これからの阪神は1勝1敗で乗りきればよい。人生にそんな計算は立たないからなあ。




2003ソスN6ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1862003

 どこにでもゐる顔多し菖蒲園

                           中村苑子

語は「菖蒲園」で夏。最近、こういう何でもないような句が気になる。「どこにでも」ありそうで、どこにも無い句だ。初心者は、こういう句をまず絶対に作らない。いや、作れない。というのも、誰だって「どこにでもゐる顔」という思いはあっても、いざ作品化するとなると、待てよと立ち止まってしまうからだ。「どこにでもゐる顔」なんて、本当はありっこないじゃないか。みんな、他ならぬ自分も含めて、それぞれが違う顔を持っているではないか。だから、ふっと「どこにでもゐる顔」と感じるときがあったとしても、いざ作品にするときには逡巡してしまうのだ。文字にする瞬間とは不思議なもので、ひどく神経質になってしまう。むろん、「どこにでもゐる顔」なんてあるはずがない。でも、私たちはつい「どこにでもゐる顔」と実感することがあるのは否定できない。だったら、「どこにでもゐる顔」はみずからの現実には存在するのだし、掲句のように書いたって構わない理屈だ。が、私もまた、なかなかこうした書き方ができないでいる。何故に逡巡するのか。自分で自分が歯がゆくなる。「どこにでもゐる顔」と感じる状況の必然性については、ある程度はわかっているつもりだ。でも、そう書くことははばかられる。本当は、何故なのだろうか。ただ、作者も「どこにでもゐる顔多し」と書いている。「多し」は、やはり少しばかりの逡巡のなせる措辞だろうと思った。なんとなく句が可愛いく感じられるのは、このちょっぴりの逡巡のせいなのかもしれない。『吟遊』(1993)所収。(清水哲男)


June 1762003

 アマリリス男の伏目たのしめり

                           正木ゆう子

アマリリス
語は「アマリリス」で夏。熱帯の百合とでも言うべき華やかさと気品がある。私がすぐに思い出すのは、小沢信男の「四方に告ぐここにわれありアマリリス」で、まことに言い得て妙。その気品であたりを払うような存在感が、しかと刻まれている。擬人化するとすれば、男はたいていこの句に近い感覚で扱う花だろう。ひるがえって、掲句は女性の感覚でつかまえたアマリリスだ。小沢句の花も正木句のそれも、ともに昂然といわば面を上げているところは同じだ。が、いちばんの違いは、小沢句が花を自分に擬していないのに対して、掲句は直裁的に述べてはいないけれど、最終的にはみずからに擬している点である。当たり前と言えば当たり前で、男が自分を花に例えるなどめったにない。せいぜいが散り急ぐ桜花くらいか。ただ当たり前ではあっても、掲句の展開にはどきりとさせられた。花に擬すとはいっても、男は「立てば芍薬坐れば牡丹」などと、いつも外側からの擬人化であるのに比べて、女性はどうやら花の内側に入り込んでしまうようなのである。擬人化した主体が花化している。入り込んでいるので、ちょっと蓮っ葉な「男の伏目たのしめり」という物言いも嫌みにならない。すべてを当人が言っているのではなくて、花が言っているのでもあるからだ。常日ごろ「伏目」がちの私としては、この句を知ったときから、女性をアマリリスの精だと思うことにしている。そう思ったほうが、気が楽になる。半分はホントで、半分はウソだけど……。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


June 1662003

 伯母逝いてかるき悼みや若楓

                           飯田蛇笏

語は「若楓(わかかえで)」で夏。楓の紅葉も見事だが、若葉青葉も美しい。句の読みどころは、むろん「かるき悼み」だ。訃報に接して、しくっと胸に来た。だが、それ以上の重い悼みの心は湧いてこない。おそらく「伯母」なる人は、長患いだったのだろう。親類縁者も、近い将来にこの日が来ることを予測していたのだと思われる。また、彼女の死によって、幼い子が遺されるといったような、周辺に直接的な不幸の種が芽生える気遣いもなかったのだ。そして、彼女自身にも死の覚悟ができていることを、作者は薄々ながら知っていた。だから「ああ、やつぱり……」という気持ちになった。こうした想像力を読者に呼び覚ます力は、すべて「かるき」の措辞にある。しくっとした心に若楓の明るさが染みとおるような句で、なまじな追悼句よりも鮮烈ではないか。ただ、作者にしてみれば、発表に際してはよほどの勇気が必要だったにちがいない。「かるき悼み」を不謹慎な表現と読むのが、世間一般というものの文法であるからだ。そして俳句は、世間一般に顔を向けている。この文法が如何に強力であるかについては、読者諸兄姉が先刻ご承知なので、いまさらくだくだしく述べる必要はないだろう。もしも自分が作者と同じような気持ちだったとしたら、こんなふうに詠めるだろうか。ちょっと想像してみるだけで、作者の勇気が実感される。しかも、作句されたのが大正四年(1915年)であることを思えば、なおさらである。『山廬集』(1932)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます