようなことは、むろん詩人にだってわかっているのだ。わかっちゃいるけど止まらないのである。大雑把に言えば、詩は説得し俳句は説得しない。この差は大きい。それにしても上手な句です。脱帽です。『白い時間』(2003)所収。(清水哲男)


August 2382003

 秋めくや一つ出てゐる貸ボート

                           高橋悦男

語は「秋めく」。このところの東京は残暑がぶりかえしてきて蒸し暑いが、日の光りはさすがにもう秋である。八月も終わりのころの、そんな日の暑い昼下りの情景だろう。夏の盛りには家族連れなどで大いににぎわった貸ボート場も、いまは閑散として、ただ一艘が出ているだけだ。この句が上手いなと思うのは、主観性の強い「秋めく」という表現に、眼前の一情景をそのまま写生することによって明晰な客観性を与えているところだ。間もなく秋の観光シーズンになれば、またこのボート場にも活気が戻ってくるのである。すなわち、夏の盛りと秋のそれとの中間の、それもほんの短い間の季節感をさらりと一筆書きに仕留めたような巧みさ。だから作者は、この情景が淋しいとか心に沁みるとかと言っているのではない。あえて言うならば、情景の客観写生が「秋めく」という主観的な言葉を引き出してくれたことで、作者は句になったと納得している。実作者の人ならば、このあたりの気持ちの良さは理解できるだろう。これまでに「秋めく」の句はたくさん作られてきたが、主観性のかちすぎた句が多い。といって、私には主観性を否定する気など毛頭ないのだけれど、しかし、このように客観が主観を引っ張り出す俳句の様式には、舌を巻かざるを得ないのである。地味な句ではある。が、俳句の様式に関心のある人には見過ごせない句だと思った。もう少し考えてみたい。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 2482003

 雀蛤と化して食はれけるかも

                           櫂未知子

つけたっ、珍季語句。このところいささか理屈っぽくなっていたので、理屈抜きで楽しめる句を探していたら、掲句にぶつかった。季語は「雀蛤と化す(なる)」で秋。もはやほとんどの歳時記から姿を消している季語であり、ついぞ実作を見かけたこともない。手元の辞書に、こうある。「雀海中(かいちゅう)[=海・大水(たいすい)・水]に入(い)って蛤(はまぐり)となる(「国語‐晋語九」による)。物がよく変化することのたとえ。古くから中国で信じられていた俗信で、雀が晩秋に海辺に群れて騒ぐところから、蛤になるものと考えたものという」。日常的にはあくまでも「たとえ」として諺的に使われてきた言葉なのだが、これを作者がいわば「実話」として扱ったところに、楽しさが出た。あたら蛤なんぞにならなければ、食われることもなかったろうに……。ほんとに、そうだなあ。たまには、こうやって俳句を遊んでみるのも精神衛生には良いですね。ちなみに、この季語で夏目漱石が「蛤とならざるをいたみ菊の露」と詠んでいる。ついに蛤になるに至らず死んだ雀を悼んだ句だ。死骸を白菊の根元に埋めてやったという。しかし、これも「たとえ」ではなく「実話」としての扱いである。現代俳人では、たとえば加藤静夫に「木登りの木も減り雀蛤に」があるが、これまた「木」と「雀」がイメージ的に結びついていることから、どちらかと言うとやはり「実話」色が濃い。どなたか、諺的な「たとえ」の意味でチャレンジしてみてください。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


August 2582003

 三伏の肉のかたまり船へ運ぶ

                           吉田汀史

語は「三伏(さんぷく)」で夏。「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意。夏の極暑の期間。夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。時候の挨拶で、極暑の候をいう[広辞苑第五版]。暦的にはとっくに過ぎてしまったが、このところの暑さはまさに三伏の候を思わせる。やっと梅雨が明け、本格的な夏がやってきたというのが実感だ。東京の暑さも昨日が今年最高で、蝉時雨なおしきりなり。そんな暑さのなか、白昼「肉のかたまり」が「船」へと運ばれている。どんな肉なのか、どのくらいの大きさのかたまりなのか。あるいは、どんな船なのか。肉はたぶん船内での料理のために使われるのであろうが、一切の具体性は不明だけれど、掲句には猛暑に拮抗する人間のエネルギーが感じられる。情景の細部を省略し、一掴みに「肉のかたまり」とだけ言ったところに、言葉のエネルギーも噴き出している。真夏の太陽の直射を受けて立とうという気概があり、たとえ激しい労働の一情景だとしても、受けて立つ健康な肉体の喜びまでが伝わってくるようだ。しかも「船」には前途がある。港のこの活力は、ここだけで終わるのではない。未来につづくのだ。団扇をバタバタやりながら掲句を読んで、久しく忘れていた酷暑のなかでの爽快感を思い出した。若い日の夏を思い出して、とても気分が良くなった。こういう句は、作者もよほど体調がよくないと書けないだろうな。そんなことも、ふっと思ったことでした。俳誌「航標」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


August 2682003

 八月のある日がらんと山の駅

                           勝又星津女

山客であれほどにぎやかだった「山の駅」が、「ある日」突然嘘のように「がらんと」静かになる。ちょうど、いまごろの時期だろう。作者は地元の人のようだから、例年のことで慣れてはいるものの、やはり一抹の寂寥感がわいてくる。「がらんと」は駅の様子であるとともに、作者の心のそれでもある。「八月」も間もなく終わり、学校ではもうすぐ二学期。熱気の引いたこの山里の人々に、いつもの地味な日常が戻ってくるのだ。そして、これからの山の季節の移ろいは早い。さりげないスケッチ句だが、なかなかの余韻を残す佳句である。あやかって、本日の私の鑑賞も、以上で「がらんと」終わることにいたします。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 2782003

 大きな火星へ汚れ童子等焚火上ぐ

                           川口重美

星最接近の日。六万年ぶりという。最接近とは言っても、地球からの距離は5千5百万キロメートルほどだから、上の看板みたいに大きく見えるわけじゃない。昨夜のラジオで国立天文台の人が、肉眼では2百メートル先の百円玉くらいにしか見えないと言っていた。今夜よりも少し遠ざかるが、大気が澄み上る時間が早くなる九月か十月が見ごろとも……。さて、火星といえば何と言っても萩原朔太郎の「人間に火星近づく暑さかな」が秀抜だが、この句については既に触れた。他にないかと、やっと探し当てたのが掲句である。「焚火」は冬の季語だから、残念なことに季節外れだ。戦後三年目(1948年)の作句。「汚れ童子等」とは、おそらく戦災孤児のことだろう。寒いので、そこらへんの燃えそうなものを持ってきては、委細構わずに燃やしている。生き伸びるための焚火である。中村草田男の「浮浪児昼寝す『なんでもねえやい知らねえやい』」に通う情景だ。このときに「大きな火星」とは、何だろうか。むろん実景としては常よりも少しは大きな火星が見えているのだろうが、句の勢いからすると、むしろ巨大に見えているという感じがする。その巨大な火星にむけて、子供らのやり場の無い鬱屈した怒りが、炎となって焚き上げられている。もはや、こんな地球は頼むに足らずと言わんばかりだ。作句年代からすると、この火星はソビエト連邦のシンボルであった赤い星に重ね合わされているのかもしれない。当時盛んに歌われた歌の一節に「赤き星の下に眠る我が山河広き野辺、世界に類無き国、麗し明るき国、我らが母なるロシア、子供らは育ちゆく」という文句があった。藤野房彦サイト「私の書斎」所載。(清水哲男)


August 2882003

 鎌倉の月高まりぬいざさらば

                           阿波野青畝

語は「月」で秋。青畝(せいほ)は生涯関西に住んだ人だから、鎌倉に遊んだときの句だろう。鎌倉には師の虚子がおり、青畝は高弟であった。素十、誓子、秋桜子とともに「ホトトギスの4s」と称揚された時代もある。句はおそらく高齢の虚子との惜別の情やみがたく、別れの前夜に詠まれたものだと思う。折しも盆のような大きな月が鎌倉の空に上ってきて、見上げているうちに去りがたい思いはいよいよ募ってくるのだが、しかしどうしても明日は帰らなければならない。気持ちを取り直して「いざさらば」と言い切った心情が、切なくも美しい。なんだかまるで恋の句のようだけれど、男同士の師弟関係でも、こういう気持ちは起きる。たとえば瀧春一に、ずばり「かなかなや師弟の道も恋に似る」があって、師は秋桜子を指している。なお、掲句を収めた句集は虚子の没後に出されているが、追悼句ではない。以下余談だが、この句を歴史物と読んでも面白い。鎌倉といえば幕府を開いた頼朝が想起され、頼朝といえば義経だ。平家追討に数々の武勲をたてた義経が、勇躍鎌倉に入ろうとして指呼の間とも言える腰越で足止めをくった話は有名である。一月ほど腰越にとどまった義経だったが、頼朝の不信感を拭うにはいたらず、ついに京に引き上げざるを得なかった。この間に大江広元に宛てたとされる書状「義経腰越状」に曰く。「義経犯す無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。(中略)骨肉同胞の儀既に空しきに似たり」。そこで義経になり代わっての一句というわけだが、どう考えても青畝の句柄には合わない。『紅葉の賀』(1962)所収。(清水哲男)


