季語が蜂の句

June 0362003

 何か負ふやうに身を伏せ夫昼寝

                           加藤知世子

語は「昼寝」で夏。昼寝というと、たいがいは呑気な寝相を思ってしまうが、掲句は違う。「身を伏せ」て寝るのは当人の癖だとしても、何か重いものを負っているかに見えるというのである。最近の夫の言動から推して、そんな具合に見えているのだろう。痛ましく思いながらも、しかしどうしてやることもできない。明るい夏の午後に、ふっと兆した漠然たる不安の影。この対比が、よく生きている。一つ家に暮らす妻ならではの一句だ。ちなみに、「夫」は俳人の加藤楸邨である。ただ実は、作者・知世子の夫を詠んだ句には、このようなシリアスな句は珍しい。例外と言ってもよいくらいだ。家庭での楸邨はよほどの怒りん坊であったらしく、その様子は多くカリカチュアライズされて妻の句に残されている。「怒ることに追はれて夫に夏痩なし」。これまた妻ならではの句だけれど、距離の置き方が掲句とは大違いだ。ああまた例によって怒ってるなと、微笑すら浮かべている。なかで極め付けは「夫がき蜂がくすたこらさつさとすさるべし」だろう。「き」と「く」は「来」で、なんと夫を「蜂」と同じようなものだとしているのだから、思わずも笑ってしまう。三十六計逃げるに如かず、君子危うきに近寄らず。と、楸邨の癇癪玉を軽く避けている図もまた、長年連れ添った妻ならではの生活模様だ。夫よりも一枚も二枚も上手(うわて)だったと言うしかないけれど、しかし読者には、これで結局はうまくいっている夫婦像が浮かび上がってくる。『朱鷺』(1962)所収。(清水哲男)


March 1532015

 うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ

                           高浜虚子

事でよく訪れる長野県の人々は、蜂と密接な暮らしをしています。森を歩けば「蜂を保護しています。近寄らないでください」の立て看を見かけます。高校には養蜂部があり、秋になると市場では蜂の巣が売られていて、蜂の子が羽化してブンブン飛ぶのを見かけます。蜂蜜の味がする蜂の子の缶詰も売られていて、長野特有の食文化が生きづいています。一方で、花が咲き始める頃になると、家の軒下では蜂が巣作りを始めます。蜜蜂ならば歓迎するのですが、スズメバチが巣を作り 始めたら大きくなる前に退治しなくてはなりません。句集では、掲句の前に「巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ」があり、連作です。(昭和二年三月十七日の作)。「かぶと」と見立てるところに蜂に対する身構えがあります。蜂蜜は、このうえなく甘い味をもたらしてくれるけれど、刺されたことのある身は、生涯その一撃を忘れることができません。私も小学六年の時、蜂の巣箱を襲撃した後、自転車をこいで逃げても逃げても追いかけられて、頭皮を突き刺された痛みを恐怖とともに覚えています。多かれ少なかれこのような経験は皆もっていて、蜂をモチーフに句作する場合も畏怖の念をともなうことになるのでしょう。掲句は、上五と下五で動詞を二つずつ使用して、それらが対称的に配置されています。「うなり落つ」は、羽ばたく音の激しさと落下をやや客観的に描写しているようなのに対して、「怒り這ふ」は、主観を含んで擬人化されています。ただし、その擬人化は比喩というよりも、作者の身から率直に出てくる表現で、蜂は、蝿や蚊とは違った「怒り」の情念を持てる種として尊重しているように思われます。また、中七では「蜂や」で切ることによって、一匹の蜂と「大地」という言葉を同じスケールの中で受けとめることを可能にしており、蜂の最期を広大な空間における一つの出来事としてその様態を注視しています。「うなり、怒り」は、雷神のようであり、「落つ、這ふ」は、落ち武者のようです。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)




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