この気温だと、さすがに暑中見舞いの挨拶ははばかられる。来月八日は立秋ですぞ。




2003ソスN7ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2772003

 土用鰻劉寒吉の歌と待つ

                           八木林之助

日は土用丑の日。夏バテ防止に鰻(うなぎ)を食べる風習かある。いつもの夏なら鰻屋さん大繁盛の日だが、梅雨寒の東京あたりではどうだろうか。作者は、しかるべき店で注文し、料理が運ばれてくるのを待っている。箸袋にか、あるいは店内に飾られている色紙にか、劉寒吉(りゅう・かんきち)の歌が書かれているのだから、店のある場所は九州の鰻の名産地・柳川だろう。天然鰻で昔から有名なのは、利根川産の「下総(しもうさ)くだり」、手賀沼産の「沼くだり」、そして柳川産の「あお」と言われる。もっとも、最近はどこへ行っても、まず天然鰻にお目にかかることはないけれど……。現在の柳川では年間50万匹以上の鰻が食べられるため、河畔に鰻の供養碑が建てられており、その碑に刻まれているのが九州の著名作家・劉寒吉直筆の次の歌だ。「筑後路の旅を思えば水の里や柳川うなぎのことに恋しき」。供養の意味などどこにもない歌だし、なぜ供養のための碑に刻まれたのかは不可解だけれど、とりあえず他に適当な柳川の鰻を詠んだ歌がなかったので、これにしちゃったのだろう。むしろ句にある店のように、鰻の宣伝に使うほうが正しい使い方だ(笑)。こんな歌を読んで待っていると、どんなに美味い料理が出てくるのかと期待に胸が弾む。ちゃんとした店になればなるほど、出てくるまでに時間がかかるので、なおさらに歌の食欲助長効果は抜群と言わざるを得ない。ちょっとわくわくするような気分で待っている感じが、よく出ている。今日も柳川のどこかの店では、こんなふうにして待つ人がいるのだろう。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


July 2672003

 桔梗や男に下野の処世あり

                           大石悦子

語は「桔梗(ききょう・きちこう)」。秋の七草に入っているので秋季に分類されてきたが、実際には夏の花だろう。関東地方などでは、もうとっくに散ってしまったのではなかろうか。歯切れよく咲くという感じ。凛然として鮮烈に花ひらく。一見そんな花の様子にも似て、世の「男」は潔く「下野(げや)」していくようには見えるが、実はその裏側で、ちゃっかりと「処世」の計算を働かせてのことなのだと手厳しい。官僚の天下りなどは典型だろう。後進に道をゆずると言えば格好はよろしいが、なあに、早い話が退職金をたんまりせしめて今よりも楽な仕事に就き、できるだけ遊んで暮らそうという魂胆なのだ。官僚にかぎらず、定年退職するサラリーマンでも、職場での地位が高い連中に多く見られる。「ま、当分はオンボロ子会社に籍だけ置いて……」などと、悠長にして姑息なことを言う。オンボロだろうが何だろうが、働きたくても働き口のない人で溢れている現代でも、一方ではこうした「処世」術のまかりとおる連中がいるのだ。……というようなことをよく知ってはいても、実は男はあまりそのようなことについて指摘したり指弾することを好まない。少なくとも、私はそうである。この野郎とは思っても、そんな連中に何かを言い立てれば言い立てるほど、自分が惨めになる気がするからだ。だから掲句を見つけたときには「よくぞ言って下さいました」と一も二もなく賛同はしたのだったが、ここに書くまでには相当の時間を要した。おのれのひがみ根性があからさまになるようで、ずうっと躊躇していた。もはや世間的な対面なんぞはとっくに捨てたはずなのに、いつまでも駄目なんだなあ。それこそ「桔梗」のように凛としてみたいよ。『百花』(1997)所収。(清水哲男)


July 2572003

 西からのドミノ倒しに夏怒濤

                           島本知子

語は「夏(怒)濤」だが、当サイトでは「夏の海」に分類しておく。打ち寄せる大波の高まっては崩れていく様子を、「ドミノ倒しに」と言ったところが新鮮だ。テレビでときどきドミノ倒しの模様を見かけるが、なるほど、あの行列の高まりやうねりは波のようである。同じような言い方で「将棋倒し」があるけれど、波に「将棋倒し」は似つかわしくない。ドミノ倒しが前進していくエネルギーを感じさせるのに対して、こちらは共倒れと言うか、挫折していくイメージの濃い言葉だからだ。「倒」の字が、ドミノではアクティブに、将棋では逆の意味で使われている。だから倒れる現象は同じでも、掲句では「将棋倒し」とは言えないのである。そして、この二つの相反する「倒」のイメージの差は、元はといえば、それぞれのゲームの本来の遊び方の差から来ているのだと愚考する。将棋はもちろんだが、ドミノもまた、並べて倒す遊びのために開発されたものじゃない。両者ともが知的なテーブルゲームであり、それぞれの駒はそれぞれのゲームのなかで、一つ一つに意味や価値が付与されている。決して同質同価値ではない。したがって、それぞれの駒にしてみれば、同質同価値として並べて倒されるなどは不本意だろう。それはともかく、両者のゲームの大きな違いは、ドミノがお互いの駒をつないでいくことに力点があるのに対して、将棋は相手の駒の関係を切断するところに勝負のポイントがある点だ。ドミノはつなげる、将棋は切る。この本質的なゲームとしての差が、同質同価値に並べて倒すときのイメージにも関わってくるという点が、実は回り回って掲句の解釈にも「つながって」くるのである。「俳句」(2003年8月号)所載。(清水哲男)




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