世界水泳シンクロの中継司会者。ありゃ、何だ。メダルの連呼には哀しくさえなる。




2003ソスN7ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2072003

 扇子の香女掏摸師の指づかひ

                           佐山哲郎

ろん「掏摸(すり)師」は立派な犯罪者だ。ただ空巣や強盗とは違って、昔から変な人気がある。というのも、常人にはとても真似のできない指技を、彼らが習得しているからだろう。フィクションの世界では、美貌の女掏摸師がよく活躍する。時代物では、擦れ違った瞬間に目にもとまらぬ早業で掏摸取った懐中物を手に、艶然と微笑する姿が定番でもある。犯罪者ではあるけれど、正義の味方の味方だったりする役どころはフィクションならではだが、これもやはり芸術的な指技を惜しんでの作者の人情からではあるまいか。掲句の女掏摸師ももとよりフィクションだけれど、そんな掏摸師に「扇子」を使わせたところが面白い。なるほど手練の掏摸師ともなると、扇子のあおぎようにだって微妙な指技が働くにちがいない。したがって、送られてくる「扇子の香」にもまた普通とは違うものがあるだろう。この句は、かつての都電の情景を系統別に詠んだ「都電百停」のなかの一句(33系統 信濃町)だから、いわば現代劇の一シーンだ。私の若い頃、ロベール・ブレッソン監督の映画『掏摸』(1960)を見た後の何日かは、街にいると、誰も彼もが掏摸に思えて仕方がなかったようなことがあった。その映画には、掏摸の手口が具体的に生々しく公開されていたので、余計にそんな気分にならされたと思うのだが、作者のこの発想も、何らかのフィクションに触発されてのことかもしれない。作者は単に、走る都電の中で扇子を使う女性客を見かけただけだ。それをあろうことか掏摸師に見立てたせいで、おそらくは俳句にはじめての女掏摸師が登場することになった。そんな自分だけの想像のなかの相手に、ちょっと身構えているようなニュアンスもあって可笑しい。でも、これからの行楽シーズン、本物の掏摸にはご用心を。我が家の短い歴史のなかでも、これまでに二度、芸術的な指技の餌食になっている。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


July 1972003

 さかづきを置きぬ冷夏かも知れず

                           星野麥丘人

おかたの地方では、今日から子供たちの夏休みがはじまる。しかし、この夏の東京の感覚からすると、とても「暑中休暇」という気はしない。雨模様の日がなおしばらくはつづきそうだし、昼間でも気温はそんなに高くはならないからだ。気象庁の三ヵ月予報では、七月の後半には晴れる日が多く、気温も高いということになっていた。でも、どうかすると窓を開けていると寒い日さえある。ふっと「冷夏」かもしれないと思ったときに、嘘みたいに偶然この句に出会った。機嫌よく飲んでいたのに、それこそふっと「冷夏かも知れぬ」と思った途端に、不安な胸騒ぎを覚えて「さかづき」を置いたというのである。このときの作者の仕事は何だったのかは知らないが、冷夏によって被害をこうむる仕事は多い。最も直接的な打撃を受ける農業関係者はもとより、被服だとか電気製品だとか飲料水だとかの夏物を売る商売の人たち、はたまた観光地で働く人々など、そろそろこの天候には不安の色を隠せないころではあるまいか。消費者だとて、何年か前の米の不作でタイ米を買いに走ったことを忘れてはいないはずだ。だから、持った「さかづき」を置くという行為は、決してオーバーな仕草ではないし、句もまた過剰な表現ではないのである。私ひとりの杞憂に終わってくれればよいのだが……。なお、「冷夏」を独立した季語として扱っている歳時記は少ない。当サイトがベースにしている角川版にもないので、便宜上「夏」の項目のなかに入れておくことにする。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 1872003

 灼けし地にまる書いてあり中に佇つ

                           後藤綾子

語は「灼けし(灼く)」で夏。「砂灼ける」「風灼ける」などとも使う。真昼の炎天下、まったく人通りのない道を通りかかることがある。句の場合は、住宅街の一画だ。道には、まだ涼しい時間に遊んでいた子供が書いたのだろう。石けり遊びか何かの「まる」がぽつんと残されていた。その「中に佇(た)」ってみましたというだけの句だけれど、猛暑の白昼にある作者の精神的な空漠感がよく出ている。子供ならちょっとケンケンの仕草でもしそうな場面だが、大人である作者はただ佇っているのだ。「立つ」よりも「佇つ」のほうには、やや時間的に長いというニュアンスがあり、それが一種の空漠感を連想させる。最初は茶目っ気も手伝って、懐しい「まる」の中に立ってみようとした。が、実際に立ってみると、しばし佇立することになってしまった。と言っても、べつに「まる」の中でおもむろに来し方を回想したり、往時茫々の思いにとらわれたわけではないだろう。第一、暑くてそれどころじゃない。そういうことではなくて、微笑して見過ごしてしまえばそれですんだものを、わざわざ中に入ってみたばかりに、意外な精神状態の変化が起きたということだと思う。ナンセンスと言えばナンセンスな行為によって、ふっと人は思ってもみなかった別世界に連れていかれることがある。暑さも暑し、「まる」の中の作者の心はほとんど真っ白だ。いったいあれは何だったのかと、この句を作りながらも、なお作者は訝っているかのようである。『一痕』(1995)所収。(清水哲男)




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