公衆電話がどんどん消えていく。こうなったら、意地でも携帯電話は持ってやらん。




2003年7月10日の句(前日までの二句を含む)

July 1072003

 仲良しのバナナの皮を重ね置く

                           草深昌子

語は「バナナ」で夏。いまでこそ年中見られるが、昔は台湾や南洋を象徴する珍しい果物だった。さて、房のバナナは「仲良し」に見えるが、掲句ではバナナが仲良しなのではないだろう。食べている二人が仲良しなのだ。「仲良しの」の後に「二人」や「友だち」などを意味する言葉が省略されているのだが、この省略が実によく効いている。「の」の効かせ方に注目。ちなみに「仲良し『は』」などとやると、はじめから仲良しとはこういうものだと規定することになって面白くない。作者の意図は、あくまでも二人の行為の結果から二人の仲を示すことにあるのだ。互いに示し合わせたわけでもなく、意識してそうしているわけでもないのに、ごく自然にそれぞれが剥いた「バナナの皮を重ね置」いている。まだ、そんなに大きくはない子供同士だろうか。傍らで見ていた作者は膝を打つような思いで、「ああ、こういう間柄が本当の仲良しというものだ」と感じ入っている。なんと素晴らしい観察力かと、私は作者の眼力のほうに感じ入ってしまった。俳句を読む喜びの一つは、句のように、言われてみて「なるほど」と合点するところにある。バナナの皮を重ねて置こうが離して置こうが、別に天下の一大事ではないけれど、そうした些細な出来事や現象から、人間関係や心理状態の綾を鮮明に浮き上がらせる妙は、俳句独自の様式から来ているのだと思う。俳句でないと、こうはいかないのである。むろんそのためには、作者の観察眼の鋭さとセンスの良さが必要だ。同じ句集から、もう一句。こちらも掲句に負けず劣らずの佳句と言えるだろう。内容のほほ笑ましさと、作者の眼力の確かさにおいて……。「校門の前は小走り浴衣の子」。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


July 0972003

 夏迎ふペプシの缶を振りながら

                           櫂未知子

の「夏迎ふ」は立夏など暦の上の夏ではなくて、これからの季節、盛夏を迎える意味だろう。さあ、暑い夏がやってくるぞ。「ペプシの缶を振りながら」、作者はわくわくした気持ちになっている。この屈託の無い青春性や、よし。また糞暑く糞長い夏が来るのかと、仏頂面で焼酎なんかを啜っているおじさんには、もうこんな句は作りたくても作れない。溌剌とした若さに満ちたまぶしい句だ。素朴に若さが羨ましい。と、ここまで書いてきて、ふっと気になったことがある。何故「ペプシ」なのだろうか、と。単に、作者がペプシ銘柄を好んでいるだけにすぎないのかもしれない、でも、日本におけるペプシ・コーラのシェアは客観的に見てとても低い。コカ・コーラに圧倒されている。販売機を探すのも難しいほどだ。だから掲句は、たとえば調味料で「味の素」と言わずに、わざわざ「旭味」(旭化成が食品部門から撤退したいまでは、消えてしまったようだが)と言ったようにもとれなくはない。もっとも「コカ・コーラ」では字余りになってしまい具合が悪いが、ならば「コーラ」でも差し支えはないはずだ。が、そうするとほとんどの読者はコカ・コーラを思い浮かべてしまう。それは困るということだろう。では、ペプシのロゴや缶のデザインが盛夏に相応しく涼しげだから選んだという理由も考えられなくはない。しかし、ペプシのロゴやデザインは実によく変わるので、読者にはイメージが結びにくい。にもかかわらず、あえてペプシとしたのは何故だろう。あくまでもこだわってペプシとしたのだったら、マイナーな飲料水だからこそという意識が、作者のうちで働いたからだろうと思われる。簡単に言えば、私は私だ、他人と一緒にはされたくないという自我主張が込められているペプシなのだ。迎える夏も、私ならではの夏なのである。深読みかもしれないが、このペプシへのこだわりもまた青春特有のそれとして、好ましく受け取っておくことにする。セレクション俳人06『櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


July 0872003

 レンジにてチンして殺そか薔薇の花

                           宮嵜 亀

語は「薔薇(ばら)」で夏。句集に寄せた一文で、坪内稔典が書いている。「レンジでチンする、というはやりの言葉(俗語)を取り込み、『殺そか』の後に何が来るのか、オカンかトカゲか、あるいはアブラムシか、と予想していたら、なんと『薔薇の花』が来た意外さ ! もちろん、この意外さによって俳句(詩)が成り立ったのである。ともあれ、レンジでこともあろうに薔薇をチンするという意外さは、同時に少しきざっぽくもある。あるいは少年めいていると言ったらいいか」。そのとおりで、俳句になったのは確かに意外さの効果である。でも、こうした句の場合、何でもかでも意外なものを持ってくれば即俳句になるのかと言えば、そうはいかないところが厄介だ。当て推量だけれど、作者当人は案外意外とは思っていないのだと思う。何か豪奢で美々しいものに対しての故無き殺意。これは、誰の心にも微量にもせよ潜在しているのではあるまいか。それが作者にとってはたまたま「薔薇の花」だったのであり、掲句に共鳴した読者は「薔薇の花」には何とも思わなくても、瞬間的に自己に固有の殺意の対象にずらして読むということをしたのではないか。その対象は、むろん他人にとっては意外なものだ。だが、当人にとってはそれほど意外さのないものである。そうした咄嗟の読み替えを、読者にうながすことができるかどうか。できれば俳句になるのであり、できなければ駄句以下となってしまう。作者に贔屓して言っておくならば、「少しきざっぽく、少年めいて」映る発想だからこそ、逆に読者のなかで眠っている故無き殺意に思い当たらせる力が出たのである。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)




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