夏はよる。やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。この闇の深さよ、今は無し。




2003ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0962003

 葉柳に舟おさへ乘る女達

                           阿部みどり女

語は「葉柳(はやなぎ)」で夏。葉が繁り、青々としたたるように垂れている。句は、これから船遊びにでも出かけるところか。「女達」が「舟おさへ」て乗っているのは、和装だからだ。裾の乱れが気になるので、揺れる舟のへりにしっかりと手を添えながら乗っている。さながら浮世絵にでもありそうな光景で、美しい。……と単純に思うのは、私が男だからかもしれない。作者は女性だから、浮世絵みたいに詠んだつもりはなかったのかもしれない。たかが舟に乗ることくらいで、キャアキャア騒ぐこともなかろうに。せっかくの柳のみどりも興醒めではないか。などと、同性の浅はかな振る舞いに、いささかの嫌悪感を覚えている図だとも読める。「女達」と止めたのは、突き放しなのだとも……。まあ、そこまで意地悪ではないにしても、作者がただ同性のゆかしさ、好ましさを謳い上げたと読むのは早計のような気がする。同性同士でなければ感じられない何かが、ここに詠み込まれているはずだ。そう見なければ、それこそ同性の読者からすると、阿呆臭い句でしかなくなってしまうのではあるまいか。何度か読み直しているうちに、だんだんそんな気がしてきた。考えすぎかもしれないが、ふと気になりだすと止まらないのは、俳句装置の持つ磁力によるものだろう。高田浩吉じゃないけれど(って、私も古いなア)、♪土手の柳は風まかせなどと、呑気に歌い流してすむ句ではなさそうだ。女性読者のご意見をうかがいたいところ。『笹鳴』(1947)所収。(清水哲男)


June 0862003

 まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる

                           西東三鬼

語は「まくなぎ」で夏。「めまとい」とも。夕方、野道などで目の前に群れ、うるさくつきまとう微小な虫。こいつが出てくると、夏だなあと思う。糠蚊(ぬかが)と言われ、世界には人の血を吸う種類も含んで4000種ほどいるそうだが、よく見えないのでどれがどれやら区別する気にもならない。とにかく、払いのけるだけである。このちっちやな虫の集団の羽音が聞こえたら、さぞや物凄いだろうと発想したのが、作者の凡ならざるところ。自註がある。「門の傍に楠が一本立つてゐてそれに添つて地上十尺の所にいつもまくなぎがかたまつて猛烈に上下してゐた。その微小な蟲共は全く狂つてゐた。然し彼等が生命を持つてゐることは疑へない。生命を持つものの大叫喚が聞こえないのは人間の耳が不完全だからだ」。不完全で結構、聞こえなくて大いに結構。まくなぎの阿鼻叫喚まで聞こえたら、こっちのほうが叫喚してしまうだろう。想像するだに慄然とする。一般的に人よりも昆虫のほうが聴覚に優れているそうなので、まくなぎ自身にはお互いの発する音が聞こえるのかもしれない。となると、彼らにとっての掲句は文字通りの糞リアリズム句ということになる。うるさくて、自分自身までをも払いのけたい衝動が、阿鼻叫喚の狂気を呼んでいるのかと想像すると、これまた慄然とさせられる。大袈裟な物言いの句だと、面白がってもいられない気分だ。『西東三鬼全句集』(1971)所収。(清水哲男)


June 0762003

 経験の多さうな白靴だこと

                           櫂未知子

語は「白靴(しろぐつ)」で夏。昔から「足下を見る」と言う。駕篭やが旅人の足の疲れ具合を見て取って、駕篭賃を釣り上げたことによる。くたびれた草鞋なんぞを履いたりしていたら、たちまち吹っかけられてしまう。このようなこともあって、履物を見てその人のありようを読むことは、それこそ昔から行われてきた。作者もそのようなまなざしで他人を評しているわけだが、「経験の多そうな白靴」という表現は面白い。何の経験なのかと、問うのは野暮だろう。少なくとも、作者の価値観からすると、あまり讃められた経験ではなさそうだからだ。強引なセールスだとか、あるいはもっと個人的な神経に障るある種の言動だとか……。その人ではなくて別な人が履いていれば単なる白い靴でしかないものが、その人が履いていることによって曰くあり気に見えたというのである。つまり作者は、その人にパッと先入観を持ってしまい、それが当たっていそうだと、白靴を見て納得している。このときに、白靴は作者の先入観をかなり具体的に裏付けた(ような気がした)というわけだ。駕篭やが足下を見たのも同様で、最初から足下だけを見たのではない。あくまでも直感的な全体の印象から判断した上で、足下でいわばウラを取った。句のリズムも面白い。音数的にはきっちり十七音なのだが、いわゆる五七調的には読み下せない仕掛けだ。十七音に籠りながらも、故意にリズムを崩している。この故意が、句意をより鮮明にしている。「俳句研究年鑑」(2003年版)所載。(清水哲男)




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