昨日今日と電車を使っての所用。乗りつけないので妙に身体に力が入る。笑止なりや。




2003ソスN7ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0572003

 外掛けで父を倒せし夏みじかし

                           八田木枯

要があって、このところ父母兄弟姉妹など肉親を詠んだ句を眺めて暮らしていた。すぐに気がついたのは、なかでも父親の句が極端に少ないという事実だった。母親の句は無数にあれど、父句は本当に少ないのだ。それも自分が父親である感慨を詠んだ句が大半で、直接当人の父親を対象にしたものとなると微々たるものと言ってよい。したがって、掲句なども珍重すべき作品である。たわむれに「父」と相撲を取り、生まれてはじめて父親に勝った。しかも「外掛け」だから、勝ったときの父の身体は惨めにも作者の真下にあった。勝ったと言うよりも、倒してしまったというのが実感だ。肉体的にも精神的にも強き者の象徴のような父親が、こんなにも脆かったとは……。あまりにも哀しく複雑な衝撃で、あの年の夏のことは、この相撲のことしか覚えていない。「夏みじかし」と詠んだ所以である。話は遠回りになるが、昨日、二年前に急逝した友人・宮園洋の遺著『洋さんのあっちこち』(れんが書房新社)が届いた。宮園君は優れたイラストレーターであるとともに、多くの詩集などのブックデザインも手がけ、晩年は岡山で活動した。この本には、遺児である姉弟の父親追悼文が栞として挟み込まれており、タイミングがタイミングだっただけに、私はアッと思った。姉の望見さんの文章のタイトル「お父ちゃん、わかっているよ」にはっきりしているように、弟の一文もまた、生前の父を理解していたかどうかにこだわっているのだった。宮園君が子供たちにどんな具合に振る舞っていたのかは知らないが、すなわち、それほどに父親とは理解しにくい存在なのではあるまいか。と、一般論としても言えるような気がしたからだ。掲句に戻れば、このときに作者は間違いなく父親のある側面を理解した。しかし、一度理解したらいつまでも記憶として残るほどに、裏返せば、句は平生の父親を理解するのが困難なことをも示唆している。『あらくれし日月の鈔』所収。(清水哲男)


July 0472003

 金魚えきんぎょ錠剤とりおとし

                           大野朱香

魚売りの声「金魚えきんぎょ」を聞かなくなってから、久しい。昔はこの季節になると、天秤棒で荷をかついだり、屋台の曳き売りがやってきたものだった。それももはや懐しい夏の風物詩として、記憶のなかに存在するだけになった。むろん、作者にとっても同様だ。ところがある日、不意にどこからか「金魚えきんぎょ」と聞こえてきた。一瞬「えっ」と作者は耳を疑い、声の方向に意識をやったとたんに、手元の「錠剤」を「とりおとし」たと言うのである。それだけの情景なのだが、なかなかに奥深い句だ。というのも、作者は金魚売りの声に、そんなにびっくりしているわけではないからだ。「まさか」くらいの軽い心の揺れである。なのに、錠剤を落としてしまった。何故だろうか、と掲句は考えさせる。いや、まず作者自身がややうろたえて考えたのだろう。強い地震が発生したわけでもなく、火事になりかけたわけでもない。ただ物売りの声が聞こえてきただけなのに、思わぬヘマをしでかしてしまったのだ。何故なのか。考えるに、錠剤をつまんだり掌に受けたりする行為は、ほとんど意識的なそれではない。半ば習慣として身体になじんでいるので、手順も何も意識せずにする行為だ。逆に言えば、だから少々の突発的な出来事があったとしても、習慣の力が働いて行為を中断させることはないだろう。ぐらっと来たくらいでは、まず「とりおとす」ことはあるまい。でも、仰天しているわけでもない作者はちゃんと(と言うのも変だが)落としてしまった。つまり、実は人はこういうときにこそ手元が狂うのだと、掲句は言っているように思える。心理的に十分な余裕があるなかで、些細なことに意識が向くことが、いちばん習慣の力を崩しやすいのだと。敷衍しておけば、無意識の力は非常事態のときには十全に発揮されても、日常的には句のように案外と脆いところがあるということだ。そのあたりの意識と無意識との微妙な関係を見事に捉えた句として、唸らされた。俳誌「童子」(2003年7月号)所載。(清水哲男)


July 0372003

 冷麥の氷返すがへす惜しき

                           中原道夫

語は「冷麥(ひやむぎ)」で夏。より冷たい状態で賞味してもらうべく、皿には適度に「氷」をあしらって出す。見た目にも涼やかだ。句の冷麦は、酒席などで出されたものだろう。いずれにしても、他人が同席している場である。作者はその場で、実は氷をひとかけら口にしたかった。しかし、まさか子供じゃあるまいし、人前でそんなことはできない。はしたないという意識が先に立って、逡巡しながらもあきらめたのである。そのことが「返すがへす」も残念だと、一人になってから悔しがっている図だ。「返すがへす」には、思い切って口にしようかと、箸の先で氷をさりげなく返したりした仕草に掛けられている。いっちょまえの男が、氷ごときでうじうじするとは何たることか。読者は笑ってしまうかもしれないが、でも、こういうことは誰にでも起きているのではあるまいか。この「氷」を他の何かに置き換えれば、思い当たることの一つや二つは、誰にもあると思う。ああ、あのときに食べとけばよかった、失敗したなあ。と、私などはしょっちゅうだ。たとえば、宴席でのデザート。句の氷とは違って、食べたってはしたなくも何ともないのだが、それでも口にするタイミングというものがある。さてお開きとなり、みなが立ち上がるところで食べたくなったら、慌てて口に持っていくのはみっともないから、未練がましくもあきらめるしかない。こうなると、いかに豪勢なメロンでも、句の氷と同格になってしまう。宿酔気味で喉が乾いて深夜に目覚め、ふっと思い出して「返すがへす惜しき」と何度思ったことか。掲句の収められている句集のタイトルは『不覺』(2003)と言う。(清水哲男)




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