友人宅へMacとISDNの接続に行く。が、ISDNは触ったことなし。どうなりますか。




2003ソスN6ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2862003

 虹消えて了へば還る人妻に

                           三橋鷹女

語は「虹」。夏に多く見られるので夏季とされる。どんなに素晴らしい虹だったろう。しばし、忘我の状態で見惚れていた。しかしそれも束の間で、跡形もなく「消えて了(しま)」うと、また散文的な日常の時間のなかの「人妻」に「還(かえ)」ったというのである。句意としてはこんなところだろうが、この句に精彩を与えているのは「人妻」という用語法だ。字足らずを問題にせず「主婦」と置き換えてもよさそうだけれど、そうはいかない。なぜなら、「人妻」は一般的に自分を指して言う呼称ではないからである。冗談めかして「私は人妻だから」と言うようなことはあつても、よほどのことが無いかぎり、他人に正面切って「主婦です」とは言っても「人妻です」とは言わないものだろう。あくまでも第三者の妻の意であり、すなわち「人妻」とは「他人妻」なのである。したがって、掲句は「主婦」と表現するよりも、よほど自分を突き放している。「主婦」としても十分に散文的な日常を感じさせるが、「人妻」はもっと索漠とした気持ちに通じるものがある。だから、虹の幻想的な美しさがより鮮明に印象づけられるのであり、消えてしまった後の空しさが読者にもよくわかるのだ。ところで「他人妻」で思い出したが、最近「他人事」を「たにんごと」と読む人が増えてきた。むろん「ひとごと」と読むのが正しい。こういう間違いは、それこそ「他人事」じゃない気がして、聞くたびにハラハラしてしまう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)


June 2762003

 セピアとは大正のいろ夏館

                           田中裕明

セピア
語は「夏館(なつやかた)」。和風でも洋風でもよいが、夏らしいよそおいの大きな邸宅を言う。この場合は古い洋館だろう。建物全体がセピア調の落ち着いたたたずまいで、いかにも涼しげである。昨日今日の建築物では、こういう味は出ない。そこで「セピアとは大正のいろ」と、自然に口をついて出た句だ。さて、ならば「セピアとは」、実際にどんな色なのだろうか。私たちは、なんとなくセピアのイメージは持ってはいるけれど、この色についてあまり考えたことはない。「セピア=レトロ調」とすぐに反応するのは、何故なのだろうか。『広辞苑』を引くと「(1)有機性顔料の一。イカの墨汁嚢中の黒褐色の液を乾かしてアルカリ液に溶解し、希塩酸で沈殿させて製する。水彩画に用いる。(2)黒褐色」と出てくる。(1)は人工的な色で、どこででも見られるわけじゃない。(2)は天然に存在する色だが、定義が大雑把に過ぎる。私たちが言うセピアは、黒褐色のなかのある種の色合いを指すのであって、全部ではないからだ。あれこれ調べているうちに、どうやら私たちのセピアは、昔の銀塩写真の色褪せた状態の色から来ているらしいことがわかった。そう言えば、残されている明治や大正の写真はみなセピア色に変色している。だから、レトロ。となると、セピアの歴史は二百年にも満たない。芭蕉も蕪村も知らなかった色だ。近代初期の色。それも、写真の劣化に伴って情けなくも発生してきた色。だから往時の人々にとってのセピアは、負のイメージが濃かったに違いない。けれども、逆に現代人は懐しげに珍重しているわけで、この価値の逆転が面白い。ただし、現代人が好むセピアと写真の劣化によるそれとは、微妙に異っている。写真が小さくて申し訳ないが、比較のためにPhotoshop Elで見本を作ってみた。右側のやや黄色がかった色合いが、劣化写真の色彩に近い。したがって、高齢者ならば、どちらかと言えば右側のほうがセピア色だと指すことだろう。「俳句界」(2003年7月号)所載。(清水哲男)


June 2662003

 いつよりの村のまぼろし氷雨の馬

                           北原志満子

語は「氷雨(ひさめ)」。しばしば物議をかもす季語で、俳句では通常夏季としているが、一般的には冬季と理解する人がほとんどだろう。夏季としたのは、文字通りの氷の雨、すなわち雹(ひょう)を指すからだ。対して冬季と感じるのは、みぞれに近い冷たい雨、すなわち氷のような雨と思うからで、新しい『広辞苑』などでは両義が並記されている。どちらが正しいかということになれば、理屈では氷の雨そのものを指す夏季説が、比喩的に受け取る冬季説よりも直裁的で正確であるとは言える。しかし、一般的に冬季と解されてしまうのは、何故なのだろうか。一つには夏の雹が頻繁に降るものではないからだろうし、もう一つには詩や歌謡曲で冬季として流布されてきた影響も馬鹿にならないと思う。では掲句の「氷雨」の季節はいつだろうかと考えてみて、私の結論はやはり俳句の伝統に添った夏季に落ち着いた。冬の冷たい雨と解しても、句がこわれることはないけれど、雹が農作物や家畜への被害をもたらすことを思えば、「村」の句である以上、夏季とみるのが順当だろう。このときに「氷雨の馬」とは、突然の雹に驚き暴れる馬のイメージであり、そのイメージがこの村には、いつのころからか「まぼろし」として貼り付いていると言うのである。貧しい村の胸騒ぎするような不吉なまぼろしだ。何度も何度も雹にやられてきた村人は、この季節になると、氷雨に立ち騒ぐ馬のまぼろしに悩まされるのである。『北原志満子句集』(1975)所収。(清水哲男)




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