若くして没した友人の墓参へ。墓前に返却すべく預かったままの原稿の皴をのばす。




2003ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2162003

 梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ

                           原 裕

語は「梅雨の月」。降りつづく雲間に隠れていた月が、ふっと顔を出した。すると、真っ暗だった海の表が「金(き)ン」の板を薄く延べ広げたように「はなや」いで見えたのだった。あくまでも青黒い波の色が金箔に透けて見えていて、想像するだに美しい。「はなやげり」とはあるが、束の間の寂しいはなやぎである。句を読んですぐに思い出したのは、小川未明の『赤いろうそくと人魚』の冒頭シーンだった。「人魚は、南の方の海にばかりすんでいるのではありません。北の海にもすんでいたのであります」。と、書き出しからして、寂しそうな設定だ。「北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。/雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見てもかぎりない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。……」。どこにも梅雨の月とは書いてないけれど、この物語の不思議で寂しい展開からして、梅雨の月こそが似つかわしい。そして、掲句の海の彼方のどこかから、こうして人魚がこちらを見ていると想像してみると、いかにも切ない。そんな想像を喚起する力が、句にそなわっているということだ。なお「金ン」としたのは、「金」と書いても「カネ」と誤解する読者はいないだろうが、やはり文字面からちらりとでも「カネ」と読まれることを排したかったのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


June 2062003

 路頭とはたたずむところ合歓の花

                           坪内稔典

語は「合歓(ねむ)の花」で夏。夜になると葉を閉じるので「眠」と付いたそうだ。子供のころ、学校への道の途中の川っぷちにあつて、不思議な木があるものだと思っていた。故郷を離れてからは、一度も見た記憶はなく、それでも花の様子は鮮明に思い出せる。いまごろは、もう咲いているだろう。作者は旅行先で合歓に出会い、しばらくたたずんで眺めた。そして、ふっと気がついた。そうか「路頭」とは、こうしてたたずむところでもあったのだ。都会の道のように、ただせかせかと歩くだけが路頭じゃない。作者は日本一せかせかと歩く人が多いと言われる大阪住まいだけに、痛切にそう感じたのだろう。現代ならではの句だ。実際、東京あたりでも、なかなかたたずめるような道はない。たたずむことができるのは、信号待ちのときくらいだ。下手に立ち止まったりしたら、突き飛ばされかねない。それに、合歓なんてどこにも生えてない。すなわち、たたずむに値するだけの対象物もないのである。ひたすら道は歩くため、車で移動するためだけにあるのであって、別の目的で使用したりすると、たちまち道交法に引っ掛かってしまう。いまにきっと、みだりに立ち止まっちゃならぬという一項が追加されるだろう。いや、既に集団に対してはそうした条項があるも同然だ。だから、掲句が発禁になるのも間近い。と、いまは冗談ですむけれど、いつまでこの冗談がもつだろうか。路頭は変わった。それこそ路頭が「路頭に迷っている」。「俳句研究」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


June 1962003

 二卵性双生児三文安よさくらんぼ

                           文挟夫佐恵

語は「さくらんぼ」で夏。ところで「二卵性双生児」を、作者はどう読んでほしいと思っているのでしょう。そのまんま「にらんせいそうせいじ」でも構わないわけですが、かなりの字余りになりますね。初見のとき、振仮名が小さくて読めず、後にレンズでよくよく見てみたら「にぬふたり」とありました。なあるほど、この字の読ませ方からして面白い。たしかに二卵性の場合は、言われてみないとわからない人もいますね。作者自身が双生児なのか、あるいは子供がそうなのか。いずれにしても、近しい存在の双生児のことを詠んでいます。でないと「二束三文」の措辞が、いささかの自嘲であることから逸脱してしまいます。私は双生児ではないのでわかりませんが、双生児や親の気持ちとしては、よく似ていることが一種のいわば誇らしさに通じるのでしょうか。それこそ「さくらんぼ」が似ていないと、つまり粒ぞろいでないと「二束三文」に値打ちが落ちてしまうように……。私には、似てないほうがお互いに間違われなくてよいとしか思えませんが、そうでもないと掲句は言っています。きっと、私などには理解不能な理屈を越えた何かがあるのでしょう。実は「さくらんぼ」を食べながら、私はいまキーボードを打っています。これだけ粒をそろえるためには、生産農家は大変でしょうね。二卵性の子供を産み育てるのだって大変だ。それが二束三文だなんて、この自嘲にはついていけそうもありません。『天上希求』(1981)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます