どこまでつづく梅雨空ぞ。明後日の土用の丑の日を当て込んだ鰻の宣伝が嘘っぽい。




2003ソスN7ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2572003

 西からのドミノ倒しに夏怒濤

                           島本知子

語は「夏(怒)濤」だが、当サイトでは「夏の海」に分類しておく。打ち寄せる大波の高まっては崩れていく様子を、「ドミノ倒しに」と言ったところが新鮮だ。テレビでときどきドミノ倒しの模様を見かけるが、なるほど、あの行列の高まりやうねりは波のようである。同じような言い方で「将棋倒し」があるけれど、波に「将棋倒し」は似つかわしくない。ドミノ倒しが前進していくエネルギーを感じさせるのに対して、こちらは共倒れと言うか、挫折していくイメージの濃い言葉だからだ。「倒」の字が、ドミノではアクティブに、将棋では逆の意味で使われている。だから倒れる現象は同じでも、掲句では「将棋倒し」とは言えないのである。そして、この二つの相反する「倒」のイメージの差は、元はといえば、それぞれのゲームの本来の遊び方の差から来ているのだと愚考する。将棋はもちろんだが、ドミノもまた、並べて倒す遊びのために開発されたものじゃない。両者ともが知的なテーブルゲームであり、それぞれの駒はそれぞれのゲームのなかで、一つ一つに意味や価値が付与されている。決して同質同価値ではない。したがって、それぞれの駒にしてみれば、同質同価値として並べて倒されるなどは不本意だろう。それはともかく、両者のゲームの大きな違いは、ドミノがお互いの駒をつないでいくことに力点があるのに対して、将棋は相手の駒の関係を切断するところに勝負のポイントがある点だ。ドミノはつなげる、将棋は切る。この本質的なゲームとしての差が、同質同価値に並べて倒すときのイメージにも関わってくるという点が、実は回り回って掲句の解釈にも「つながって」くるのである。「俳句」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


July 2472003

 葛桜雨つよくなるばかりかな

                           三宅応人

葛桜
語は「葛桜(くずざくら)」で夏。当歳時記では「葛饅頭」の項目に入れておく。和菓子にうといので間違っているかもしれないが、一般的に葛饅頭を桜の葉で包んだものを葛桜と言うようだ。昔は東京名物だったという。「葛ざくら東京に帰り来しと思ふ」(小坂順子)。掲句の作者は小旅行の途中でもあろうか。折悪しくも雨模様の昼下り。一休みしようと入った店で、季節感の豊かな葛桜を注文したのだが、表を見るとだんだん雨は「つよくなるばかり」である。葛桜は見た目にも涼味を誘う菓子だから、すっきり晴れていてこその味なのに、降りこめられての葛桜はいわばミスマッチ。いっそう情けないような気分になって、降りしきる雨を恨めしそうに見やっている。さて、この店を出てからどうしようか……。私は雨男なので、似たようなことはしょっちゅう体験してきた。もはや、情けないとも感じなくなってしまった(苦笑)。今年の梅雨は長い。会社の暑中休暇を早めに取ったサラリーマンのなかには、こんなメにあっている人も多いのではなかろうか。逆に言えば、葛桜などを商っている人たちはもちろん、夏物商戦をあてこんでいた業者は大変である。東京の週間天気予報を見ると、晴れマークは来週の月曜日以降にしか出ていない。梅雨が明けると言われる雷も、鳴る気配すらない。やれやれ、である。なお、写真は「磯子風月堂」のHPより借用しました。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 2372003

 美しい数式になるみずすまし

                           中山美樹

句で「みずすまし」と言えば、たいがいは「水馬」と書く「あめんぼう」のことだ。水面を細長い六本の脚で滑走する。が、生物学的分類では「鼓虫」と書く「まいまい」のこと。こちらは、水面に輪を描いて動き回る小さな黒い紡錘形の甲虫だ。ややこしいが、関西では今でも水馬を「みずすまし」と呼んでいるはずである。すなわち、昔の俳句の中心は京都だったので、歳時記的にも関西での呼称が優先されて残っているというわけだ。掲句の場合も、作者が「数式」に見えるというのだから、俳句で言ってきたほうの虫のことだろう。動きによっては、ルート記号やら微積分記号やら何やらに見えそうだからだ。この虫の動きは、じいっと流れに身をゆだねているかと思うと、突然ぱぱっと活発な動きを示す。句の趣旨に添って言うと、何か咄嗟に難しい計算をしているようでもある。たしかに数学に関心のある人だったら、一連の動きが「美しい数式」を生みだすように見えるだろう。見立てとは面白いもので、見立てた結果はその人の興味や関心のありようを、逆に照らし出すことにもなる。作者の数学的関心がどの程度のものかはわからないにしても、水馬の動きに数式をイメージする感覚はユニークと言わねばならない。先日、近々単行本になる『博士の愛した数式』を書いた小川洋子さんと対談した。この小説の中心素材も、まさに美しい数式である。実生活には何の役にも立たないはずの数式が、実は現実の人の心を最も深く結びつけるツールとなる展開は見事だ。私は下手の横好きでしかないけれど、俳句にもこうして数式が出てきたことを嬉しく思う。ついでに、その小説に出てくる数式ならぬ「数」の話を一つだけ。自然数nの、nを除くすべての約数の和がnに等しいとき、そのnを「完全数」という。例えば、6(=1+2+3)のように。そして、6の次の完全数は28(=1+2+4+7+14)である。この「28」こそが、博士の愛してやまなかった阪神・江夏豊投手の背番号だったという小川さんの設定は面白い。完全数は無限にあるそうだが、28の次は何だろう。時間に余裕のある方は探してみてください。『おいで! 凩』(2003)所収。(清水哲男)




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