四季に「梅雨期」を加えて五季にせよ。そう言ってた人がいますが、その通りです。




2003ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1962003

 二卵性双生児三文安よさくらんぼ

                           文挟夫佐恵

語は「さくらんぼ」で夏。ところで「二卵性双生児」を、作者はどう読んでほしいと思っているのでしょう。そのまんま「にらんせいそうせいじ」でも構わないわけですが、かなりの字余りになりますね。初見のとき、振仮名が小さくて読めず、後にレンズでよくよく見てみたら「にぬふたり」とありました。なあるほど、この字の読ませ方からして面白い。たしかに二卵性の場合は、言われてみないとわからない人もいますね。作者自身が双生児なのか、あるいは子供がそうなのか。いずれにしても、近しい存在の双生児のことを詠んでいます。でないと「二束三文」の措辞が、いささかの自嘲であることから逸脱してしまいます。私は双生児ではないのでわかりませんが、双生児や親の気持ちとしては、よく似ていることが一種のいわば誇らしさに通じるのでしょうか。それこそ「さくらんぼ」が似ていないと、つまり粒ぞろいでないと「二束三文」に値打ちが落ちてしまうように……。私には、似てないほうがお互いに間違われなくてよいとしか思えませんが、そうでもないと掲句は言っています。きっと、私などには理解不能な理屈を越えた何かがあるのでしょう。実は「さくらんぼ」を食べながら、私はいまキーボードを打っています。これだけ粒をそろえるためには、生産農家は大変でしょうね。二卵性の子供を産み育てるのだって大変だ。それが二束三文だなんて、この自嘲にはついていけそうもありません。『天上希求』(1981)所収。(清水哲男)


June 1862003

 どこにでもゐる顔多し菖蒲園

                           中村苑子

語は「菖蒲園」で夏。最近、こういう何でもないような句が気になる。「どこにでも」ありそうで、どこにも無い句だ。初心者は、こういう句をまず絶対に作らない。いや、作れない。というのも、誰だって「どこにでもゐる顔」という思いはあっても、いざ作品化するとなると、待てよと立ち止まってしまうからだ。「どこにでもゐる顔」なんて、本当はありっこないじゃないか。みんな、他ならぬ自分も含めて、それぞれが違う顔を持っているではないか。だから、ふっと「どこにでもゐる顔」と感じるときがあったとしても、いざ作品にするときには逡巡してしまうのだ。文字にする瞬間とは不思議なもので、ひどく神経質になってしまう。むろん、「どこにでもゐる顔」なんてあるはずがない。でも、私たちはつい「どこにでもゐる顔」と実感することがあるのは否定できない。だったら、「どこにでもゐる顔」はみずからの現実には存在するのだし、掲句のように書いたって構わない理屈だ。が、私もまた、なかなかこうした書き方ができないでいる。何故に逡巡するのか。自分で自分が歯がゆくなる。「どこにでもゐる顔」と感じる状況の必然性については、ある程度はわかっているつもりだ。でも、そう書くことははばかられる。本当は、何故なのだろうか。ただ、作者も「どこにでもゐる顔多し」と書いている。「多し」は、やはり少しばかりの逡巡のなせる措辞だろうと思った。なんとなく句が可愛いく感じられるのは、このちょっぴりの逡巡のせいなのかもしれない。『吟遊』(1993)所収。(清水哲男)


June 1762003

 アマリリス男の伏目たのしめり

                           正木ゆう子

アマリリス
語は「アマリリス」で夏。熱帯の百合とでも言うべき華やかさと気品がある。私がすぐに思い出すのは、小沢信男の「四方に告ぐここにわれありアマリリス」で、まことに言い得て妙。その気品であたりを払うような存在感が、しかと刻まれている。擬人化するとすれば、男はたいていこの句に近い感覚で扱う花だろう。ひるがえって、掲句は女性の感覚でつかまえたアマリリスだ。小沢句の花も正木句のそれも、ともに昂然といわば面を上げているところは同じだ。が、いちばんの違いは、小沢句が花を自分に擬していないのに対して、掲句は直裁的に述べてはいないけれど、最終的にはみずからに擬している点である。当たり前と言えば当たり前で、男が自分を花に例えるなどめったにない。せいぜいが散り急ぐ桜花くらいか。ただ当たり前ではあっても、掲句の展開にはどきりとさせられた。花に擬すとはいっても、男は「立てば芍薬坐れば牡丹」などと、いつも外側からの擬人化であるのに比べて、女性はどうやら花の内側に入り込んでしまうようなのである。擬人化した主体が花化している。入り込んでいるので、ちょっと蓮っ葉な「男の伏目たのしめり」という物言いも嫌みにならない。すべてを当人が言っているのではなくて、花が言っているのでもあるからだ。常日ごろ「伏目」がちの私としては、この句を知ったときから、女性をアマリリスの精だと思うことにしている。そう思ったほうが、気が楽になる。半分はホントで、半分はウソだけど……。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)




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