月末に「余白句会」対「船団」バトル句会。興味のある方はどうぞ。詳細はここで。




2003ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752003

 郭公や夜明けの水の奔る音

                           桂 信子

語は「郭公(かっこう)」で夏。私の田舎ではよく鳴いたが、いまでも往時のように鳴いているだろうか。どこで聞いても、そぞろ郷愁を誘われる鳴き声である。掲句は、旅先での句だろう。というのも、慣れ親しんだ自分の部屋での目覚めでは、ほとんど外の音は聞こえてこないはずのものだからだ。もちろん、四囲には常に何かの音はしている。が、それこそ慣れ親しんでいる音には、人はとても鈍感だ。鈍感になれなければ、とても暮らしてはいけない場所もたくさんある。でも、平気で住んでいる。私はこれまでに二度、街のメインストリートに面した部屋で寝起きしたことがあるけれど、すぐに音は気にならなくなった。たとえ郭公の声であれ「水の奔(はし)る音」であれ、同じこと。土地の人には、そんなには聞こえていないはずなのだ。それが旅に出ると、土地の人にはごく日常的な音にもとても敏感になる。旅人は、まず耳から目覚めるのである。だから、地元の人は、こういう句は作らないだろう。いや、作る気にもならないと言うべきか。作るとしても、郭公の初鳴きを捉えるくらいがせいぜいだ。それも、掲句のように、郭公の鳴き声が主役になることはないと思う。句意は明瞭で、こねくりまわしたような解釈は不要だろう。単純にして美しい音風景だ。その土地の音の美しさは、よその土地の人が発見する。私がこねくりまわしたかったのは、そこらへんの事情についてであった。『緑夜』(1981)所収。(清水哲男)


May 0652003

 駅員につぎつぎと辞儀遠足児

                           森口慶子

語は「遠足」で春季とするが、今月一杯くらいは遠足の子供たちをよく見かける。ほほ笑ましい句だ。軽いけれど、スケッチ句としての軽さが生きている。子供らは、出発前に言い含められて来たのだろう。お世話になる人、なった人には必ずお辞儀をすること、お礼を言うこと。で、早速改札口での実践となったわけだ。困惑しつつも微笑している駅員の姿が、目に浮かぶ。最近は、挨拶もロクにできない若者が増えているせいか、教育現場では挨拶の仕方に力を入れているのだろうか。句の情景がその反映だとしたら、いささかやり過ぎではあるにしても、好ましいことだ。子供たちは、こうやって挨拶体験の機会を重ねていくうちに、馬鹿丁寧はかえって失礼になるなど、自分なりに適切な方法を覚えていくだろう。挨拶で、ひとつ思い出した。飲食店で勘定を払った後で「ご馳走さまでした」と言う人がいるけれど、あれは変な挨拶だと詩人の川崎洋がどこかに書いていた。普通の家庭でご馳走になったのではなく、商売で飲食物を提供しているのだから、別に店側は客にご馳走しているわけじゃない。だから変なのだけど、かといって、金を払ってムスッと店を出るのもはばかられる。そういうときには「お世話様」と、川崎さんは言うことにしているそうだ。つまり、決してご馳走にはなっていないのだが、その店ならではの人的サービスは受けている。そのサービスへの挨拶としての「お世話様」ということだろう。タクシーを降りるときなども、同じである。以来、私も「お世話様」組となっている。他に何か適切な言葉はないかと探してはみているが、どうも「お世話様」以上にピンとくる言葉はないようだ。『楽想』(2003)所収。(清水哲男)


May 0552003

 姉三人丁丁と生き煮そうめん

                           北川孝子

兄弟はあまり集まらないが、何かにつけて女姉妹はよく集まる。古今東西、どういうわけか、そういうことになっている。夏場の「そうめん(素麺)」といえば冷や素麺と決まったようなものだが、たまには熱い素麺も美味い。「煮そうめん」は澄まし汁で食べるさっぱり味の湯麺(にゅうめん)ではなく、味噌などで煮込んだ濃い味のものだろう。「丁丁(ちょうちょう)と生き」が面白い。「丁丁」は一般的には擬音で、鐘の音など、かん高い音が続いて響くさまを表す言葉だ。が、作者はこれを姉たちの生きてきた様子になぞらえている。子供のころから、いつも元気で屈託が無く、かん高くもたくましい生活者のありように、なるほど「丁丁と」とは言い得て妙ではないか。引き比べて、同じ姉妹でも、私はかなり違うようだ。彼女たちのように、闊達に生きてきたとはとても言えない。どうしてなんだろう。会うたびに、そう思う。このちょっとした疑念が、煮そうめんの濃い味にからまってくる感じで、既にあっけらかんと食べ終わっているであろう姉たちとの対比を、より色濃いものにしている。今日は「こどもの日」。小さいころの気質や性格は、そして兄弟姉妹の関係のありようも、よほどのことがないかぎり、大人になっても変わらないものだと思う。そういう目で、今日という日の子供らをあらためて見つめてみるのも、大人にとっての「こどもの日」の存在意義の一つかもしれない。なお掲句は、便宜上夏の季語「冷素麺」に分類しておく。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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