句集の校正刷りが届いた。詩集と違って差し替えたい誘惑がむくむくと。さてさて。




2003ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2762003

 セピアとは大正のいろ夏館

                           田中裕明

セピア
語は「夏館(なつやかた)」。和風でも洋風でもよいが、夏らしいよそおいの大きな邸宅を言う。この場合は古い洋館だろう。建物全体がセピア調の落ち着いたたたずまいで、いかにも涼しげである。昨日今日の建築物では、こういう味は出ない。そこで「セピアとは大正のいろ」と、自然に口をついて出た句だ。さて、ならば「セピアとは」、実際にどんな色なのだろうか。私たちは、なんとなくセピアのイメージは持ってはいるけれど、この色についてあまり考えたことはない。「セピア=レトロ調」とすぐに反応するのは、何故なのだろうか。『広辞苑』を引くと「(1)有機性顔料の一。イカの墨汁嚢中の黒褐色の液を乾かしてアルカリ液に溶解し、希塩酸で沈殿させて製する。水彩画に用いる。(2)黒褐色」と出てくる。(1)は人工的な色で、どこででも見られるわけじゃない。(2)は天然に存在する色だが、定義が大雑把に過ぎる。私たちが言うセピアは、黒褐色のなかのある種の色合いを指すのであって、全部ではないからだ。あれこれ調べているうちに、どうやら私たちのセピアは、昔の銀塩写真の色褪せた状態の色から来ているらしいことがわかった。そう言えば、残されている明治や大正の写真はみなセピア色に変色している。だから、レトロ。となると、セピアの歴史は二百年にも満たない。芭蕉も蕪村も知らなかった色だ。近代初期の色。それも、写真の劣化に伴って情けなくも発生してきた色。だから往時の人々にとってのセピアは、負のイメージが濃かったに違いない。けれども、逆に現代人は懐しげに珍重しているわけで、この価値の逆転が面白い。ただし、現代人が好むセピアと写真の劣化によるそれとは、微妙に異っている。写真が小さくて申し訳ないが、比較のためにPhotoshop Elで見本を作ってみた。右側のやや黄色がかった色合いが、劣化写真の色彩に近い。したがって、高齢者ならば、どちらかと言えば右側のほうがセピア色だと指すことだろう。「俳句界」(2003年7月号)所載。(清水哲男)


June 2662003

 いつよりの村のまぼろし氷雨の馬

                           北原志満子

語は「氷雨(ひさめ)」。しばしば物議をかもす季語で、俳句では通常夏季としているが、一般的には冬季と理解する人がほとんどだろう。夏季としたのは、文字通りの氷の雨、すなわち雹(ひょう)を指すからだ。対して冬季と感じるのは、みぞれに近い冷たい雨、すなわち氷のような雨と思うからで、新しい『広辞苑』などでは両義が並記されている。どちらが正しいかということになれば、理屈では氷の雨そのものを指す夏季説が、比喩的に受け取る冬季説よりも直裁的で正確であるとは言える。しかし、一般的に冬季と解されてしまうのは、何故なのだろうか。一つには夏の雹が頻繁に降るものではないからだろうし、もう一つには詩や歌謡曲で冬季として流布されてきた影響も馬鹿にならないと思う。では掲句の「氷雨」の季節はいつだろうかと考えてみて、私の結論はやはり俳句の伝統に添った夏季に落ち着いた。冬の冷たい雨と解しても、句がこわれることはないけれど、雹が農作物や家畜への被害をもたらすことを思えば、「村」の句である以上、夏季とみるのが順当だろう。このときに「氷雨の馬」とは、突然の雹に驚き暴れる馬のイメージであり、そのイメージがこの村には、いつのころからか「まぼろし」として貼り付いていると言うのである。貧しい村の胸騒ぎするような不吉なまぼろしだ。何度も何度も雹にやられてきた村人は、この季節になると、氷雨に立ち騒ぐ馬のまぼろしに悩まされるのである。『北原志満子句集』(1975)所収。(清水哲男)


June 2562003

 仏法僧廊下の濡れている理由

                           夏井いつき

語は「仏法僧(ぶっぽうそう)」で夏。昔はまったく別の鳥を指した名であることは広く知られているが、一応角川版の歳時記から引き写しておく。「夏の夜ブッポウソウと鳴くのはブッポウソウ科の仏法僧だと信じられてきたが、実はフクロウ科の木葉木菟であることが昭和十年に判明した。そこで仏法僧を『姿の仏法僧』、木葉木菟を『声の仏法僧』と呼ぶ。仏法僧は青緑色で赤い嘴が目立つ。……」。両者の棲息場所が同じなので、古人が誤解したらしい。掲句は現代の作品だから、むろん「姿の仏法僧」だ。仏法僧が飛んでいるくらいだから、人里からかなり離れた寺あたりの「廊下」だろう。明るい陽射しのなかを、美しい色彩の鳥がキラキラと飛んでいる。まことに晴朗な気分で、作者は人気のない建物に目をやった。そして、ところどころを眺め歩いているうちに、ふっと廊下の一部に黒い滲みがあるのに気がついたと言うのである。明らかに、水か何かの液体をこぼしたせいだとわかる。それも、ついさきほどこぼしたように、まだじっとりと「濡れている」。でも、いったい、誰がいつどんな「理由」で濡らしたのか。見回してみても、それらしい人影もない。「変だなあ」といぶかる作者の頭上を、折しも仏法僧が「ギャー」と鳴きながら飛び去っていった。と書くと、あまりにミステリー仕立てに読みすぎで、もちろん作者は探偵のように理由を求めているわけじゃない。ちらりと疑念が、心の片隅をかすめた程度。次の瞬間には忘れてしまう程度。しかし、その「ちらり」をこのように、いわば大仰に書きとめることで、逆に仏法僧の姿が読者の目にもいちだんと鮮かになった。そういう構造になっている。句面では、一見仏法僧が脇役に見えるけれど、実はこの鳥を主体に描いた句だったのだ。「俳句」(2003年7月号)所載。(清水哲男)




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