August 2982003

 新豆腐切る朝風も揃えて切る

                           村上友子

語は「新豆腐」。新しく収穫した大豆でつくった豆腐のことで、秋季。朝食の仕度を詠んだのかもしれないが、「切る」を強調しているところからすると、豆腐屋の仕事風景と読むほうがしっくりくる。学生時代の宇治の下宿の真向かいに、小さな豆腐屋があった。早朝から店内には湯気が濛々と立ちこめ、夏場は表戸を外して仕事をしていたが、そんなことではほとんど涼しくはなかったろう。大変な仕事だと思っていた。だから、やがて秋風が立ち初めると、少しは人心地がついたのではあるまいか。いつでも商品の豆腐はきれいに切らなければならないが、ようやく涼しい朝風が吹いてきて気分も楽になったので、今朝の豆腐はとくに念入りに切り揃えたと言うのだろう。おまけに、新豆腐だ。朝の風もいっしょに切り揃えるという措辞が、いかにも爽やかに響く。このときの豆腐は、絹ごしよりも固めの木綿豆腐のほうが望ましい。固めだと角もすっきり仕上がるので、それだけ涼味が感じられるからだ。ところで、固めの豆腐といえば佐世保港外の黒島の豆腐が有名だ。最近、その製法をNHKテレビで観た。大豆を手回しの石臼で引いて豆乳を作り、普通ならば煮立てるときにニガリを入れるわけだが、黒島では代わりに海水を加えていた。したがって、出来上がりの味はやや塩辛い。そうして製した豆腐は、映像で見るだけでも、はっきりと固いとわかる。島では正月や祝い事の煮しめに使うそうだから、ちょっとやそっとでは煮崩れたりしないのだ。機会があれば、固め豆腐ファンとしては食べてみたいと思った。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 3082003

 帰郷われに拳をあづけ芋掘る父

                           栗林千津

語は「芋」で秋。俳句では馬鈴薯や甘藷ではなく、里芋のことを言う。句の眼目は「拳あづけて」にあり、実際に拳をあずけて(手をつないで)芋を掘れるわけはないから、「拳」は比喩だ。子供のころにいたずらをしたときなど、すぐに飛んできた父の拳骨。本当に恐かった拳骨。いまにして思えば、それは父の若さの象徴であり、一家を支える活力の源のようなものであった。その若かったときの力をいま、老いた父は作者にあずけるようにして、うずくまり黙々と芋を掘っている。たぶん夕食にでも、娘に食べさせるためなのだろう。久しぶりに帰郷してなんとなく若やいだ気分になっていた作者は、そんな父の姿を認めることで、経てきた歳月の長さを思い知らされているのだ。情け容赦なく、現実の時間は過ぎてゆく……。同じ作者の同じ句集に「鬼やんま父の脾腹を食はんとす」もある。まことに「鬼やんま」は、人に突っかかるように凄いスピードで飛んでくる。父をめがけるようにして飛んできた瞬間に、作者は「あっ、食われる」と直感的に反応したのだった。「脾腹(ひばら)」はわき腹のこと。わき腹が無防備に見えるということもまた、その人の老いをよく示しているだろう。若ければ、わき腹など造作なくガードできるからだ。この句は鬼やんまの獰猛とも言える生態を借りながら、実は老いたる父の弱ってきた様子を一えぐりに提出している。『湖心』(1993)所収。(清水哲男)


August 3182003

 法師蝉煮炊といふも二人かな

                           富安風生

語は「法師蝉」で秋。我が家の近所でも、ようやく法師蝉が鳴くようになった。まだ油蝉のほうが優勢だが、短かった夏もそろそろおしまいだ。子供たちの夏休みも今日で終わり、明日からは新学期。これからは、日ごとに秋色が濃くなってゆく。ちょうど、そんな時期の感慨を詠んだ句だ。夏の盛りには独立した子供らが孫を連れて遊びに来たりして、「煮炊(にたき)」する妻は大忙しだった。みんなが帰ってしまったからといって、もとより煮炊の仕事が途切れるわけではないのだけれど、気がついてみたら、いつものように二人分の煮炊ですむようになっていた。毎年のことながら、法師蝉の鳴くころにはいささかの感傷を覚えるのである。揚句を印象深くしているのは、「煮炊」という言葉の巧みな 使い方だ。多くの人の感覚では、煮炊と聞くと、料理の素材の分量として「二人」分くらいの少量は思い浮かばないだろう。少なくとも、三、四人分か、もっと大量を想像する。作者もそのようなイメージで使っていて、だから「煮炊といふも」とことわってあり、それを「二人きり」と一息に縮小したことで、味が出た。すなわち、句には何も書かれてはいなくても、読者は作者宅の真夏のにぎわいを想像することができる仕掛けなのだ。俳句という装置でなければ、とてもこのような味は出ない。外国語に翻訳するとしても、外国人にも理解できる世界だとは思うが、ポエジーの質を落とさずに短く言い換えるのは不可能だろう。あくまでも、俳句でしか表現できない味なのである。『俳句歳時記・秋の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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