イラク法案。大きく日本は勘違いしていないか、思い上がっているのではないか…。




2003ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2662003

 いつよりの村のまぼろし氷雨の馬

                           北原志満子

語は「氷雨(ひさめ)」。しばしば物議をかもす季語で、俳句では通常夏季としているが、一般的には冬季と理解する人がほとんどだろう。夏季としたのは、文字通りの氷の雨、すなわち雹(ひょう)を指すからだ。対して冬季と感じるのは、みぞれに近い冷たい雨、すなわち氷のような雨と思うからで、新しい『広辞苑』などでは両義が並記されている。どちらが正しいかということになれば、理屈では氷の雨そのものを指す夏季説が、比喩的に受け取る冬季説よりも直裁的で正確であるとは言える。しかし、一般的に冬季と解されてしまうのは、何故なのだろうか。一つには夏の雹が頻繁に降るものではないからだろうし、もう一つには詩や歌謡曲で冬季として流布されてきた影響も馬鹿にならないと思う。では掲句の「氷雨」の季節はいつだろうかと考えてみて、私の結論はやはり俳句の伝統に添った夏季に落ち着いた。冬の冷たい雨と解しても、句がこわれることはないけれど、雹が農作物や家畜への被害をもたらすことを思えば、「村」の句である以上、夏季とみるのが順当だろう。このときに「氷雨の馬」とは、突然の雹に驚き暴れる馬のイメージであり、そのイメージがこの村には、いつのころからか「まぼろし」として貼り付いていると言うのである。貧しい村の胸騒ぎするような不吉なまぼろしだ。何度も何度も雹にやられてきた村人は、この季節になると、氷雨に立ち騒ぐ馬のまぼろしに悩まされるのである。『北原志満子句集』(1975)所収。(清水哲男)


June 2562003

 仏法僧廊下の濡れている理由

                           夏井いつき

語は「仏法僧(ぶっぽうそう)」で夏。昔はまったく別の鳥を指した名であることは広く知られているが、一応角川版の歳時記から引き写しておく。「夏の夜ブッポウソウと鳴くのはブッポウソウ科の仏法僧だと信じられてきたが、実はフクロウ科の木葉木菟であることが昭和十年に判明した。そこで仏法僧を『姿の仏法僧』、木葉木菟を『声の仏法僧』と呼ぶ。仏法僧は青緑色で赤い嘴が目立つ。……」。両者の棲息場所が同じなので、古人が誤解したらしい。掲句は現代の作品だから、むろん「姿の仏法僧」だ。仏法僧が飛んでいるくらいだから、人里からかなり離れた寺あたりの「廊下」だろう。明るい陽射しのなかを、美しい色彩の鳥がキラキラと飛んでいる。まことに晴朗な気分で、作者は人気のない建物に目をやった。そして、ところどころを眺め歩いているうちに、ふっと廊下の一部に黒い滲みがあるのに気がついたと言うのである。明らかに、水か何かの液体をこぼしたせいだとわかる。それも、ついさきほどこぼしたように、まだじっとりと「濡れている」。でも、いったい、誰がいつどんな「理由」で濡らしたのか。見回してみても、それらしい人影もない。「変だなあ」といぶかる作者の頭上を、折しも仏法僧が「ギャー」と鳴きながら飛び去っていった。と書くと、あまりにミステリー仕立てに読みすぎで、もちろん作者は探偵のように理由を求めているわけじゃない。ちらりと疑念が、心の片隅をかすめた程度。次の瞬間には忘れてしまう程度。しかし、その「ちらり」をこのように、いわば大仰に書きとめることで、逆に仏法僧の姿が読者の目にもいちだんと鮮かになった。そういう構造になっている。句面では、一見仏法僧が脇役に見えるけれど、実はこの鳥を主体に描いた句だったのだ。「俳句」(2003年7月号)所載。(清水哲男)


June 2462003

 昼寝覚電車戻つてゐるやうな

                           原田 暹

語は「昼寝」で夏。昼寝から覚めた後で、一瞬「ここはどこ、私は誰」みたいな状態になることがある。そのあたりの滑稽を詠んだ句は多いけれど、電車の中とは意表を突かれた。車中でのうたた寝も、なるほど昼寝といえば昼寝か。これからの季節、こっくりこっくりやっている人をよく見かける。はっと目が覚めて窓外を見るのだが、どこを走っているのかわからない。おまけに、ぼおっとした頭で懸命に判断してみるに、なんだか目的駅とは反対の方向に「戻つてゐるやうな」気がする。ややっ、こりゃ大変だ、どうしよう……。と、ここで一気に眠気の吹っ飛ばないのが車中のうたた寝というもので、なお作者は車中の人に気づかれないよう平静を装いながら、必死に窓外に目をやっている。このあたりが、実に可笑しい。それもこれもが、私にも覚えがあるからで、こういうときに、次の駅であわてて飛び降りたりするとロクなことにはならない。たいていは、そのまま乗っててもよかったのだ。本当に戻ってしまったのは、一度だけ。ほとんど徹夜で飲んだ後、鎌倉駅から東京駅に向かっていたはずが、気がついたら逆方向の逗子駅だった。途中まで友人と一緒だったので、はじめから方向を間違えて乗ったわけじゃない。明らかに、ちゃんと東京駅に着いた電車が折り返してしまったのだった。誰か起こしてくれればよかったのにと、糞暑い逗子駅で東京行きを待つ時間の長かったこと。以来、終点で寝ている人を見かけたら起こすことにした。『天下』(1998)所収。(清水哲男)




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