2003N5句

May 0152003

 燕の巣母の表札風に古り

                           寺山修司

司、十代の句。この人にしては、珍しく写生的で、情景のくっきりとした句だ。軒先に燕が巣を作った。子燕たちが鳴き立てているので、見るともなしに見やったというところか。当たり前のことながら、軒下には「表札」がかかっている。両者は、同時に視野の中にある。でも、たいていの感受性ならば、元気な子燕の姿に微笑して、表札などは気にも止めずに立去ってしまうだろう。たとえそこに、父親のいない家庭を示している「母の表札」がかかっていようともだ。平凡な日常にあって、親の名前の書いてある表札をしげしげと眺めるなど、少なくとも私には経験がない。だが、ここでしぶとく一粘りするのが修司少年の詩心なのである。元気な子燕と母親の表札との取りあわせから、何か普遍性のある物語が紡ぎ出せないものかと粘るのだ。この取りあわせ自体が、既に十分に物語性をはらんではいる。しかし、これを下手に読者に突き出すと、単に同情を買いたがっているかのような、ひどくあざとい句になってしまう。その臭みを消すためにはどうすればよいのかと、下五をだいぶ考えたのではなかろうか。で、しごく平凡に見える「風に古り」と置くことにした。故意に、凡庸と思われる言葉を置いたのである。これで取り合わせの臭みは消え、さりげない哀感が滲み出てくる仕掛けが完成したというわけだ。ま、こんなふうに句を分解して考えるのは悪趣味かもしれないが、掲句に限らず、さりげなさを演出する俳句のダンディズムは、おおかたこのような形をしているのだろうと思ったことである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)


May 0252003

 原節子・小津安二郎麦の秋

                           吉田汀史

優と監督と映画の題名(正確には「麦の秋」ではなく『麦秋』[1951・松竹大船]だが)を並べただけの句だ。しかし、こうして並べるだけで、ある世界がふうっと浮かんでくるのだから不思議だ。その意味で、手柄はやはり並べてみせた作者にあると言うべきだろう。良し悪しや好き嫌いはともかくとして、血縁や地縁などがまだ濃密に個人に関わっていた時代の世界。そこに漂っている静かな空気は、小津が好んだ中流以上の階級のものではあるけれど、常に懐しさと優しさに満ちていて、よくぞ日本に生れけりの感を観客にもたらしたものだった。ご存知のように、小津映画にはさしたるドラマ性はない。『麦秋』は、婚期を逸した原節子(といっても、二十八歳という設定だ)が、周囲の暗黙の反対を押しきって、妻を無くした医師の後添えとして結婚を決意するというだけの話だ。小津は、このようなどこにでもありそな日常をきめ細かく丁寧に描くことで、凡百のドラマ映画をしのぐ劇映画を撮りつづけた。ストーリー性よりもディテールの描写を大切にしたところは、どこか俳句作りに似ていないだろうか。事実、小津は俳句もよくした人であり、百句以上の句が残っている。たとえば「小田原は灯りそめをり夕心」などは、あまりにも小津映画的な句と言ってよいだろう。映画のタイトルに「麦秋」「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」など季節の言葉が多いのも、俳句との仲の良さを色濃く感じさせる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


May 0352003

 鯉のぼり布の音立て裏日本

                           秋沢 猛

じめは、干してあるのかと思った。数年前のこと。この時期に近所を散歩していると、新築とおぼしき家の二階のベランダから屋根にかけて、とてつもなく大きな「鯉のぼり」が広げられていた。ちょうど、布団を干すときのような広げ方だったので干してあるのかと思ったのだが、そうではないことにすぐに気がついた。その家には、庭らしい庭がないのだった。以前の家では空を泳がせていたのが、越してきて不可能となり、仕方なく屋根に広げて祝うことにしたのだろう。そう勝手に推測して、なんだか切なくなってしまったことを覚えている。掲句の鯉幟は、むろん勢い良く空を泳いでいる。当たり前の話だが、やはりこうでなくては……。「布の音立て」が秀抜だ。言われてみればなるほど、「裏日本」の湿り気のある大気のなかでは、立てる音も乾燥した地方のものとは違うだろう。どこか布地のこすれるような音がするのだ。それがまた、裏日本特有の濃い緑の背景とあいまって、格別の風情を醸し出しているという句だ。ところで「裏日本」という言葉は、差別用語だという理由で、三十年ほど前くらいからマスコミでは使わなくなっている。私は「裏日本」育ちで、なんとも思わずに「裏日本」と使っていたけれど、どうなんだろう、やっぱり差別なのかしらん。「日本海側」と言い換えてすむ場合はよいとして、では、この佳句をいったいどうしてくれるんだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0452003

 ちまき買ひ交通難の刻過ごす

                           杉山岳陽

かったようで、わからない句。家族のために「ちまき(粽)」を買い求め、少しでも早く帰りたいのだが、「交通難」のせいで苛々させられている。ここまではわかるのだけれど、しからば、このときの作者は物理的にはどんな状態にあるのだろうか。つまり、交通難とは何を指して言っているのかがわからないのだ。現代の感覚からすると、交通渋滞ということになりそうだが、この句は出典の発行年からして、1960年代以前に詠まれている。ほんの一部の地域を除いては、まだ渋滞は一般的ではなかったころの句だ。むろん、そんなにマイカーは普及していない。そこでネットを走り回って調べてみたところ、専門家の間では、交通渋滞と交通難とでは定義の違うことがわかった。交通渋滞はいまどきの私たちが体験しているそれであるが、交通難は交通機関が乏しい、インフラの整備が遅れている状態を指すのである。該当する一般的な用例としては、こんなのがあった。「最近の大阪は、東京と同じく交通難だった。午後三時を過ぎると、御堂筋でも、なかなか空車がつかまらない」(梶山季之『黒の試走車』1962)。明らかに、交通渋滞ではないことがわかる。そんなこんなを考え合わせると、掲句の作者の場合も、この状態にあるのだと思われる。タクシー待ちとは限らないにしても、バスや市電を待っているが、なかなか来ないので苛々している図だ。ああ、言葉は難しい。言語難。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 0552003

 姉三人丁丁と生き煮そうめん

                           北川孝子

兄弟はあまり集まらないが、何かにつけて女姉妹はよく集まる。古今東西、どういうわけか、そういうことになっている。夏場の「そうめん(素麺)」といえば冷や素麺と決まったようなものだが、たまには熱い素麺も美味い。「煮そうめん」は澄まし汁で食べるさっぱり味の湯麺(にゅうめん)ではなく、味噌などで煮込んだ濃い味のものだろう。「丁丁(ちょうちょう)と生き」が面白い。「丁丁」は一般的には擬音で、鐘の音など、かん高い音が続いて響くさまを表す言葉だ。が、作者はこれを姉たちの生きてきた様子になぞらえている。子供のころから、いつも元気で屈託が無く、かん高くもたくましい生活者のありように、なるほど「丁丁と」とは言い得て妙ではないか。引き比べて、同じ姉妹でも、私はかなり違うようだ。彼女たちのように、闊達に生きてきたとはとても言えない。どうしてなんだろう。会うたびに、そう思う。このちょっとした疑念が、煮そうめんの濃い味にからまってくる感じで、既にあっけらかんと食べ終わっているであろう姉たちとの対比を、より色濃いものにしている。今日は「こどもの日」。小さいころの気質や性格は、そして兄弟姉妹の関係のありようも、よほどのことがないかぎり、大人になっても変わらないものだと思う。そういう目で、今日という日の子供らをあらためて見つめてみるのも、大人にとっての「こどもの日」の存在意義の一つかもしれない。なお掲句は、便宜上夏の季語「冷素麺」に分類しておく。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0652003

 駅員につぎつぎと辞儀遠足児

                           森口慶子

語は「遠足」で春季とするが、今月一杯くらいは遠足の子供たちをよく見かける。ほほ笑ましい句だ。軽いけれど、スケッチ句としての軽さが生きている。子供らは、出発前に言い含められて来たのだろう。お世話になる人、なった人には必ずお辞儀をすること、お礼を言うこと。で、早速改札口での実践となったわけだ。困惑しつつも微笑している駅員の姿が、目に浮かぶ。最近は、挨拶もロクにできない若者が増えているせいか、教育現場では挨拶の仕方に力を入れているのだろうか。句の情景がその反映だとしたら、いささかやり過ぎではあるにしても、好ましいことだ。子供たちは、こうやって挨拶体験の機会を重ねていくうちに、馬鹿丁寧はかえって失礼になるなど、自分なりに適切な方法を覚えていくだろう。挨拶で、ひとつ思い出した。飲食店で勘定を払った後で「ご馳走さまでした」と言う人がいるけれど、あれは変な挨拶だと詩人の川崎洋がどこかに書いていた。普通の家庭でご馳走になったのではなく、商売で飲食物を提供しているのだから、別に店側は客にご馳走しているわけじゃない。だから変なのだけど、かといって、金を払ってムスッと店を出るのもはばかられる。そういうときには「お世話様」と、川崎さんは言うことにしているそうだ。つまり、決してご馳走にはなっていないのだが、その店ならではの人的サービスは受けている。そのサービスへの挨拶としての「お世話様」ということだろう。タクシーを降りるときなども、同じである。以来、私も「お世話様」組となっている。他に何か適切な言葉はないかと探してはみているが、どうも「お世話様」以上にピンとくる言葉はないようだ。『楽想』(2003)所収。(清水哲男)


May 0752003

 郭公や夜明けの水の奔る音

                           桂 信子

語は「郭公(かっこう)」で夏。私の田舎ではよく鳴いたが、いまでも往時のように鳴いているだろうか。どこで聞いても、そぞろ郷愁を誘われる鳴き声である。掲句は、旅先での句だろう。というのも、慣れ親しんだ自分の部屋での目覚めでは、ほとんど外の音は聞こえてこないはずのものだからだ。もちろん、四囲には常に何かの音はしている。が、それこそ慣れ親しんでいる音には、人はとても鈍感だ。鈍感になれなければ、とても暮らしてはいけない場所もたくさんある。でも、平気で住んでいる。私はこれまでに二度、街のメインストリートに面した部屋で寝起きしたことがあるけれど、すぐに音は気にならなくなった。たとえ郭公の声であれ「水の奔(はし)る音」であれ、同じこと。土地の人には、そんなには聞こえていないはずなのだ。それが旅に出ると、土地の人にはごく日常的な音にもとても敏感になる。旅人は、まず耳から目覚めるのである。だから、地元の人は、こういう句は作らないだろう。いや、作る気にもならないと言うべきか。作るとしても、郭公の初鳴きを捉えるくらいがせいぜいだ。それも、掲句のように、郭公の鳴き声が主役になることはないと思う。句意は明瞭で、こねくりまわしたような解釈は不要だろう。単純にして美しい音風景だ。その土地の音の美しさは、よその土地の人が発見する。私がこねくりまわしたかったのは、そこらへんの事情についてであった。『緑夜』(1981)所収。(清水哲男)


May 0852003

 谺して山ほととぎすほしいまゝ

                           杉田久女

女の名吟として、つとに知られた句。「谺」は「こだま」。里ではなく、山中という環境を得て自在に鳴く「ほととぎす」の声の晴朗さがよく伝わってくる。読者はおのずから作者と同じ場所に立って、少しひんやりとした心地よい山の大気に触れている気持ちになるだろう。おもわずも、一つ深呼吸でもしたくなる句だ。作者は下五の「ほしいまゝ」を得るまでに、かなりの苦吟を重ねたといわれる。確かに、この「ほしいまゝ」が何か別の言葉であったなら、この句の晴朗さはどうなっていたかわからない。よくぞ思いついたものだが、なんでもある神社にお参りした帰り道で白い蛇に会い、帰宅したところで天啓のようにこの五文字が閃いたのだそうだ。となれば、句の半分は白い蛇が作ったようなものだけれど、白い蛇と言うから何か神秘的な力を想像してしまうのであって、詩歌の創作にはいつでもこのような自分でもよくわからない何かの力が働くものなのだ。ついに理詰めには行かないのが詩歌創作の常であり、とりわけて俳句の場合には、言葉はむしろ自分から発するというよりも、どこからか降ってくるようなものだと思う。作者が動くのではなく、対象が客のように向こうからやってくるのだ。やってくるまで辛抱強く待つ状態を指して、苦吟と言う。その苦吟の果てに、この五文字を感得したときの久女の喜びはいかばかりだったろう。咄嗟にあの白い蛇のおかげだと思ったとしても、決して頭がどうにかなったわけではないのである。『杉田久女句集』(1969)などに所収。(清水哲男)


