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June 0162003

 冷し中華運ぶ笑顔でぞんざいで

                           星川佐保子

近はあまり見かけなくなったが、以前は食堂の表に「冷し中華はじめました」とか「生ビールはじめました」などの張り紙が出た。これを見ると、夏近し……。なんとなく明るい気分になったものだ。「冷し中華」を季語として採用している歳時記はまだ少ないけれど、これから編まれるものには不可欠な項目となるだろう。掲句の舞台は、既に夏の盛りの大衆的な食堂だ。混みあっている雰囲気を、よく伝えている。注文した冷し中華の皿を、女店員がまことに「ぞんざいに」卓上に音立てて置いたのだ。思わずもムッとして顔を見上げると、そこにあったのは屈託のない笑顔だった。これじゃ、憎めない。見るともなく見ていると、彼女はどのテーブルにも同じような調子で運んでいる。こうしたところの店員のマナーの悪さは、いまにはじまったことではないけれど、あくまでも笑顔を絶やさずに運んでいるのだから、彼女に悪気はないのである。むしろ、活気のある働き者なのだ。この明るいぞんざいさも、また夏の風物詩。と、作者が思ったかどうかは知らないが、私にはそんなふうに写る。こんな句もあった。「ヘルメット冷し中華の酢に噎せる」(後藤千秋)。食べるほうにしても、これだ。冷し中華をしみじみ味わおうなんて客は、そんなにいないのではあるまいか。ほとんどが、ぞんざいに食べている。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


July 2472004

 学生食堂冷し中華は売り切れて

                           平木智恵子

語は「冷し中華」で夏。上手な句とは言えないが、「学生食堂」の雰囲気はよく伝わってくる。昼時は混雑しているし、冷房もそんなには効いていない。あそこは食事を楽しむなどは二の次で、とりあえず空きっ腹を満たすためだけにあるような施設である。だから、簡便なメニューが好まれる理屈で、冷たくて安くて早く食べられる「冷し中華」などは人気があるのだろう。冷した麺を皿に盛り、胡瓜と錦糸卵と紅生薑をちょいちょいと乗っけて、ハイおしまい。神田の出版社に勤めていた頃は、手元不如意になると、近所の明大や中大の学生食堂に行った。この季節、冷し中華もよく食べたけれど、ときに麺がほぐれないままになっていたりして、お世辞にも美味いとは言えなかった。でも、編集者なんぞの昼食というものは学生と同じで、とにかく当面の空腹さえ免れればそれでよいというところがある。栄養士が聞いたら、目を回しそうな粗食や偏食ぶりなのだ。話はまた飛ぶけれど、知り合いの女性栄養士のお子さんが、ある日遊びにいった友だちの家から目を輝かせて帰ってきた。「お母さん、○○君ちのおにぎり、すっごく美味しかったよ」。聞いてみると、何のことはない。ごく普通のおにぎりだったのだが、彼女のおにぎりは子供の健康を考えて塩味抜きなので、その差が出たと言うわけだ。鮨屋で頑に醤油を使わないでいたら、握っていた大将に「そんなに不味そうに食わないでくれ」と叱られたのもこの人である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 3152005

 いよよ年金冷し中華の辛子効く

                           奈良比佐子

語は「冷し中華」で夏。「いよよ年金」ということになり、所定の手続きをすませに行った帰りだろう。ちょっと空腹を覚えたので、そこらへんの店に入って「冷し中華」を注文した。と、思いのほか辛子が効いていて、鼻がツーンと……。理不尽にも、強制的に泣かされたようなものである。そう思うと、なんとなく可笑しい。が、句の眼目はともかく、年金と冷し中華との取り合わせはよく似合うような気がする。というのも、年金受給資格を得るためには、保険料を払い込むこと以外には、あとはただ一定の年月が経過すればそれですむ。そこが停年退職とは決定的に違うから、受給資格を得て思うことは、すなわち歳をとったということくらいだ。したがって、停年退職の感慨もなければ、何かを成し遂げたという充実感もない。ただ、もう自分は若くはなく、いわゆる高齢者に分類されるのだと、そんな愉快ではない思いがチラチラするばかりなのである。受給する年金が高額ならまだしも、それも適わぬとなれば、自分で自分を祝う気などにはさらさらなれない。で、そこらへんの店で、そそくさと散文的に冷し中華を食べたということだ。こういうときに寿司という気分ではなし、かといって蕎麦や饂飩でも少し意味ありげだし、やはり無国籍料理たる冷し中華くらいが適当なのだ。その前に、まだ食欲があっただけ、作者はエラい。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


July 0972012

 冷し中華普通に旨しまだ純情

                           大迫弘昭

どものころならいざ知らず、大人になれば、日常の食事にいちいち旨いとか不味いとか反応しなくなってくる。なんとなく食べ終わり、味覚による感想はほとんど湧いてこない。それが「普通」だろう。作者はとくに好物でもない冷し中華を空腹を満たすためにたまたま食べたのだが、食べ終えたときに「普通に旨し」と、しごく素直な感想が浮かんだのだった。そして、こんな感想が自然に浮かんできたことに、作者はちょっぴり驚いたのである。すれっからしの中年男くらいに思っていた自分にも、まだこんな一面が残っていたのか。声高に他人に告げることでもないけれど、ふっと浮かんだ小さい食事の感想に、眠っていた自分の「純情」に思いがけなくも向き合わされたわけで、作者が戸惑いつつも自己納得した一瞬である。わかりにくい句だが、読み捨てにはできない魅力を覚えた。人は誰にも、自分にも思いがけないこうした「純情」がかくされてあるのではあるまいか。『恋々』(2011)所収。(清水哲男)


June 2962015

 僕が訛って冷し中華を食う獏なり

                           原子公平

人かで昼下がりの食堂に入る。それぞれが注文していく過程で、「ぼくは冷し中華」と言うべきところを、「ばくは冷やし…」と訛ってしまった。「ぼくは」と「ばくは」のわずかな差異。その場にいた仲間は、別に気にもせずに、あるいは気がつかずに、別の話をしている。ところが、作者はひとりそのことを気に病んでいる。最近、そうしたちょっとした言い間違いが多いからだ。トシのせいかなと気に病み、やっぱりそうだろうなと自己納得している。言い間違いに限らず、老人の域にさしかかってくると、そんな些細な間違いが気になって仕方がない。運ばれてきた冷し中華に箸をはこびながら、「ぼく」と「ばく」、「僕」と「獏」か。となればさしずめ今の俺は夢を食う「獏」のように冷し中華を食っているわけだ…。その場の誰も気づいてはいないけれど、俺だけは半ば夢のなかで食事をしていることになる。そう思えば、ひとりでに笑えてくるのでもあり、逆に切ない気持ちのなかに沈み込むようでもある。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)




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