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2003ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2952003

 噴水が驛の板前のごと頭あげ

                           竹中 宏

だまし絵
語は「噴水」で夏。何故、こんな絵を持ち出したかについては後述する。句の実景としては、「驛(駅)」の噴水が「頭(づ)」をあげたところだ。その様子が、多く下俯いて仕事をする「板前」職人がふっと頭を上げたように見えたと言うのである。という解釈は、実はあまり正しくない。問題は「驛の板前のごと」だ。実景は「驛に」であり、作者もそこから出発してはいる。だが、見たままをそのまま書いたのでは、この噴水の様子に接したときの自分の気持ちがきちんと表せない。「驛に」としたのでは、どこか不十分なのだ。そこで、強引に「驛の板前」と現実を歪めてみて、やっと自分の感覚に近くなったということだろう。実際には存在しない「驛の板前」を句中に置くことにより、何の変哲もない噴水の様子が異化され、作者にとってのリアリティが定着できたのだった。この方法は、サルトルの詩論に出てくる「バターの馬」と同様で、日常的には無関係なバターと馬とをくっつけることにより、そこにぽっと詩が浮き上がってくる。いままで見えなかった世界が、眼前に開けてくるのだ。作者は新しい句集の自跋で、アナモルフォーズという絵画図法について、熱心に述べている。美術の世界ではお馴染みの用語であるアナモルフォーズは、簡単に言うと「だまし絵」的な描画法を指す。この絵はハンス・ホルバインの『大使たち』(1533)で、アナモルフォーズというと決まって引き合いに出される有名な作品だ。さて、何が見えるのか。二人の男と雑多な器物は、誰にでもそのままに見える。が、注意深く見ると、絵の下方になにやら奇妙に傾いた板状のものがあることに気がつく。何だろうか、これは。と、いくら目をこらしてもわからない。わからないはずで、ホルバインはこの部分だけを正面からの視点で画いてはいないからだ。視点をずらして画面の右横あたりから見ると、くっきりと見えてくるものがある。はて、何でしょう。つまり、この絵で画家は、一つの視点から眺めただけでは世界の諸相や真実はとらえきれないと言っているのだ。アナモルフォーズを巡る議論は多々あって、とてもここでは紹介しきれないので、関心のある方はそれなりの書物を開いていただきたい。掲句に戻れば、「驛に」が正面からの視点だとすると、「驛の」が右横からのそれである。この二つの視点を、重ね合わせて同時に読者に差し出しているという見方が、私の解釈の出発点であった。『アナモルフォーズ』(2003・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


May 2852003

 蟻地獄ことのあとさき静かなる

                           杉浦恵子

語は「蟻地獄」で夏。蟻などの小さな昆虫を捕らまえて食べることから、この名がついた。こやつは幼虫(成虫が薄羽蜉蝣)ながら、まことに無精にしてずる賢さに長けた虫だ。などと安易に擬人化してはいけないのだが、とにかく砂地に適当に穴を掘って、日がな一日じいっと獲物が落ちてくるのを待っている。昔は、縁の下などでよく見かけたものだ。句の「こと」は、獲物を引っかけた直後に起こる惨劇を指しており、なるほどその「あとさき」は何事もなかったように不気味に静まりかえっている。直接的には、この解釈でよいだろう。が、句はここで終わらない。惨劇を「こと」とぼかしたことにより、この「こと」について読者が自在にイメージをふくらますことができるからである。それでなくとも蟻地獄という言葉自体が連想を呼びやすく、加えて「こと」のぼかしなのだから、たとえ意識を直接的な出来事だけに集中したとしても、イメージはおのずからふくらんでしまうと言うべきか。つまり、読者は自然に虫の世界の出来事から浮き上がって、程度の差はいろいろあるにしても、人間世界のあれこれに思いが至ってしまうのだ。作者が、どこまでこの構造を意識して詠んだのかは知らない。が、そんなこととは無関係に、掲句は、いやすべての俳句は、このようにして勝手にひとりで歩いていく。『旗』(2002)所収。(清水哲男)


May 2752003

 昼酒や真田の里の青あんず

                           井本農一

語は「あんず(杏)」で夏。「真田の里」といえば、智将真田幸村(信繁)などで知られる真田家発祥の地の長野県真田町のことだが、近くの更埴市が杏の名産地であることを考え合わせると、必ずしも真田町で詠まれた句と限定しなくてもよいだろう。なによりも、ゆったりとした句柄に惹かれる。時間軸に真田家三代の歴史を置き、空間には鈴なりの杏の珠をちりばめ、そのなかの一点で、作者が静かに昼の酒を味わっている構図の取り方が、実にさりげなくも巧みと言うべきだ。まだ熟していない「青あんず」には、悲劇のヒーロー・幸村の、ついに一歩及ばず熟することのなかった夢が明滅しているかのようである。そして、いかにも旨そうな酒の味。こんな酒なら、日本酒を飲まない私も、少しは付きあってみたくなった。でも、駄目だろうな。とても、こんなふうには詠めないという自信がある。元来が短気でせかせかした性格だから、とりわけて旅行中などは、なかなかゆったりとその場その場を味わうことができないからだ。次へ次へと、旅程のことばかりが気になるのである。逆に、そんな性格だからこそ、掲句のゆったりした世界に惹かれるということだろう。泰然たる人を見かけると、いつだって、つくづく羨ましいと思ってきた。それこそ、ついに熟することのない私のささやかな夢が、掲句にくっきりと炙り出された格好だ。作者の井本農一は、中世・近世文学、特に俳文学が専門の学者で、『日本の旅人・宗祇』『おくのほそ道をたどる』『芭蕉=その人生と芸術』など多くの著書がある。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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