May 0952003

 舗装路に黒穂東京都に入れり

                           中島まさを

語は「黒穂(くろほ)」で夏。病気にかかった麥を言うので、分類は「麥」に。いつごろの句だろうか。高度成長期ではあろうが、まだ初期の段階と思われる。作者は地方から列車で出てきて、句の光景を車窓から見ているのだと思う。マイ・カー時代は少し先の話である。東京周辺部ではまだ「舗装路」が珍しかったころなので、舗装路が見えたときに「東京都」に入ったことに気がついたのだ。周辺にはまだ昔ながらの麥畑が広がっているのだが、そのところどころに黒い穂が混じっている。とにかく、畑に勢いがない。環境破壊や公害が表立って問題にされることもなかったころに、いちはやく田舎の人の目はこのようにして、病んでいく東京に気がついていたのだった。「東京」ではなくて、故意に「東京都」としたところが句の眼目であり、痛烈に皮肉が効いている。現在だと、どうだろう。どんな光景に「東京都」に入ったことを感じられるだろうか。もはや、広がっている光景の変化だけで感じ取るのは無理かもしれない。他県との境界にある何らかのモニュメントを知っているか、あるいは山や川の地勢に通じているかしないと、行政区分上の「東京都」への入り口はわからなくなってしまったようだ。「東京都」が周辺に膨張しつづけた結果であり、いまなお膨張はつづいている。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 1052003

 自販機にしやがむ警官栗の花

                           佐山哲郎

語は「栗の花」で夏。まだ、花期には少し早いかな。句の眼目は「警官」を「しやが」ませたところにある。警官もいろいろだが、いわゆる「お巡りさん」だ。何か飲み物でも買ったのだろう。「自販機」だからしゃがまざるを得ないのだが、こういうところを見かけないかぎり、警官はいつも表では立っている存在だ。職業柄とはいえ、常に人を疑うという緊張感は相当なものだろう。しかし、疲れたからといって、しゃがんでいたのでは仕事にならない。まず、自分の姿勢が無防備に見えてはならない職業なのだ。そんな警官が、ふっとしゃがんだ。一瞬、無防備な姿勢になった。そこを見逃さずに詠んだ作者の観察力は、なかなかに鋭い。でも、栗の花との取りあわせの妙味はどこにあるのだろうか。ちょっと考えさせられた。おそらく、高いところで咲く花の形状ではなくて、あの独特の匂いを詠み込んだのではなかろうか。甘いような青臭いような匂いは、たとえれば女の匂いではなく、男の匂いである。普段はさして性を感じさせることのない警官に、作者はこのとき、不意に男臭さ、人間臭さを感じたのだと思う。人はたぶん、無防備なときにこそ、いちばん人間臭さやその人らしさを発散するのだろう。ちなみに、作者は浄土宗の住職である。こっちは警官とは逆に、坐っているイメージの強い仕事ですな。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


May 1152003

 目高泳ぐ俳句する人空気吸えよ

                           豊山千蔭

語は「目高(めだか)」で夏。私なら春期としたいところだが、夏場に水槽などに飼われ、涼味を鑑賞されたことからの分類のようだ。金魚や熱帯魚と同じ扱いである。でも、いまどき目高と聞いて、水槽の中に泳ぐ姿を思い浮かべる人がいるだろうか。なんとも違和感を覚える分類だけれど、俳句ではそういう約束事になっているのだから、誰もが夏の魚として詠んできた。このように、俳句には常識では首をかしげたくなるような約束事が多い。門外漢には隠語としか思えない季語もあるし、不可解な用語法もある。だから「俳句する人」は勉強しなければならないし、様式に慣れなければならない。特別な研鑽を積む必要がある。となると、つまるところ俳句は「俳句する人」だけにしかわからない文芸であり、結局は仲間内の詩だと断じても、あながち的外れな指摘とは言えないだろう。初心のころはともかく、こうして多くの「俳句する人」は、だんだん俳句世界のなかだけで「空気」を吸うようになっていく。公園や名所などで、句になりそうな動植物に群がっている手帖片手の人たちを散見するが、見ていて哀れだ。いまさら目を見張ってみたところで、そんなに急に何かが見えてくるわけじゃない。いくら目の前にそれがあっても、見え方はその人の器量にしたがって見えるだけなのだ。人の器量は、人生経験やら勉強した知識やら生得の感覚やら、その他の何やかやで構成される。決して、俳句だけで培った何やかやだけじゃないはずだ。ところが、往々にして「俳句する人」は俳句の器量だけで物事を見るようであり、そこから詠んでいくようであり、ますます仲間内の文芸を固めていくようである。まるで水槽のなかの目高なんだね、これは。掲句の作者は、それではいけないと言っている。もっと俳句の外の「空気吸えよ」と、俳句で言っている。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


May 1252003

 早乙女のうしろしんかんたるつばめ

                           田中鬼骨

語は「早乙女(さおとめ)」で夏。田植えをする女性のこと。本義では田の神に仕える清らかな少女とされるが、現実的には田植えをする女性は老若を問わず少女とみなされたようで、誰もがみな早乙女なのである。田植えは辛抱強さが要求されるから、どちらかといえば女性に適った仕事だと思う。多くの句に詠まれている早乙女は、田植えを一気に片づけるために雇われた季節労働者だ。呑気に田植え歌などを歌いながらの仕事ではなく、日がな一日泥田を這い回る過酷な仕事をこなす女性たちのことだった。この句を読むと、作者が田植えの実践者であることがわかる。経験のない人には、なかなかこうは詠めない。というのも、後へさがりながら植えていく仕事だから、田植え人が気にするのは、いつも後方である。目の前にある植え終えた状態が成果なのではなく、後に残っっているスペースの狭さ広さが成果というわけだ。だから、自分とは無関係の田植えを見かけても、必ず反射的に「うしろ」を見てしまう。作者もそうやって見て、まだまだ「早乙女のうしろ」には広大なスペースが残されていている様子を詠んでいる。「しんかんたるつばめ」は単に黙って飛ぶ「つばめ」の状態を言ったのではなく、彼女らの後方に「つばめ」を飛ばすことで、残された仕事のための空間の大きさを暗示した言葉だと読める。漢字を当てるとすれば「森閑」よりも「深閑」に近いのかもしれないが、そのどちらのニュアンスも含めるために、あえて平仮名表記にしたのだろう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1352003

