やっと句集の原稿をまとめた。俳句はいじりだせばキリがない。えいっ、の心境。




2003ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1452003

 ナイターの黒人の眼にふと望郷

                           和湖長六

ょっと説明的かな。その点は惜しいけど、野球をテレビではなく球場でよく見ている人の句だと思った。サッカーなどとは違って、野球は休み休みやるスポーツだ。選手も観客も常にハイ・テンションでいるわけではなく、緊張感に緩急がある。そこが心地よい。だから観客は、ビールを飲んだり弁当を食べたりすることもできる。それがテレビで観ると、とにかく画面は無理にでも緊張を強いるように演出され作られているので、球場での楽しみの半分は減殺されてしまう。遠くの方で、ぽつんと取り残されているような選手の姿を写すことはない。作者は黒人選手の眼に、ふと彼の「望郷」の念を嗅ぎ取っているが、これも球場ならではの感じ方だ。テレビだと、どんな外国人選手も、仕出し弁当のようにそこに存在するのが当然だとしか見えないが、スタンドからは違う。「ああ、遠くからやってきた男なんだ」と、ひとりでに感じられる。だから、望郷という言葉にも違和感はない。掲句を読んで、それこそ「ふと」思い出されたのは、60年代の後半にヤクルトにいたルー・ジャクソン外野手のことだ。「褐色の弾丸」と言われて私も好きな選手だったが、グラウンドでの姿はいつもどこか寂し気だった。「助っ人」の哀しみを背負ったような男だった。そこそこの成績は残していたのだが、四年目の初夏のころだったか、突然打席のなかで倒れ、二度と立ち上がれずに死んだ。一説によると、日本の食事が口に合わず、焼鳥ばかり食べつづけた結果だという。遺体は、横田基地から軍用機でタンパに運ばれた。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


May 1352003

 昂然と仏蘭西日傘ひらきけり

                           櫂未知子

まどきの男は「日傘」はささない(昔の関西では、中年以上の男もよくさしていた)ので、「ひらきけり」の主体は女性だ。ところで、開いたのは作者自身だろうか、それとも目の前の相手だろうか。ふつう「昂然と」は他者に用いる言葉だと思うけれど、この句では自分の気分に使われたと読むのも面白い。なにしろそこらへんの日傘とは違って、「仏蘭西(フランス)」製なんだもんね。周囲に人がいるかいないかに関わらず、これみよがしにさっと開く気持ちには、昂然たるものがあるだろう。いざ出陣という気分。これが目の前の相手が開いたとすると、どこか尊大に見えてイヤ〜な感じ……。どちらだろうか。いずれにしても、人が日ごろ持ち歩くものには、単なるツールを越えた意味合いが付加されている。愛着もあるしお守り的な意味があったり、むろん見栄を含む場合もある。掲句の主体が誰であるにしても、言わんとすることはそういうことだろう。日傘は、単に陽射しを遮れはいいってものじゃないんだ。掲句を読んですぐに思い出したのが、津田このみの一句だった。「折り合いをつけにゆく日やまず日傘」。これも良い句だ。この日傘もツールを越えて、防御用か攻撃用か、とにかく作者はほとんど武器に近い意味合いを含ませている。男で思いつく例だと、ニュースキャスターの久米宏がいつも持っているボールペン(かな?)がそうだ。彼はあれでメモをとるわけじゃない。そんな場面は一度も見たことがないし、そんな必要もない。でも、片時も手放さないのは、彼にはきっとお守りか武器の意味合いがあるからなのだろう。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


May 1252003

 早乙女のうしろしんかんたるつばめ

                           田中鬼骨

語は「早乙女(さおとめ)」で夏。田植えをする女性のこと。本義では田の神に仕える清らかな少女とされるが、現実的には田植えをする女性は老若を問わず少女とみなされたようで、誰もがみな早乙女なのである。田植えは辛抱強さが要求されるから、どちらかといえば女性に適った仕事だと思う。多くの句に詠まれている早乙女は、田植えを一気に片づけるために雇われた季節労働者だ。呑気に田植え歌などを歌いながらの仕事ではなく、日がな一日泥田を這い回る過酷な仕事をこなす女性たちのことだった。この句を読むと、作者が田植えの実践者であることがわかる。経験のない人には、なかなかこうは詠めない。というのも、後へさがりながら植えていく仕事だから、田植え人が気にするのは、いつも後方である。目の前にある植え終えた状態が成果なのではなく、後に残っっているスペースの狭さ広さが成果というわけだ。だから、自分とは無関係の田植えを見かけても、必ず反射的に「うしろ」を見てしまう。作者もそうやって見て、まだまだ「早乙女のうしろ」には広大なスペースが残されていている様子を詠んでいる。「しんかんたるつばめ」は単に黙って飛ぶ「つばめ」の状態を言ったのではなく、彼女らの後方に「つばめ」を飛ばすことで、残された仕事のための空間の大きさを暗示した言葉だと読める。漢字を当てるとすれば「森閑」よりも「深閑」に近いのかもしれないが、そのどちらのニュアンスも含めるために、あえて平仮名表記にしたのだろう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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