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2003ソスN7ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0872003

 レンジにてチンして殺そか薔薇の花

                           宮嵜 亀

語は「薔薇(ばら)」で夏。句集に寄せた一文で、坪内稔典が書いている。「レンジでチンする、というはやりの言葉(俗語)を取り込み、『殺そか』の後に何が来るのか、オカンかトカゲか、あるいはアブラムシか、と予想していたら、なんと『薔薇の花』が来た意外さ ! もちろん、この意外さによって俳句(詩)が成り立ったのである。ともあれ、レンジでこともあろうに薔薇をチンするという意外さは、同時に少しきざっぽくもある。あるいは少年めいていると言ったらいいか」。そのとおりで、俳句になったのは確かに意外さの効果である。でも、こうした句の場合、何でもかでも意外なものを持ってくれば即俳句になるのかと言えば、そうはいかないところが厄介だ。当て推量だけれど、作者当人は案外意外とは思っていないのだと思う。何か豪奢で美々しいものに対しての故無き殺意。これは、誰の心にも微量にもせよ潜在しているのではあるまいか。それが作者にとってはたまたま「薔薇の花」だったのであり、掲句に共鳴した読者は「薔薇の花」には何とも思わなくても、瞬間的に自己に固有の殺意の対象にずらして読むということをしたのではないか。その対象は、むろん他人にとっては意外なものだ。だが、当人にとってはそれほど意外さのないものである。そうした咄嗟の読み替えを、読者にうながすことができるかどうか。できれば俳句になるのであり、できなければ駄句以下となってしまう。作者に贔屓して言っておくならば、「少しきざっぽく、少年めいて」映る発想だからこそ、逆に読者のなかで眠っている故無き殺意に思い当たらせる力が出たのである。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)


July 0772003

 今年より吾子の硯のありて洗ふ

                           能村登四郎

日は陽暦の七夕。七夕の前日に、日ごろ使っている硯(すずり)や机を洗い清める風習から、季語「硯洗(すずりあらい)」が成立した。ただし、季節は七夕とともに秋に分類されるのが普通だ。このあたりが季語のややこしいところで、梅雨期の七夕はいただけないにしても、現実には保育園や幼稚園、学校などの七夕は今日祝うところが大半だろう。陰暦の七夕だと、夏休みの真っ最中ということもある。私は戦時中から敗戦後にかけての小学生だけれど、学校の七夕行事はやはり陽暦で行われていた。すなわち、陽暦七夕の歴史も短くはない。だから、私たちのイメージのなかで七夕が夏に定着してもよさそうなものだが、どうもそうじゃないようだ。いま行われている平塚の七夕祭などはむしろ例外で、仙台をはじめ大きな祭のほとんどは陰暦での行事のままである。やはり、梅雨がネックなのだろう。私が小学生のころは、風習どおり前日にはきれいに硯を洗い、七夕には早く起きて、畑の里芋の葉に溜まった朝露を小瓶に集めて登校した。この露で墨を擦って短冊を書くと、なんでも文字がとても上手になるという先生のお話だったが……。さて、掲句では、子供がまだ小さいので父親が洗ってやっている。洗いながら「吾子」も自分の硯を持つようになったかと、その成長ぶりを喜んでいる。控えめで静かな父親の情愛が感じられる、味わい深い句だ。実際、学校に通う子は学年が上がる度に新しい道具が必要になる。それを見て、親は子供の成長を認識させられる。私の場合には、娘が水彩絵の具とパレットを持ち帰ったときに強く感じた。あとはコンパスとか分度器とか、すっかり忘れていた算数の道具のときも。いずれも「どれどれ」と手に取って、しげしげと眺めた記憶がある。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


July 0672003

 乳いろの水母流るるああああと

                           吉田汀史

語は「水母(くらげ・海月)」で夏。もしも「水母」が鳴くとしたら、あるいは啼くとしたら、なるほど「ああああ」でしかないように思える。「ああああ」は「ああ」でもなく「あああ」でもなく、人間にとっての究極的かつ基本的な絶望感の表現に通じている。おのれの弱さ、無力を自覚させられ、絶望の淵に沈み込んだとき、言葉にならない言葉、言葉以前の言葉である「ああああ」の声を発するしかないだろう。その意味では、この「ああああ」は、逆に言葉を超えた言葉でもあり、あらゆる言葉の頂点に立つ言葉だとも言える。水母の身体の98パーセントは水分であり、寿命の短い種類だと誕生後の数時間で死んでしまうという。まことにはかなくも希薄な存在だ。そんな水母が波に漂い翻弄され、「ああああ」と声をあげている様子は哀切きわまりない。多くの水母は、実は自力で泳いでいるのだけれど、私たちにはそうは見えない。また、獰猛としか言いようのない肉食生物なのだが、そうも見えない。見えないから、私たちには「ああああ」の声が自然に聞こえてきてしまうのである。となれば、たとえば反対に、水母から見た人間はどうなのだろうか。私たちは自力で歩いているのだが、彼らにはただ風に漂い翻弄されているだけと映るかもしれない。それも、やはり「ああああ」と啼きながら……だ。句からは、水母のみならず、生きとし生けるものすべてが「ああああ」と流されていく弱々しい姿が、さながら陰画のように滲んで見えてくる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)




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