 昂然と仏蘭西日傘ひらきけり

                           櫂未知子

まどきの男は「日傘」はささない(昔の関西では、中年以上の男もよくさしていた)ので、「ひらきけり」の主体は女性だ。ところで、開いたのは作者自身だろうか、それとも目の前の相手だろうか。ふつう「昂然と」は他者に用いる言葉だと思うけれど、この句では自分の気分に使われたと読むのも面白い。なにしろそこらへんの日傘とは違って、「仏蘭西(フランス)」製なんだもんね。周囲に人がいるかいないかに関わらず、これみよがしにさっと開く気持ちには、昂然たるものがあるだろう。いざ出陣という気分。これが目の前の相手が開いたとすると、どこか尊大に見えてイヤ〜な感じ……。どちらだろうか。いずれにしても、人が日ごろ持ち歩くものには、単なるツールを越えた意味合いが付加されている。愛着もあるしお守り的な意味があったり、むろん見栄を含む場合もある。掲句の主体が誰であるにしても、言わんとすることはそういうことだろう。日傘は、単に陽射しを遮れはいいってものじゃないんだ。掲句を読んですぐに思い出したのが、津田このみの一句だった。「折り合いをつけにゆく日やまず日傘」。これも良い句だ。この日傘もツールを越えて、防御用か攻撃用か、とにかく作者はほとんど武器に近い意味合いを含ませている。男で思いつく例だと、ニュースキャスターの久米宏がいつも持っているボールペン(かな?)がそうだ。彼はあれでメモをとるわけじゃない。そんな場面は一度も見たことがないし、そんな必要もない。でも、片時も手放さないのは、彼にはきっとお守りか武器の意味合いがあるからなのだろう。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


May 1452003

 ナイターの黒人の眼にふと望郷

                           和湖長六

ょっと説明的かな。その点は惜しいけど、野球をテレビではなく球場でよく見ている人の句だと思った。サッカーなどとは違って、野球は休み休みやるスポーツだ。選手も観客も常にハイ・テンションでいるわけではなく、緊張感に緩急がある。そこが心地よい。だから観客は、ビールを飲んだり弁当を食べたりすることもできる。それがテレビで観ると、とにかく画面は無理にでも緊張を強いるように演出され作られているので、球場での楽しみの半分は減殺されてしまう。遠くの方で、ぽつんと取り残されているような選手の姿を写すことはない。作者は黒人選手の眼に、ふと彼の「望郷」の念を嗅ぎ取っているが、これも球場ならではの感じ方だ。テレビだと、どんな外国人選手も、仕出し弁当のようにそこに存在するのが当然だとしか見えないが、スタンドからは違う。「ああ、遠くからやってきた男なんだ」と、ひとりでに感じられる。だから、望郷という言葉にも違和感はない。掲句を読んで、それこそ「ふと」思い出されたのは、60年代の後半にヤクルトにいたルー・ジャクソン外野手のことだ。「褐色の弾丸」と言われて私も好きな選手だったが、グラウンドでの姿はいつもどこか寂し気だった。「助っ人」の哀しみを背負ったような男だった。そこそこの成績は残していたのだが、四年目の初夏のころだったか、突然打席のなかで倒れ、二度と立ち上がれずに死んだ。一説によると、日本の食事が口に合わず、焼鳥ばかり食べつづけた結果だという。遺体は、横田基地から軍用機でタンパに運ばれた。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


May 1552003

 をかしきや脚気などとは思へねど

                           星野麥丘人

ほど突発的な身体的変調をきたさないかぎり、病院に行く前に、私たちは自分の病気や病名の見当をつけていく。素人なりに、自己診断をしてから出かける。で、たいていの場合、自己診断と医師のそれとは合致する。外れても、大外れすることはあまりない。作者の病状はわからないが、なんとなくだるい感じがつづくので、診てもらったのだろう。ところが医師の口から出てきた病名は、自己診断の範囲から大きく外れていた。思いもかけぬ病名だった。ええっ「脚気(かっけ)」だって、それもいまどき。昔はよく聞いた病名だが、長らく忘れていた。周囲にも、脚気の人など誰もいない。それがよりによって我が身に発症するとは、信じられない。到底、そうは思えない。そんな気分を「をかしきや」と詠んだ。いぶかしくも滑稽に思えて、ぽかんとしているありさまがよく出ている。そういえば、私の少年時代には、膝頭を木槌でポンと叩く脚気の診断法があったっけ。それはそれとして、句の季語が「脚気」で夏に分類されていることをご存知だろうか。脚気はビタミンB1の欠乏症で、B1の消費が盛んな夏によく発症したからである。軽い場合には、食欲が減り疲れやすく脚がだるいといった症状で、作者もこの程度だったのかもしれない。さすがに現代では、一部の歳時記に出てくるだけだが、季語になるほど一般的な病気であったことが知れる。でもねえ、いまどき脚気を季語として扱うのはどんなものかしらん。よほど掲句を無季に分類しようかとも思ったが、かつての分類を知っている以上はそうもいかない。そこで一句(?!)。をかしきや脚気を季語とは思えねど。「俳句研究」(2003年6月号)所載。(清水哲男)


May 1652003

 起し絵の男をころす女かな

                           中村草田男

起し絵
語は「起し絵(おこしえ)」で夏。昨日につづいて「死季語」の登場です。極彩色の錦絵、浮世絵に鋏を入れ、芝居の舞台などを立体的に組み立てる遊びで、江戸から大正にかけて流行した。言うなれば、元祖ペーパークラフト。関西では「立版古(たてはんこ)」と呼んだ。夏の縁側などにこれを置き、蝋燭の明かりで楽しんだことから夏季に分類されてきた。句は、子供時代の回想だろう。ゆらめく灯のなかに、いままさに「男をころす女」の姿が不気味に浮き上がっている。母親や近所のおばさん、お姉さんとは違って、こういう怖い女の人もいるのかと凝視した。でも、当時は自覚しなかったけれど、ただ単に怖いというのではなく、どこかでその女の人に魅かれていたことも確かだった。いまだに起し絵の情景を鮮かに思い浮かべられるのは、そんな仄かな性の目覚めがあったからである。と、単純な句柄ながら含蓄のある句だ。ところで、起し絵そのものは昭和期以降急速に廃れていったが、系譜はのちの少年雑誌の組み立て附録として受け継がれ、現代でも紙製ではないけれど、ジオラマ風の展示物として博物館などで見ることができる。図版は、園田学園女子大学のHPより借用した。ちょっと暗くて見にくいが、近松半二作『妹背山婦女庭訓』山の段(吉野川)の組み上げ絵である。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


