今夜9時半からのNHKラジオ浪曲番組は長く続いているが、最近は選曲がよくない。




2003ソスN6ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0562003

 芸大の裏門を出てラムネ飲む

                           永島理江子

語は「ラムネ」で夏。大学とは限らず、どんな裏門にも、正門とは違った姿がある。そして、その姿には例外なく隙(すき)がある。正門は常に緊張していて隙を見せないが、裏門はどことなくホッとしているようで、力が抜けている。だから、裏門を通って外に出ると、人もまたホッとする。不思議なことに、正門から出たときにはあまり振り返ったりしないものだが、裏門からだと、つい振り返りたくなる。裏門は油断しているので、振り返ると門の中の真実が見えるような気がするからだ。実際、振り返ると、「ああ、こんなところだったのか」と合点がいく。そこで作者はホッとして、ラムネを飲んだというわけだ。何かクラシカルなイベントでも見てきたのだろう。クラシックなイメージの濃い「芸大」に対するに、ポップな「ラムネ」。学問としてのアートに対して、庶民の生んだアート。作者は自分の行動をそのまんま詠んだのだろうが、図らずもこんな取り合わせの面白さが浮き上がってきた。べつに「芸大」でなくたって同じこと、と思う読者もいるかもしれない。でも、たとえばこれを「東大」などに入れ替えてみると、どうなるだろうか。今度は、学問的知対庶民的知という格好になって、句がいささか刺々しくなってくる。どこかに、いわゆる象牙の塔に対する庶民の意地の突っ張りみたいなニュアンスが出てきてしまう。やはり、ラムネ飲むなら芸大裏がいちばんなのだ。「俳句研究」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


June 0462003

 老鶯をきくズロースをぬぎさして

                           辻 桃子

語は「老鶯(ろうおう)」で夏。年老いた鶯のことではなくて、夏になっても鳴いている鶯のことを言う。物の本に「その声やや衰ふ」ことからの命名とあるが、そうとも限らない。数年前の盛夏、京都・宇治の多田道太郎邸で余白句会を開いたときには、庭先まで来て実に元気な声で鳴いていた。しかし、掲句の場合には、やや衰えた感じの鳴き声のほうが似あいそうだ。思いもかけぬときに、どこからかかすかに鶯の声が聞こえてきた。ちょうど「ズロース」をぬぎかけていたのだが、思わずも手を止めてじっと耳傾けてしまったというのである。誰かに見られていたら、まことに妙な格好のままなのだけれど、むろん周囲には誰もいない。これが、たとえば料理や洗濯の最中のことであっても、俳句にはなるだろう。なるけれども、面白味には欠けてしまう。やはり、妙な格好であるからこそのリアリティの強さが、掲句の魅力だ。そしてこの生臭くも滑稽な句のイメージは、この句だけにとどまらず、人がひとりでいるときの様態一般に及んでいる。そこが素晴らしい。誰もが一瞬アハハと笑い、でも我が身に照らして、必ずしも笑ってすまされる句ではないことに気がつくからだ。掲句とは逆に、ひとりでいることを意識的に利用した詩に、片岡直子の「かっこう」がある。「誰もいないへやで/私だけいるへやで//私は素敵なかっこうをしてみます//足をたくみにからませて/のばしてみたり/折ってみたり//手も上手についてみます//そうして うつろな眼を壁になげます//いろんなかっこうをしてみます//君はどんなかっこうがすきですか?」。これまた、アハハと笑うだけではすまされない。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


June 0362003

 何か負ふやうに身を伏せ夫昼寝

                           加藤知世子

語は「昼寝」で夏。昼寝というと、たいがいは呑気な寝相を思ってしまうが、掲句は違う。「身を伏せ」て寝るのは当人の癖だとしても、何か重いものを負っているかに見えるというのである。最近の夫の言動から推して、そんな具合に見えているのだろう。痛ましく思いながらも、しかしどうしてやることもできない。明るい夏の午後に、ふっと兆した漠然たる不安の影。この対比が、よく生きている。一つ家に暮らす妻ならではの一句だ。ちなみに、「夫」は俳人の加藤楸邨である。ただ実は、作者・知世子の夫を詠んだ句には、このようなシリアスな句は珍しい。例外と言ってもよいくらいだ。家庭での楸邨はよほどの怒りん坊であったらしく、その様子は多くカリカチュアライズされて妻の句に残されている。「怒ることに追はれて夫に夏痩なし」。これまた妻ならではの句だけれど、距離の置き方が掲句とは大違いだ。ああまた例によって怒ってるなと、微笑すら浮かべている。なかで極め付けは「夫がき蜂がくすたこらさつさとすさるべし」だろう。「き」と「く」は「来」で、なんと夫を「蜂」と同じようなものだとしているのだから、思わずも笑ってしまう。三十六計逃げるに如かず、君子危うきに近寄らず。と、楸邨の癇癪玉を軽く避けている図もまた、長年連れ添った妻ならではの生活模様だ。夫よりも一枚も二枚も上手(うわて)だったと言うしかないけれど、しかし読者には、これで結局はうまくいっている夫婦像が浮かび上がってくる。『朱鷺』(1962)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます