「船団」対「余白句会」。嵐を呼ぶか。と思ってたら、嵐は逸れて土砂降り予想。




2003ソスN5ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3152003

 螢火を少年くれる少女くれず

                           橋本美代子

語は「螢火(ほたるび)」で夏。何人かの友人知己とその子供たちと一緒に、蛍狩りに出かけた。帰りがけに、螢を捕らなかった作者に気のついた「少年」が、「あげるよ」と言ってくれた。しかし、そんな様子を見ていた「少女」は、くれるそぶりも見せないのだった。一般論として、このシチュエーションはよくわかる。私の体験からしても、少女よりも少年のほうが、万事に気前がよろしい。女の子は、総じてケチである。でも掲句は、そういうことだけを軽く詠んだのではないと思う。少年と少女の行為は並列されているけれど、実は作者の心中の焦点は、少年にではなく少女に合わされているのだと考える。たかが螢ごときを後生大事に抱え込んで離さない少女の性(さが)が、同性である作者にはよくわかるからだ。彼女がくれなかったのは、単なる吝嗇からというのではなくて、もっと女に根ざした深いところから発していることが……。そのことが哀れとも思われ、悲しさとも写る。むろん、この暗い思いは、少女を通じて作者自身にも向けられている。一見さらりと言い捨てたような句のなかに、作者の哀感が、それこそ闇夜の螢火のようにか細くも明滅している。作者・橋本美代子は橋本多佳子の四女にあたる。『巻貝』(1983)所収。(清水哲男)


May 3052003

 蜘蛛の圍に蜂大穴をあけて遁ぐ

                           右城暮石

川博年が、神田の古本屋で見つけたからと、戦後十年目に出た角川文庫版の歳時記を送ってくれた。現在の角川版に比べると、例句はむろんだが、項目建てもかなり違っている。たとえば掲句の季語「蜘蛛の圍(くものい)」も、いまでは「蜘蛛」の項目に吸収されているけれど、その歳時記には独立した項目として建てられている。それほど、まだ蜘蛛の巣がポピュラーだったわけだ。ついでに、解説を引いておこう。「蜘蛛そのものは決して愛らしい蟲ではないが、雨の玉をいつぱいちりばめて白く光つている網は美しい。風に破れた網は哀れな感じがする。つくりかけてゐる網を見てゐると迅速で巧緻なのに驚く」。掲句の句意は明瞭で、解説の必要はない。誰にでも思い当たる親しい光景だった。網を破られた蜘蛛がかわいそうだというのではなく、作者はむしろ微笑している。蜘蛛の巣はそれこそ「迅速に」何度でも再生できるので、心配する必要がないからだ。田舎での少年期には、蜘蛛の巣にはずいぶんとお世話になった。針金を円状にして竿の先に付け、こいつに蜘蛛の巣を巻き付けて蝉捕りをやった。まあ、蜘蛛の餌捕りの真似をしていたわけだ。油蝉などはたいていの蜂よりもよほど強力だから、句のような弱い網だと、簡単に遁(に)げられてしまう。だから、太くて粘着力の強い蜘蛛の巣を見つけるのが一苦労で、実際の蝉捕りより時間がかかることも多かった。やっと見つけて、慎重にくるくると巻き付ける感触には何とも言えない充実感を覚えたものだ。本当はこんなことがお釈迦様に知れるとまずいのだけれど、ま、いいか。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


May 2952003

 噴水が驛の板前のごと頭あげ

                           竹中 宏

だまし絵
語は「噴水」で夏。何故、こんな絵を持ち出したかについては後述する。句の実景としては、「驛(駅)」の噴水が「頭(づ)」をあげたところだ。その様子が、多く下俯いて仕事をする「板前」職人がふっと頭を上げたように見えたと言うのである。という解釈は、実はあまり正しくない。問題は「驛の板前のごと」だ。実景は「驛に」であり、作者もそこから出発してはいる。だが、見たままをそのまま書いたのでは、この噴水の様子に接したときの自分の気持ちがきちんと表せない。「驛に」としたのでは、どこか不十分なのだ。そこで、強引に「驛の板前」と現実を歪めてみて、やっと自分の感覚に近くなったということだろう。実際には存在しない「驛の板前」を句中に置くことにより、何の変哲もない噴水の様子が異化され、作者にとってのリアリティが定着できたのだった。この方法は、サルトルの詩論に出てくる「バターの馬」と同様で、日常的には無関係なバターと馬とをくっつけることにより、そこにぽっと詩が浮き上がってくる。いままで見えなかった世界が、眼前に開けてくるのだ。作者は新しい句集の自跋で、アナモルフォーズという絵画図法について、熱心に述べている。美術の世界ではお馴染みの用語であるアナモルフォーズは、簡単に言うと「だまし絵」的な描画法を指す。この絵はハンス・ホルバインの『大使たち』(1533)で、アナモルフォーズというと決まって引き合いに出される有名な作品だ。さて、何が見えるのか。二人の男と雑多な器物は、誰にでもそのままに見える。が、注意深く見ると、絵の下方になにやら奇妙に傾いた板状のものがあることに気がつく。何だろうか、これは。と、いくら目をこらしてもわからない。わからないはずで、ホルバインはこの部分だけを正面からの視点で画いてはいないからだ。視点をずらして画面の右横あたりから見ると、くっきりと見えてくるものがある。はて、何でしょう。つまり、この絵で画家は、一つの視点から眺めただけでは世界の諸相や真実はとらえきれないと言っているのだ。アナモルフォーズを巡る議論は多々あって、とてもここでは紹介しきれないので、関心のある方はそれなりの書物を開いていただきたい。掲句に戻れば、「驛に」が正面からの視点だとすると、「驛の」が右横からのそれである。この二つの視点を、重ね合わせて同時に読者に差し出しているという見方が、私の解釈の出発点であった。『アナモルフォーズ』(2003・ふらんす堂)所収。(清水哲男)




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