May 1752003

 出立の彼を頭上に溝浚う

                           岡本信男

語は「溝浚う(みぞさらう)・溝浚へ」で夏。都会では蚊などの発生を防ぐため、田舎では田植え前の用水の流れをよくするため、この時期にいっせいに溝を浚う。現代の東京あたりでは、溝やらドブは全くと言っていいほどに見られなくなっている。したがって、町内いっせいの溝浚いも姿を消した。先日、神戸の舞子駅に降りたら、駅のすぐそばに奇麗な溝のある住宅街があり、懐しかった。細い溝ても、多少汚くても、町の中に水が流れているのは良い気分だ。対して、句の溝は田舎の溝である。道路よりもかなり低いところにあって、幅も広い。作者が浚っていると、これから「出立」する「彼」が挨拶に来た。同世代の友人だろうか。ちょっと旅行に行くというのではなくて、都会に働きに行くのか、あるいは大学などへの入学のためか。いずれにしても、もうちょくちょくは会えない遠いところに出かけていくのである。そんな彼を見上げるようにして、作者も挨拶を交わす。自分とは違って、彼のパリッとしたスーツ姿がまぶしい。お互いの今いる位置の高低の差が、なんとなくそのまま未来の生活の差になるような……。都会へ都会へと、田舎を捨てて出ていく人の多かった時代の雰囲気をよく捉えた佳句だ。その後の長い年月を経た今、出ていった「彼」はどうしているだろうか。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


May 1852003

 アナウンスされ筍の遺失物

                           伊藤白潮

るい忘れ物。と言ったら、忘れた人に失礼か。でも、この「アナウンス」を聞いた人はみな、ふっと微笑しただろう。そして、もちろん掲句の読者も……。忘れるときには忘れるのだから、何故と問うのは愚問ではあるが、しかし、世の中には不思議なものを忘れる人がいる。聞いた話だけれど、入れ歯やカツラ、位牌や骨壷、さらにはコオロギ50匹を車内に忘れたなんてのもあった。また、これはよくあるらしいのだが、駐車場に車を置き忘れて、電車で来宅してしまう人。なかには、なんと人間を忘れる人も結構いるようで、デート中の彼女だとか、我が子だとか……。この我が子を忘れちゃった人は、かのミスター長嶋茂雄で、かなり有名な話である。ちなみに警視庁遺失物センターによると、昨年(2002年)度に届けられた拾得物の点数でいちばん多かったのが「傘」で、全体の20%ほど。以下、「衣類」「財布類」「カード・証明書類」「有価証券類」の順になっている。私も、傘は何本忘れたことか。ついでに職業柄の話をしておけば、作家からもらった原稿を、どこかに忘れた経験のある編集者も案外と多い。私が編集者だったころは、コピー機もなければワープロもなかった。正真正銘の生原稿をあずかるのだから、絶対に忘れてはいけないのだが、つい電車の網棚などに紙袋に入れたまま忘れてしまう。真っ青になって駅の遺失物係に駆け込んでも、紙袋などはまず出てこない。誰かに捨てられてしまうのである。だから私は、どんな大家の原稿であろうとも、背広の内ポケットにくしゃくしゃにして詰め込んで移動していた。といっても、まさか作家の目の前でくしゃくしゃにするわけにもいかないので、お宅を辞去してから百メートルほど歩いて、おもむろに破れないように丁寧にくしゃくしゃにしたものだった。俳誌「鴫」(2000年6月号)所載。(清水哲男)


May 1952003

 キューリ切り母の御紋を思い出す

                           三宅やよい

木瓜紋
語は「キューリ」で夏だが、「胡瓜」としないで「キューリ」としたところが、句の眼目だ。一般的にはもはや使われなくなった古風な「御紋」との対比が生きてくる。家紋には左右対称形の図柄が多く、また植物系のものも多いので、たしかに「キューリ」の断面は何かの紋に似ていなくもない。食事の用意をしながら、ふっと「母の御紋」を思い出した作者は、ちらりと当時の母の冠婚葬祭などでの立ち居振る舞いに思いが至ったのだろう。しかし、それも束の間、すぐに現実に戻って台所仕事をつづけている作者の様子が、この「キューリ」という故意に軽くした表現に読み取れる。句のように、私たちもまた、なんでもない日常の中で、ふとしたきっかけから瞬時身近にいた誰かれのことを思い出すことがある。そして、間もなく忘れてしまう。そのあたりの人情の機微を、「キューリ」一語の使い方で巧みに詠み込んだ佳句だと感心してしまった。ただ読者のなかには、あるいは「母の御紋」を何故作者が知っているのかと疑問に思う方がおられるかもしれない。母方の紋を代々娘が継ぐ風習は、多く関西地方に見られたもので、全国的ではなかったようだ。私の母も関西系だから、彼女の紋が「抱茗荷」と知っているわけで、他の地方の女性は嫁入り先の紋をつけたから、一つの家には一つの家紋というのが常識という地方が多かったろう。ちなみに、関西での男方の家紋は「定紋」と言い、女方のそれは「替紋」と呼んだ。ところで、掲句の紋はどんなものなのだろうか。図版の「木瓜」というのがある(織田信長の家紋で有名)けれど、胡瓜の切り口を図案化したものと言われはするが、本来は「カ(穴カンムリに巣と書く)」と呼ばれる鳥の巣を象ったものだそうだ。カとは地上に巣を作る鳥の巣であり、樹上に作られたものを巣と書いた。多産を祈った紋と思われる。ところで、あなたの家の紋所は何でしょう。ご存知ですか。恥ずかしながら、私は父家の紋をこれまで知らずに生きてきました。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


May 2052003

 漁歴になき赤汐や夏柳

                           瀧井孝作

者十五歳の句。光景を想像してみると、おどろおどろしくも恐ろしい。みどり滴る美しい「夏柳(葉柳)」の向こうに透けて、血に染まったような色の海がどこまでも広がっているのだ。土地の漁師がはじめて見た異常現象「赤汐(あかしお・赤潮)」の実感はかくやとばかりに、精一杯にそれこそ想像した作者のフィクションである。フィクションと断定できるのは、当時の作者が飛騨高山の在であり、もしかするとまだ海などは見たことがなかったかもしれないと思えるからだ。この句は、河東碧梧桐が新傾向俳句の普及のために全国をまわる途次、飛騨高山に立ち寄った(明治四十二年)ところ、地元の俳句好きの連中がいわば無理やりにとっつかまえた格好で、急遽開いた句会での作である。兼題は「夏柳」。最年少であった孝作少年は、天下の碧梧桐の新傾向を強烈に意識して、あえてフィクション句を試みたのだろう。魚問屋で働いていたので、知識のなかに「赤汐」はあったのだろうが、それにしても「夏柳」と取りあわせたところは才気煥発と言うべきか。じっくり読めば「漁歴(りょうれき)になき」の説明調にひっかかるけれど、この措辞には慎重に空想の野放図を押さえる配慮が働いていて、やはり才気を感じさせられてしまう。少年ならではの力業と、その抑制と。なにも俳句とは限らない。そして、昔とも限るまい。子供のなかには、こんな力を咄嗟に発揮できる者はたくさんいる。力の源にあるのは、おそらく一所懸命の心なのだろう。想像の世界も全力が尽くされていないと、享受者には面白くない。と、これはほとんど私の自戒の弁だけれど……。『瀧井孝作全句集』(1974)所収。(清水哲男)


May 2152003

 とほるときこどものをりて薔薇の門

                           大野林火

季咲きの「薔薇(ばら)」もあるが、俳句では一応夏の花に分類している。我が家の近所に薔薇のアーチをかけた門のあるお宅があり、今を盛りと咲いていて見事なものだ。よほど薔薇が好きだとみえて、垣根にもたくさん咲かせている。ときおり前を通るたびに、どんな人が住んでいるのかとちらりとうかがうのだが、その家の人を見かけたことがない。いつも、ひっそりとしている。そう言えば、一般的に薔薇の門のある家というのはしいんとしている印象が強く、邸内から陽気な人声や物音はまず聞こえてきたためしがない。作者にもそんな先入観があって、ためらいがちに門を通ったのだろう。と、門の奥のところに「こども」がいた。人家だから誰がいても当たり前なのだが、いきなりの「こども」の出現に意表を突かれたのだ。なんとなく大人しか住んでいない感じを持っていたから、「えっ」と思うと同時に、にわかに緊張感がほぐれていく自分を詠んでいる。今日見られるような西洋薔薇の栽培がはじまったのは、江戸後期から明治の初期と言われており、おそらくは相当に高価だったろうから、昭和も戦後しばらくまでは富の象徴のような花だったと言ってよいだろう。その意味でも、庶民に似合う花じゃなかった。ましてや、子供には似合わない。したがって、掲句の薔薇とこどもの取り合わせは、実景でありながら実景を越えて、浅からぬ印象を読者に植え付けることになった。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)などに所載。(清水哲男)


May 2252003

 舞へや舞へ片目つむりて蝸牛

                           多田智満子

語は「蝸牛(かたつむり)」で夏。『梁塵秘抄』に「舞へ舞へかたつぶり、……」と出てくる。が、掲句にそんな遊び心はないように思った。たぶん幼いころに、作者には「かたつむり」と「かためつむり」のイメージとが固く結びついてしまったのだろう。よくあることで、長じてもなお、蝸牛と聞くと「片目つむり」のイメージがつきまとって離れない。つまり、この句は大人の浅知恵でわざと幼児的な言葉遊びを試み、読者を面白がらせようとしたものではないと読める。学問的には何と言うのか知らないが、こうした幼児期の錯誤的な思い込みは誰にでもいくつかはあるようで、私にもある。多くの場合に絶好の笑い話の種となるが、しかし、時と場合によっては苦しみの種となることもある。ふとした折りに、どうかすると心の中でこの思い込みが肥大してきて、頭ではむろん錯誤とわかっていながらも、どうにもならなくなるのだ。振り払おうとしても、簡単には振り払えない。ならばいっそのこと逆療法で、錯誤の海に溺れてやろうとしたのが、掲句のテーマだろう。そうでなければ、『梁塵秘抄』からの着想にせよ、蝸牛に「舞へや舞へ」などと無理難題を持ちだしたりはできない。それこそ第一、イメージ的に無理がありすぎる。すなわち、苦しさを昇華させる苦し紛れの療法として、いささかの狂気をもって対峙する作者の姿勢が、一気呵成に句の姿として立ち現れたというところか。作者は長年にわたる現代詩の優れた書き手であったが、この一月に亡くなった。享年七十二。俳句は、自分の葬儀の会葬者に句集として手渡すべく、意識的に作句されたもののようだ。詩集ではなくて、なぜ句集だったのだろう。『風のかたみ』(2003・非売)所収。(清水哲男)


May 2352003

 ほとゝぎす女はものゝ文秘めて

                           長谷川かな女

正初期の作。当時の虚子の鑑賞があるので読んでみよう。「女といふものは男ほど開放的にし兼ねる地位にあることから、ある文を固く祕めて人にみせずにゐるといふのである。これが男の方だとたとひその祕事が暴露したところで一時の出来事として濟むのであるが、女になるとさうはゆかぬ場合が多い。それはもともと女が社會的に弱者の地位に在るといふことも原因であらうが、そりばかりでなく、元来女のつつましやかな、やさしげな性情から出発して来てゐるものともいへる。ほとゝぎすと置いたのは、主観的の配合で、ほとゝぎすといふ鳥は僅かに一聲二聲を聞かせたばかりでたちまち遠くへ飛び去つて姿はもとよりそのあとの聲も聞えぬ鳥である。さういふ鳥の人に與へる感じと、女のものを祕め隠す心持とに似通つた點を見出して配したものである」(『進むべき俳句の道』1959・角川文庫)。だいたいの解釈としてはこれでよいとは思うが、しかし、虚子の物言いはひどく曖昧だ。言い方を変えれば、諸般の事情に配慮しての鑑賞文である。かな女はこのときに、同じく「ホトトギス」の投句者であった長谷川零餘子の夫人であった。そのことは、虚子も承知している。承知しているばかりか「かな女君は長谷川家の家附きの娘さんであつて、零餘子君は他から入家した人である」と世間に「暴露」している。したがって、虚子が掲句に注目したポイントは、この鑑賞文にはほとんど何も書かれていないということだ。……なんてことを言う私のほうが下世話に過ぎるのかとも一瞬思ったけれど、そんなこともないだろう。淡くぼかしてはあるが、それでも相当な勇気をふるって投稿した作者は、このように鑑賞されたのでは不本意だったに違いない。与謝野晶子の『みだれ髪』が世に出てから、ゆうに十年以上も経っていたというのに……。かな女のライバルであった杉田久女は、虚子に同人除名という仕打ちにあったずいぶん後で「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」と詠んだけれど、虚子の「社會的」(「経営者的」と言える)なバランスを重んじすぎる感覚に無言ながら不満だった人は、けっこういたのではなかろうか。(清水哲男)


May 2452003

 老人よどこも網戸にしてひとり

                           波多野爽波

や戸口を「どこも網戸にして」開け放っている家。その家の中にいる人の姿が、通行する人にぼんやりと見えている。老いた人が、ただひとりぽつねんと坐っている情景だ。誰もまじまじと見たりはしないのだけれど、瞥見しただけで、残像がしばらく網膜に焼き付く。辛そうだとか寂しそうだとかという思いからではなく、いわば「老人」の定型がそこにあるような心持ちからである。はじめて目にした人でも、何度となくこれまでに目撃したことがあるような思いを抱く光景であり、さもありなんと納得できるという意味で、定型なのだ。この老人は作者ではない。が、作者自身でもある。たまたま見かけた情景にさもありなんと納得し、納得した途端にあの年寄りと同じように老いている自分にあらためて気づいたのである。「老人の」とすれば他人事だが、「老人よ」と自分にも呼びかけている。あるいは、自分についても詠嘆している。爽波は第一句集『舗道の花』(1956)のエピグラフに「写生の世界は自由闊達の世界である」と書きつけた。終生、一貫して頑固なまでにこの道を歩きつづけて、掲句のようなさりげない光景から自由闊達に不思議な世界を見せてくれたのだった。現実を異化する力とでも言えばよいのか、そのパワフルな作句姿勢の根底にあったのは、自分という存在に対する飽くなき好奇心であったと思う。このことについては、また折々に具体的に述べていきたい。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


May 2552003

 辞する背に消さる門灯梅雨寒し

                           後藤雅夫

雨のまっただ中で掲句を読むのはいかにも鬱陶しいので(つまり、それほどの力がある句なので)、いまのうちに掲げておきたい。既に梅雨入りした地方のみなさまには、すみません。その家を辞して、わずかばかり歩いたところで、背後の「門灯」がふっと消えた。ただそれだけのことなのだが、ちょっとイヤな気分だ。もしかすると、自分は歓迎されざる客だったのではないか。調子に乗って長居し過ぎてしまったのではないか。だから、家の人がせいせいしたと言わんばかりに、まだ自分を照らしているはずの門灯を情け容赦なく消したのではないか。そんな思いが心をよぎって、いよいよ梅雨の寒さが身にしみる……。いや逆に「梅雨寒」の暗い夜だからこそ、そうした余計な猜疑心が湧いてきたのかもしれない。先方は、ちゃんとタイミングを計ったつもりで、他意無く消しただけなのだろう。などと、たった一つの灯が早めに消えたことでも、人はいろいろなことを感じたりする。かつての編集者時代を自然に思い起こして、つくづく人の気持ちの不思議さ複雑さを思う。いまのようにファクシミリもメールもなかった頃には、とにかく著者のお宅にうかがうのが重要な仕事の一つだった。夜討ち朝駆けなんてことも、しょっちゅうだつた。著者自身はともかくとして、家の人には迷惑千万のことが多かったろう。明らかに悪意を込めて応対されたことも、あった。玄関を出た途端に、パチンと明かりを消される侘しさよ。著者よりも、まず奥さんに気に入られないと仕事にならない。仲間内で、よくそんなことを言い合ったものだ。文壇三悪妻、画壇三悪妻などと陰口を叩いて溜飲を下げたつもりの若き日に、掲句が連れて行ってくれた。脱線失礼。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)


May 2652003

 尺蠖に瀬戸大橋の桁はずれ

                           吉田汀史

語は「尺蠖(しゃくとり・尺取虫)」で夏。パソコン方言(?!)で言うならば、普通の(笑)を通り越した(爆)の句だ。「瀬戸大橋」は見たことがないけれど、先日、その三分の一ほどの長さの明石海峡大橋を眺めてきたばかりなので、句集をめくっているうちに、句が向こうから飛び込んできた。瀬戸大橋の構想は既に明治期にあったそうだが、架橋によって発生した諸問題はひとまず置くとして、人間というのは何とどえらいことを仕出かす生き物なのだろうか。というのが、明石大橋を間近に見ての実感だった。この句に企んだような嫌みがなく素直に笑えるのは、作者がまず、そのどえらいこと自体に感嘆しているからだ。全長約10キロに及ぶ長い橋に体長5センチほどの「尺蠖」を這わせて長さを測らせるアイデアは、簡単に空想はできても、空想だけでは「桁はずれ」とは閉じられない。なぜなら、「桁はずれ」とはあまりに出来過ぎた言葉だからだ。空想句の作者だと、そのことがひどく不安になり、なんとか別の言葉で少しでもリアリティを持たせようとするだろう。が、掲句の作者は堂々と「桁はずれ」とやった。大橋のどえらさを、実感しているからこその措辞である。このどえらさを前にしては、出来過ぎも糞もあるものか。そんな心持ちが伝わってくる。あるいは読者のなかには、「桁はずれ」に「(橋)桁外れ」の黒いユーモアを読もうとする人もありそうだが、そこまで斟酌する必要はないだろう。直球一本句として読んだほうが、よほど愉快だ。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


May 2752003

 昼酒や真田の里の青あんず

                           井本農一

語は「あんず(杏)」で夏。「真田の里」といえば、智将真田幸村(信繁)などで知られる真田家発祥の地の長野県真田町のことだが、近くの更埴市が杏の名産地であることを考え合わせると、必ずしも真田町で詠まれた句と限定しなくてもよいだろう。なによりも、ゆったりとした句柄に惹かれる。時間軸に真田家三代の歴史を置き、空間には鈴なりの杏の珠をちりばめ、そのなかの一点で、作者が静かに昼の酒を味わっている構図の取り方が、実にさりげなくも巧みと言うべきだ。まだ熟していない「青あんず」には、悲劇のヒーロー・幸村の、ついに一歩及ばず熟することのなかった夢が明滅しているかのようである。そして、いかにも旨そうな酒の味。こんな酒なら、日本酒を飲まない私も、少しは付きあってみたくなった。でも、駄目だろうな。とても、こんなふうには詠めないという自信がある。元来が短気でせかせかした性格だから、とりわけて旅行中などは、なかなかゆったりとその場その場を味わうことができないからだ。次へ次へと、旅程のことばかりが気になるのである。逆に、そんな性格だからこそ、掲句のゆったりした世界に惹かれるということだろう。泰然たる人を見かけると、いつだって、つくづく羨ましいと思ってきた。それこそ、ついに熟することのない私のささやかな夢が、掲句にくっきりと炙り出された格好だ。作者の井本農一は、中世・近世文学、特に俳文学が専門の学者で、『日本の旅人・宗祇』『おくのほそ道をたどる』『芭蕉=その人生と芸術』など多くの著書がある。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


