季語が白靴の句

June 0762003

 経験の多さうな白靴だこと

                           櫂未知子

語は「白靴(しろぐつ)」で夏。昔から「足下を見る」と言う。駕篭やが旅人の足の疲れ具合を見て取って、駕篭賃を釣り上げたことによる。くたびれた草鞋なんぞを履いたりしていたら、たちまち吹っかけられてしまう。このようなこともあって、履物を見てその人のありようを読むことは、それこそ昔から行われてきた。作者もそのようなまなざしで他人を評しているわけだが、「経験の多そうな白靴」という表現は面白い。何の経験なのかと、問うのは野暮だろう。少なくとも、作者の価値観からすると、あまり讃められた経験ではなさそうだからだ。強引なセールスだとか、あるいはもっと個人的な神経に障るある種の言動だとか……。その人ではなくて別な人が履いていれば単なる白い靴でしかないものが、その人が履いていることによって曰くあり気に見えたというのである。つまり作者は、その人にパッと先入観を持ってしまい、それが当たっていそうだと、白靴を見て納得している。このときに、白靴は作者の先入観をかなり具体的に裏付けた(ような気がした)というわけだ。駕篭やが足下を見たのも同様で、最初から足下だけを見たのではない。あくまでも直感的な全体の印象から判断した上で、足下でいわばウラを取った。句のリズムも面白い。音数的にはきっちり十七音なのだが、いわゆる五七調的には読み下せない仕掛けだ。十七音に籠りながらも、故意にリズムを崩している。この故意が、句意をより鮮明にしている。「俳句研究年鑑」(2003年版)所載。(清水哲男)


May 1652005

 白靴の埃停年前方より来

                           文挟夫佐恵

語は「白靴(しろぐつ)」で夏。「前方」には「まへ」のルビあり。私は停年を経験していないが、わかるような気がする。一日働いて帰宅し靴を脱ぐときに、うっすらと埃(ほこり)がついているのに気がついた。白靴だからさして目立たないとは思うけれど、その埃を言うことで、日中働いてきた作者の充実感と、伴ってのいささかの疲労感を象徴させているのだろう。そんな日々のなか、だんだん停年退職の日が近づいている。ついこの間までは、まだまだ先のことだと思えていたのが、最近ではどんどん迫ってくる感じになってきた。停年の日に向かってこちらが歩いていっているつもりが、なんと停年のほうからも自分に歩み寄ってくる。それも「前方より」というのだから、有無を言わせぬ勢いで近づいてくるのだ。玄関先でのほんの一瞬の動作から、呵責ない時の切迫感を詠んだ腕の冴え。あるいはまた、この白靴は自分のではなく、ご主人のものだとも解釈できるが、そうだとしても句の冴えは減じない。いま調べてみたら、掲句は作者五十代はじめの句集に収められていた。昔の停年は五十歳と早かったので、ううむ、どちらの靴かは微妙なところではある。『黄瀬』(1966)所収。(清水哲男)


May 0752011

 真円の水平線や卯浪寄す

                           竹岡俊一

円の水平線、ということは、視界三百六十度見渡す限りひたすら海、大海原のど真ん中にいるのだろう。また真円は、水平線が描く弧から球体である地球を大きく感じさせ、卯浪は、初夏の風と共に尽きることなく船に向かって寄せている。それを乗り越え乗り越え、船はひたすら海をつっきて進んでいるのだ。この句は「六分儀(ろくぶんぎ)」と題された連作のうちの一句で、作者は海上自衛隊勤務という。六分儀は、天体の高度を計測する航海用の器械とのこと。掲出句の卯浪には、私達が陸から遙か沖に立っているのを眺めているのとは違った力強さがある。〈サングラス艦長席の摩り切れて〉〈登舷礼やや汚れたる白靴も〉サングラス、白靴、これらも同様に日常とは別の表情を見せていて興味深い。「花鳥諷詠」(2011・3月号)所載。(今井肖子)


May 2452014

 鎧戸の影白靴を放り出す

                           内村恭子

の鎧戸は、掃き出し窓のようなところの鎧戸だろう。休暇中の作者は本を読むのにもちょっと飽きて、目の前の海まで散歩に行こうかと立ち上がる。鎧戸の影は縞々、そこに白靴をぽんと投げると、白靴にも縞々の影ができる。ただそれだけなのだが、白靴の一つの表情に小さな詩が生まれていることに気づく作者なのだろう。鎧戸と白靴という二つの素材が、作為の無い景としてくっきりと切り取られている。同じ句集『女神』(2013)に<白靴を踏まれ汚れただけのこと>という句もある。美しい眉をひそめて相当むっとしている作者の様子が目に浮かぶが、お気に入りの白靴があるのかもしれない。(今井肖子)


June 1362014

 白靴の中なる金の文字が見ゆ

                           波多野爽波

事になるが、生前、八十代の阿波野青畝が、祝賀会に白靴を履いて来ていたのを思いだす。白靴は汚れやすいので、通勤などには不向きである。しかしながら、夏になって、いかにも涼しげな白靴を履いていると、お洒落な感じがする。そんな白靴に金の文字が入っていたのが目にとまった。金の文字は、白靴を更に瀟洒なものに見せている。作者の審美眼を感じさせる作品である。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)


July 1572014

 言霊の力を信じ滝仰ぐ

                           杉田菜穂

辞苑には言霊(ことだま)は「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」と解説される。日本の美称でもある「言霊の幸ふ国」とは、言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国であることを意味する。沈黙は金、言わぬが花などの慣用句も言葉とは聖にも邪にもなることから生まれたものだ。そして滝の語源はたぎつ(滾つ)からなり、水の激しさを表し、文字は流れ落ちる様子を竜にたとえたものだ。胸底にたたむ思いも、また波立つもののひとつである。さまざまな思いを胸に秘め滝を仰ぐ作者に、水の言霊はどのような姿を見せてるのだろうか。〈猫好きと犬好きと蟇好き〉〈ウエディングドレスのための白靴買ふ〉『砂の輝き』(2014)所収。(土肥あき子)




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