負けて泣く球児たち。あんなふうにオンオンと泣けるのは今だけだ。でも羨ましい。




2003ソスN7ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1372003

 百日紅きのうのことは存じませぬ

                           新田美智子

語は「百日紅(さるすべり)」で夏。「昨日のことは存じませぬ」とはまた、ずいぶんとシレッとした物言いであることよ。しかし、言われてみれば納得である。これからの暑い季節を物ともせずに咲き通すには、これくらいの図太さがなければ、やっていられないだろう。次から次へと新しい花を咲かせていくのだから、昨日のことなどにうじうじと拘泥していたのでは身が持たない。そりゃ、ときには失敗もあれば戸惑いもあるさ。でも、それらをいちいち反省したり内省したりしている余裕などは無いのである。常に、目の前にはやるべきことが待機している。それをやらなきゃ、身の破滅。人間で言えば、働き盛りの年代に通じる物言いが「昨日のことは存じませぬ」だ。私の感受性に従えば、百日紅は幹の独特な形状も手伝って、たとえ樹齢は若くても、あまり若さを感じさせない樹木の一つである。実際、百日紅を見て、青春性を感じる人はあまりいないのではあるまいか。同じ真夏の花でも、夾竹桃の元気さには青春の気があるというのに。そんな中年パワーに溢れた百日紅も、秋口の冷たい風が吹きはじめるころには、さすがに勢いが衰えてくる。それでも懸命にてっぺんの方にいくつかの花をつけつづける姿には、かつての猛烈サラリーマンの悲哀感が漂うようで、見ていて辛くなる。いや、そうなると、振り仰ぐ人もほとんどいなくなってしまうので、そのことも含めての哀れさが募るのである。百日紅の句は数あれど、衰えてきた姿を詠んだ句は見たことがない。掲句の作者は二十代だそうだが、秋の百日紅がいったいどんな台詞を吐くのか、十年後くらいにぜひとも「つづき」を書いてほしい。俳誌「里」(第3号・2003)所収。(清水哲男)


July 1272003

 かはほりや夕飯すんでしまひけり

                           清水基吉

語は「かはほり」で夏。蚊を欲するから「かはほり」と言ったようだ。発音が転じて「蝙蝠(こうもり)」に。私の子供のころは、夕方になると盛んに飛んでいた。夏の日は長い。それぞれの事情に合わせて、各家庭の夕食の時間はほぼ一定しているから、作者の家のように「夕飯」がすんでも、夏場にはまだ明るいということが起きる。私にも経験があるけれど、この明るさにはまことに中途半端な気持ちにさせられてしまう。夕飯が終われば、一日が終わったも同然だ。しかし、表はなお明るくて、終わったという気になることができない。まことに頼りなく所在なく、ぼんやりと「かはほり」の飛び交う様子でも眺めているしかないような時間帯となる。この不思議なからっぽの時間帯のありようを、句は誰にも見えるような空間に託して、さりげなく述べている。見事なものだ。テキストのみからの解釈ではこれでよいと思うが、句集の構成からすると、この句が敗戦直後に作られていることがわかる。となれば、句の「夕飯」の中身にも自然に思いが及んでいく。決して楽しんで食べられる中身じゃなかったはずだ。同じ作者の戦争末期の句には「飯粒の沈む雑炊捧げ食ふ」がある。粗食も粗食、米粒を探すのが大変という食事では、楽しむも何もないだろう。テキストのみから受ける印象に、あっという間に食べ終わった粗末な夕食と、やり場の無い心の空しさとを付け加えて鑑賞してみると、戦後庶民の茫然自失ぶりがひしひしと迫ってくる。ちなみに作者は、敗戦の年の芥川賞受賞作家だ。だが、受賞したからといって、暮らし向きが好転するような時代ではなかったこともわかる。『宿命』(1966)所収。(清水哲男)


July 1172003

 盆踊ピッチャーマウンドに櫓建て

                           渡辺善夫

盆踊り大会■ボーイスカウト三鷹2団主催。7月12日(土)午後5時〜7時30分、ナザレ修女会境内広場(井の頭公園西口そば、玉川上水沿い)で。流しそうめん、焼き鳥などの出店も。▼当日、直接会場へ。」(三鷹市広報HP)。……いきなりローカルな告知で申しわけなし。東京のお盆は陽暦で行われるので、こうした告知が今あちこちでなされている。13日(日)が迎え火だけれど、土曜日の夜のほうが人が集まりやすいので、明日が盆踊りのピークになるのだろう。もう、そんな季節を迎えたのだ。掲句の作者は大阪は吹田市在住なので、「盆踊」は陰暦のそれとして詠まれていると思うが、中身は陰暦でも陽暦でも同じことだ。「ピッチャーマウンド」とはあるが、ちゃんとした野球場ではないと思う。そんなところを下駄で踏み荒らされたら、後の整備が大変だ。おそらく、学校の運動場ではあるまいか。たいてい、こんもりと土を盛ってマウンドが作ってある。そのマウンドを中心にして、盆踊りのための「櫓(やぐら)」が「建て」られた。句は、ただそう言っているだけなのだが、読む人によってはほほ笑ましく思う人もいるだろうし、しかし、そうではない人もいるはずだ。私などは後者で、読んだ途端に「痛っ」と感じた。べつにグラウンドを神聖視しているつもりもないけれど、なんだか無関係な人に勝手に踏み荒らされるのかと思うと、イヤな感じがしてくるからだ。だから逆に、たまさか学校の運動場を通ることがあっても、なるべくイン・フィールドは避けて歩くことにしている。さて、作者の作句意図はいずれにありや。読者諸兄姉は如何に解するや。『明日は土曜日』(2002)所収。(清水哲男)




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