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June 1862003

 どこにでもゐる顔多し菖蒲園

                           中村苑子

語は「菖蒲園」で夏。最近、こういう何でもないような句が気になる。「どこにでも」ありそうで、どこにも無い句だ。初心者は、こういう句をまず絶対に作らない。いや、作れない。というのも、誰だって「どこにでもゐる顔」という思いはあっても、いざ作品化するとなると、待てよと立ち止まってしまうからだ。「どこにでもゐる顔」なんて、本当はありっこないじゃないか。みんな、他ならぬ自分も含めて、それぞれが違う顔を持っているではないか。だから、ふっと「どこにでもゐる顔」と感じるときがあったとしても、いざ作品にするときには逡巡してしまうのだ。文字にする瞬間とは不思議なもので、ひどく神経質になってしまう。むろん、「どこにでもゐる顔」なんてあるはずがない。でも、私たちはつい「どこにでもゐる顔」と実感することがあるのは否定できない。だったら、「どこにでもゐる顔」はみずからの現実には存在するのだし、掲句のように書いたって構わない理屈だ。が、私もまた、なかなかこうした書き方ができないでいる。何故に逡巡するのか。自分で自分が歯がゆくなる。「どこにでもゐる顔」と感じる状況の必然性については、ある程度はわかっているつもりだ。でも、そう書くことははばかられる。本当は、何故なのだろうか。ただ、作者も「どこにでもゐる顔多し」と書いている。「多し」は、やはり少しばかりの逡巡のなせる措辞だろうと思った。なんとなく句が可愛いく感じられるのは、このちょっぴりの逡巡のせいなのかもしれない。『吟遊』(1993)所収。(清水哲男)


May 1652009

 白菖蒲みにくき蝶のはなれざる

                           竹内留村

菖蒲とあるので、いわゆる花菖蒲。もう咲き始めている。花菖蒲の紫は色濃く、大和紫とでもいいたくなるようなしっとりとした風合いだが、そこに混ざって咲く白は、初夏の日差しを受けてひときわまぶしい。まっすぐな葉と茎の上に、ゆるやかな花がひらひら咲く姿、それ自身が蝶のようにも見えるが、そこに白い蝶が見え隠れしている。みにくい芋虫から美しい蝶になったはずが、みにくき蝶とは気の毒だが、同じ白でも動物と植物、かたや体液が通い、かたや水が通っている。強くなってきた日差しと風に、少し疲れた蝶。明日には、菖蒲田の水にその姿を沈めるかもしれない。そんな蝶に、どことなく愛着も感じているのだろう。ひらがなの中の、白菖蒲と蝶、ふたつの白が交錯してゆれている。句集には、〈毛を風に吹かせて毛虫涼しげに〉という句もありこちらは、あまり好かれることがなく句の中ではたいてい焼かれている毛虫が気持ちよさそうで、なんだかうれしくなる。『柳緑花紅』(1996)所収。(今井肖子)




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