May 2852003

 蟻地獄ことのあとさき静かなる

                           杉浦恵子

語は「蟻地獄」で夏。蟻などの小さな昆虫を捕らまえて食べることから、この名がついた。こやつは幼虫(成虫が薄羽蜉蝣)ながら、まことに無精にしてずる賢さに長けた虫だ。などと安易に擬人化してはいけないのだが、とにかく砂地に適当に穴を掘って、日がな一日じいっと獲物が落ちてくるのを待っている。昔は、縁の下などでよく見かけたものだ。句の「こと」は、獲物を引っかけた直後に起こる惨劇を指しており、なるほどその「あとさき」は何事もなかったように不気味に静まりかえっている。直接的には、この解釈でよいだろう。が、句はここで終わらない。惨劇を「こと」とぼかしたことにより、この「こと」について読者が自在にイメージをふくらますことができるからである。それでなくとも蟻地獄という言葉自体が連想を呼びやすく、加えて「こと」のぼかしなのだから、たとえ意識を直接的な出来事だけに集中したとしても、イメージはおのずからふくらんでしまうと言うべきか。つまり、読者は自然に虫の世界の出来事から浮き上がって、程度の差はいろいろあるにしても、人間世界のあれこれに思いが至ってしまうのだ。作者が、どこまでこの構造を意識して詠んだのかは知らない。が、そんなこととは無関係に、掲句は、いやすべての俳句は、このようにして勝手にひとりで歩いていく。『旗』(2002)所収。(清水哲男)


May 2952003

 噴水が驛の板前のごと頭あげ

                           竹中 宏

だまし絵
語は「噴水」で夏。何故、こんな絵を持ち出したかについては後述する。句の実景としては、「驛(駅)」の噴水が「頭(づ)」をあげたところだ。その様子が、多く下俯いて仕事をする「板前」職人がふっと頭を上げたように見えたと言うのである。という解釈は、実はあまり正しくない。問題は「驛の板前のごと」だ。実景は「驛に」であり、作者もそこから出発してはいる。だが、見たままをそのまま書いたのでは、この噴水の様子に接したときの自分の気持ちがきちんと表せない。「驛に」としたのでは、どこか不十分なのだ。そこで、強引に「驛の板前」と現実を歪めてみて、やっと自分の感覚に近くなったということだろう。実際には存在しない「驛の板前」を句中に置くことにより、何の変哲もない噴水の様子が異化され、作者にとってのリアリティが定着できたのだった。この方法は、サルトルの詩論に出てくる「バターの馬」と同様で、日常的には無関係なバターと馬とをくっつけることにより、そこにぽっと詩が浮き上がってくる。いままで見えなかった世界が、眼前に開けてくるのだ。作者は新しい句集の自跋で、アナモルフォーズという絵画図法について、熱心に述べている。美術の世界ではお馴染みの用語であるアナモルフォーズは、簡単に言うと「だまし絵」的な描画法を指す。この絵はハンス・ホルバインの『大使たち』(1533)で、アナモルフォーズというと決まって引き合いに出される有名な作品だ。さて、何が見えるのか。二人の男と雑多な器物は、誰にでもそのままに見える。が、注意深く見ると、絵の下方になにやら奇妙に傾いた板状のものがあることに気がつく。何だろうか、これは。と、いくら目をこらしてもわからない。わからないはずで、ホルバインはこの部分だけを正面からの視点で画いてはいないからだ。視点をずらして画面の右横あたりから見ると、くっきりと見えてくるものがある。はて、何でしょう。つまり、この絵で画家は、一つの視点から眺めただけでは世界の諸相や真実はとらえきれないと言っているのだ。アナモルフォーズを巡る議論は多々あって、とてもここでは紹介しきれないので、関心のある方はそれなりの書物を開いていただきたい。掲句に戻れば、「驛に」が正面からの視点だとすると、「驛の」が右横からのそれである。この二つの視点を、重ね合わせて同時に読者に差し出しているという見方が、私の解釈の出発点であった。『アナモルフォーズ』(2003・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


May 3052003

 蜘蛛の圍に蜂大穴をあけて遁ぐ

                           右城暮石

川博年が、神田の古本屋で見つけたからと、戦後十年目に出た角川文庫版の歳時記を送ってくれた。現在の角川版に比べると、例句はむろんだが、項目建てもかなり違っている。たとえば掲句の季語「蜘蛛の圍(くものい)」も、いまでは「蜘蛛」の項目に吸収されているけれど、その歳時記には独立した項目として建てられている。それほど、まだ蜘蛛の巣がポピュラーだったわけだ。ついでに、解説を引いておこう。「蜘蛛そのものは決して愛らしい蟲ではないが、雨の玉をいつぱいちりばめて白く光つている網は美しい。風に破れた網は哀れな感じがする。つくりかけてゐる網を見てゐると迅速で巧緻なのに驚く」。掲句の句意は明瞭で、解説の必要はない。誰にでも思い当たる親しい光景だった。網を破られた蜘蛛がかわいそうだというのではなく、作者はむしろ微笑している。蜘蛛の巣はそれこそ「迅速に」何度でも再生できるので、心配する必要がないからだ。田舎での少年期には、蜘蛛の巣にはずいぶんとお世話になった。針金を円状にして竿の先に付け、こいつに蜘蛛の巣を巻き付けて蝉捕りをやった。まあ、蜘蛛の餌捕りの真似をしていたわけだ。油蝉などはたいていの蜂よりもよほど強力だから、句のような弱い網だと、簡単に遁(に)げられてしまう。だから、太くて粘着力の強い蜘蛛の巣を見つけるのが一苦労で、実際の蝉捕りより時間がかかることも多かった。やっと見つけて、慎重にくるくると巻き付ける感触には何とも言えない充実感を覚えたものだ。本当はこんなことがお釈迦様に知れるとまずいのだけれど、ま、いいか。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


May 3152003

 螢火を少年くれる少女くれず

                           橋本美代子

語は「螢火(ほたるび)」で夏。何人かの友人知己とその子供たちと一緒に、蛍狩りに出かけた。帰りがけに、螢を捕らなかった作者に気のついた「少年」が、「あげるよ」と言ってくれた。しかし、そんな様子を見ていた「少女」は、くれるそぶりも見せないのだった。一般論として、このシチュエーションはよくわかる。私の体験からしても、少女よりも少年のほうが、万事に気前がよろしい。女の子は、総じてケチである。でも掲句は、そういうことだけを軽く詠んだのではないと思う。少年と少女の行為は並列されているけれど、実は作者の心中の焦点は、少年にではなく少女に合わされているのだと考える。たかが螢ごときを後生大事に抱え込んで離さない少女の性(さが)が、同性である作者にはよくわかるからだ。彼女がくれなかったのは、単なる吝嗇からというのではなくて、もっと女に根ざした深いところから発していることが……。そのことが哀れとも思われ、悲しさとも写る。むろん、この暗い思いは、少女を通じて作者自身にも向けられている。一見さらりと言い捨てたような句のなかに、作者の哀感が、それこそ闇夜の螢火のようにか細くも明滅している。作者・橋本美代子は橋本多佳子の四女にあたる。『巻貝』(1983)所収。(清水哲男)




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